●ディックの『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』で、主人公のバーニイがチューZという薬の作用で幻覚によって過去を再び経験している時、その世界のなかにいるバーニイはそれを幻覚とは意識せずに現実として経験しているのだが、そこでその幻覚を「現実」として信じることを無意識に支えている基盤が揺らぐ場面の描写の感触がなまなましくてドキッとする。
《「なにかがくるってる」と、バーニイ。「きっと、エルドリッチの手にもおえなくなったんた。早く彼に会わなくちゃ。彼なら説明してくれるだろう」とたん彼はパニックにおそわれた。水銀のようにすばやく、とらえにくく、じわじわと広がるパニックだった。それは彼の指先にまで沁みわたった。》
この感じに、ぼくも憶えがある。24歳くらいの時、ある(きわめてありふれた)原因から、一、二か月くらい、とても不安定なヤバい感じの時期があり、その時にしばしば、現実を現実として支えているものの一部が、メッキが剥がれるみたいにポロッと落ちて、その下から異様な何かがぬっと出て来るかような感じの経験をした。現実世界の構成を潜在的に可能にしている基底が剥落してしまいそうな感覚、見えないところで世界を支えている基底がぐらぐらと揺らいでいるような感覚に襲われたのだった(実際、「それ」がくる予兆として、地面がぐらぐら揺れてるように感じられることがあった)。それをぼくはずっと、理由のない不安と焦燥感、ざわざわする、いてもたってもいられない感じ、と自分に対して表現してきたのだが、それはまさに、《水銀のようにすばやく、とらえにくく、》《指先にまで沁みわた》るような「パニック」というようなものだった。それはパニックとはいえ、身体的、感情的な表現形(表象)をもたない(叫んだり暴れたりしない、外からみたら、たんにぼーっとしているとしか見えないだろう)。ただ、「それ」がいきなりガツンとくきて、呑み込まれそうになる。そして、「それ」が去った後にその余韻として、これに完全に巻き込まれてしまったらどうなってしまうんだという、狂気への強い恐怖がやってくる。
「それ」は、昼間、人ごみのなかや、人と会っている時にやってくることもあった。その時、周囲に人がいること、人といることが限りなく苦痛になるのだが、それでも、まだどこかに「他人からの視線」を意識している部分が少しは残っていて、ぼくのなかに僅かに残留する「他人の視線」が、現実が(というか、現実を構成するものとしての自分の頭が)崩壊してしまうのを辛うじて食い止め、世界を繋ぎ止めてくれていたのだと思う。しかし、「それ」が夜中にふと目覚めた時に起こると(というか、「それ」によって目覚めさせられる、という感じなのだが、ある予兆とともに意識が浮上してくる、あの嫌な感じ)、そこでは他人の視線への意識は作動しないから、パニックは一気に全身にまわり、世界の崩壊の予兆が空間全体に行き渡ってしまう。このような時にぼくのした対処法は、とにかく、単調で、無意味で、しかし具体的な行為をひたすら繰り返し行う、ということだった。特定の目的をもたず、意識を集中させる必要なく容易に出来て、しかし確実に規則的に体全体を使うような行為を反復する。具体的には、まず歯を磨きはじめる。そして、歯を磨きながら、部屋のなかを延々とぐるぐる歩き回り続ける。落ち着くまで、再び世界-現実の秩序(感触)が確実なものに感じられるようになるまで、ひたすらこれを繰り返すことで、崩壊の予兆に耐えた。というか、とにかく全身がざわざわしていて、何かしてないと、いてもたってもいられないのだった。しかし、何かに持続的に意識を向けるつづけることにも耐えられないのだ。おそらく、ぼくがこの時していたのは、頭のなかの秩序が崩れそうなのを、単調で秩序だった行動をすることで、身体的な行為の制御を作動させ、それによって世界-外的環境との通路をなんとか繋ぎ止め、支えていたのだと思う。
この不安定な時期は、ある日突然嘘のように引いていった。それはラッキーだったとしか言えない。まだ若かったので、なんとか体力で踏みとどまれたのだと思う。それ以来、そのようなヤバい状態になったことはないのだが、あの、パニックが体じゅうに満ちてくる、底が抜けるような感触は、その後にやってくる激しい恐怖感と共に、ぼくの体のなかにかなりくっきりと残っている。(あれはもう、二度と嫌だけど)。この時の感触は、ディックが小説で描いている感じにとても近いように思う(ディックの経験は薬物によるものなのだろうが、ぼくはその経験はない)。
●ここまで書いてきてふと思ったのだが、いま、ぼくが毎日のようにしている散歩は、「歯を磨きながら、部屋のなかを延々とぐるぐる歩き回り続ける」という行為にとても似てるんじゃないだろうか。
●昨年末から、調子にのって、展覧会とかダンスとか演劇とかイベントとか映画とかにずいぶん行ってしまったので(でも、そのおかげで幸運にも良い作品がたくさん観られた)、いよいよ苦しくなって、ご飯にごま塩かけて飢えをしのぐ状態で(お米が食べられること、住む部屋と電気ストーブがあることに感謝しています)、基本的に、喫茶店で本を読んだり原稿を書いたりしているのだけど、そこでの毎日のコーヒー代(300円)も厳しくなりつつあり、マクドナルド(コーヒー120円)への移行を検討中なのだが、マックは高校生でうるさいから問題ありなのだった。お金がないので、否応なくアルコールの量が減るのはいいことなのだった。