●お知らせ。「國文学」2月臨時増刊号(特集 白・白・白--白は色ではない、抵抗である)に、『「絵画のなかの白い部分」をめぐる覚え書き--キャンバスの地の白』という文章を書いています。掲載誌が今日届きました。このような特集、このようなタイトルではありますが、「白」についてというよりは、今、自分が作品を制作している時の興味のあり様について、かなり自由に書かせてもらっています。約、一万字くらい書きました。発売は28日。
●『えび』(池田将)をDVDで。この映画を観た人はおそらくみんな、最後のシーンにびっくりすると思う。正直、最初からずっとこの映画を観ていて、まあ、かっこいいんだけど…、とか、諏訪敦彦が『亀』についてのコメントでツァイ・ミンリャンという名前を出していたのはこういうことだったのか、とか、思いながら観ていて、決してつまらなくはないけど、そんなに面白くもないという感じだった。確かに、技巧的にはかっこよくて、相模線に乗っている男が空き缶を拾って電車から降りるカットと、それにつづく、公園でプラモデルをつくっている男のカットとの(音も含めた)繋げ方とかには、おおーっ、と思ったし、『亀』にヒモ役で出ている人なんか、中国語を話しているせいもあると思うのだが、本当にアジアの映画スターみたく格好良く撮られていたりするのだが、それにしても、内容に比べて技巧が過剰過ぎるというか、絵にしすぎているというか、なにより、いろいろ遠回しにし過ぎる(人物への距離が「遠い」感じがする、たんにカメラの位置ということじゃなくて)、という感じがして、もっとシンプルでいいんじゃないだろうか、という思いをずっともって観ていた。三人の男のキャラクターも、はじめからそのコントラストを狙って選ばれた感じがする。しかし、延々とつづく最後の公園の男たちのシーンがはじまると、あれっ、と、今までとちょっと様子が違うのに気づき、次第に、これは凄いんじゃないかと思いはじめ、徐々に引き込まれ、観ている姿勢も正してゆき、観終わった時には、映画-映像にはこんなことも出来るのか、やっぱりこの監督は凄い人だ、とすっかり感心させれらてしまうのだった。
映画では、設定はつくられ、状況は様々な組み合わせ(ロケ地、美術や小道具、キャスティング、カメラの位置等々)によって事前に準備されるのだが(つまりフィクションの次元にあるのだが)、その様々なものや人や空間の組み合わせの作用によって「そこ」に起こる出来事や、それによって実際に流れる時間は、現実に、その時、そこで起こったことが(何度もりテイクし、やり直されながらも)記録される。そして記録された「それ」は、(その場での諸関係が)そのまままるごと保存され、上映によって何度も反復される。映画監督のやることといえば、カメラがまわっているその時に、そこに何かしらの事件を発生させるために、様々な人や物を配置し、それらの関係を調整し、その諸関係に力学的な働きかけをする「一押し」をして、あとは、ただ出来事に耳を澄ませるということなのだろう。監督の能力-資質とは、その関係への配慮や、そこへの働きかける時の(その人自身の生や存在そのものと切り離せない)「やり方」にこそあらわれるのだろう。でもこれば、別に映画監督に限ったことではないけど。
とにかく、この、最後の場面(十分以上つづくワンカット)だけでも、『亀』まるまる一本全体と拮抗し得るんじゃないかとさえ思うほどだった。というか、このワンカットが成り立ち得たからこそ、その確信があったからこそ、『亀』があるのだろう。(あと、『亀』といい、この『えび』といい、この監督の映画では魚肉ソーセージが異様に生々しい。)