●横浜開港記念会館に「We dance」というイベントを観に行く。ぼくが観たのは、きたまり、神村恵、山下残
ぼくにとって圧倒的に面白いのはやはり神村恵で、この人の動きは軸がないというか、体の各部位がそれぞれ勝手に、バラバラに動いていて、その結果として体全体の動きがあるという感じで、なんというか、捉えどころがない、変な感じ。人間の体は、骨に肉がついているのだが、骨の動きと肉の動きとのブレまで感じられるというのか。比較するような言い方は申し訳ないのだが、きたまりの動きは、軸にまったくブレがなくて、どんなに崩したような動きをしていても、常に安定感があり、体全体のかたちとしてもきれいで、動きにも切れがあるのだが、神村恵の動きは、体全体という感じが捉えられない感じで、ある意味不格好で、決まった「かたち」から「うごき」が常に溢れ出してゆく感じがする。動きの捉え難さが、時に軽さとして、時に重さ(体の量感)として感じられたりするのも面白い。ダンスを観ていて、体の「重さ」を感じるというのは珍しい気がする。アフタートークでも話されていたけど、音楽との関係もすごく微妙で、どこまで音楽と動きとか関係していて、どこからが無関係なのかがよく分からない、その同期と非同期との微妙な行き来も面白い。音楽と体とが別々にあり、時にクロスしたり、離れていったり。ただ、20分弱くらいのソロだと、こちらの目が、その動きの捉え難さにようやく対応出来始めたというところで終わってしまう感じではあった。
山下残の作品は、神村恵とはまったくちがった感触で、そこには、まず「人柄」みたいなものが前面に見えて来る感じがする。人柄とか言っても、山下さんという個人のことはまったく知らないので、作品としての「人柄」、作品の人柄、とでもいうようなものなのだが。例えば、ある作品が、非常に厳しく、それ自身として完結してあり、他人を寄せ付けない、敷居の高い孤高の表情をもっている場合もあれば、もっと気楽に、ゆるく、人がそこに気軽に触れられるような感触をもった作品もあって、そのどちらが良いとか悪いとかではなく、それはまさに、作品としての人柄としか言いようのないものなのではないだろうか。「ゆるさ」とかいうとすぐに、だらしない身体とか形式的な冗長性とか、そういう話になるのだが、そうではなく、人がそこに気軽に触れられる雰囲気というのか、「話しかけやすい人」みたいな感じで、作品が開いている感じがするのが、山下残の作品のもっとも魅力的なところではないだろうかと感じた。こればっかりは、そうしようと思って、そうできるというものではなく、作品として、あるいは作家としての人柄としか言えないようなものだと思う。例えば、神村恵の動きはある意味不格好でもあり、ユーモラスであるのだが、それはこちらが圧倒されるような凄い何かで、そのダンスを観て「笑う」というのは考えにくいのだが(とはいえ、どこか「ゆるい」感じのところはあって、というか「外した」感じが面白いので、人を寄せ付けないという感じではないのだが、だが基本的にとてもストイックで求道的な感じがする)、山下残の作品では、はじめから「笑ってもらっても全然OK」みたいな雰囲気、「そんな構えなくっても大丈夫っすよ」みたいな雰囲気を、作品それ自体が発しているように思えた(ただ、それにしても観客はちょっと安易に笑い過ぎで、その点はちょっと嫌な感じがした)。
ここからは山下さんの作品とはまったく関係のない話なのだが、やっぱ人柄っていうのはどうしても動かし難くあって、そして、人柄っていうのは八割がた見かけで決定するのではないかと思う。見かけっていうのは、たんに姿形ということではなく、物腰とか声とか喋り方とか仕草とか人当たりとか含めたもので、同じことを言っても、あの人が言うのとこの人が言うのとではまったく感触が違う、というようなことだ。人柄が見かけににじみ出るということも当然あるのだろうが、むしろ、見かけこそが人柄をつくる、という感じではないか。人柄というのは、自分で決めることが出来るものではなく、他人がその人に対して判断するもので、しかも、言語化、意識化するよりも前で既になされてしまっている判断で、それはやはり物腰とか雰囲気としか言えないようなもので、とはいえそれはたんなる外面とは言えないその人の内的実質を(おそらくは)かなりの程度で捉えてもいて、それがその人の、対人的世界の接触面をかたちづくっているわけで、それは意識的な操作が出来ないもので(ある程度は可能だとしても、基本的にはメッキは剥がれるものだと思う)、しかも動かし難くあり、それは作品という次元でも確実にあるんだよなあと、自分自身にうんざりしつつも、思うのだった。本当は、作品は「そこ」を超えなきゃいけないものだとも思うけど。
●昼過ぎに会場に入って、夕方まで居たのだが、同じ建物の中に長時間居る時、最初は、屋内よりも屋外の方が明るくて、窓の外から光が射してまぶしい感じなのに、ある時ふっと、屋外が薄暗くなっていて、屋内の照明の光がやけに眩しくなって逆転しているのに気づくと、「時間が経ってしまった」ということの寂寞感のようなものがぐわっと襲ってきて、その感情のなかに呑み込まれる感じがぼくにはよくあるのだった。小学生の時など、それだけで泣きそうになってしまうことがしばしばあった。今日も、昼間はとても良い天気で、屋内で窓から射す光の強さを眩しく感じていたのに、あるダンスが終わってアフタートークになったとき、ふと外を見るとすっかり暗くなっていて、天井からの明かりが刺すようなキツい感じで目に入ってきた時、その感情に包まれ、そのアフタートークという場そのものが、すーっと遠ざかって、世界が遠のいてゆくように感じられたのだった。その事の方がダンスより強く残ってしまう、というのもどうかと思うのだが。