●水曜日はツタヤのレンタルが半額の日で、何本か借りたついでに、特になんという理由もなく、なんとなく目について「私を借りろ」と言っているように感じられたので「やりすぎコージー」のネイチャー・ジモンを特集したDVDを借りた。一日、原稿を書いたり読んだりして頭が疲れているので映画などを観る気はおきなくて、眠くなるまでだらだら観るつもりでそのDVDをかけたらこれが素晴らしくて、深夜もどんどん深くなってゆくのにだんだんと興奮してきて、終った時には、ネイチャー・ジモンすげえ、彼こそほんもののアーティストだ、ネイチャー・ジモンに弟子入りしたい、というか、ネイチャー・ジモンになりたい、と、すっかりハイな状態になる。これはけっして、バラエティー番組のためのキャラではないだろう。
ネイチャー・ジモンは手つかずの原生林のなかに何日も、数週間も籠ってオオクワガタを穫るという。ネイチャー・ジモンの話で面白かったのは、「動物は鈍感だ」という話で、山に入って二、三日すると、だんだん体が山と同化してきて、蚊にも刺されなくなる、と。そして、夜、気配を消して木の根元で眠っていたりすると、体を擦り付けるくらいの近くを鹿が通り過ぎたりする。鹿は自分の存在に気づいていない、という話。それと、ジャングルの中ならヒクソン・グレイシーに勝てる、という話。そんなこと言って、あなた、井の中の蛙でしょうとつっこまれたジモンが、なに言ってんの、あっちの方が井の中の蛙だ、と。つまり、スボーツというのは、はっきりと定められたフレームがあり、その定められた枠の中で最大限の効果を発するということが競われるのだが、ジャングルや山のなかには、そんなあらかじめ確定されたフレームなんかないから、自分にも勝てるチャンスは充分にある、と。これはものすごい正論だと思うのだが(というか、これこそが「芸術」の思考だと思うのだが)、この正論が一見暴論に聞こえてしまうところに、人間の思考を縛るフレームがあるのだ。あと何よりも、実際に山に入っていった時の映像で、ネイチャー・ジモンの興奮が手に取るように伝わって来るのがすばらしい。「山に入ると精子が濃くなる」という言葉がまったくマッチョに響かない空間が山なのだった。テレビで観ていて今まで一度も面白いと思ったことのない寺門ジモンが、別人のように生き生きしていて、なんかしらないがすごく「うれしい」という気持ちになる。
とはいえ、番組で一緒に山に入っていたネイチャー・ジモンの師匠にあたる人に比べれば、ジモンは「山の人」として、初級ではないにしろ、せいぜい中級くらいの人なんだろうとも思う(ネイチャー・ジモンには、半分、ミリタリー趣味が混じってるし)。師匠は、山に入ってもジモンみたいに興奮したりせずに淡々としているし、ジモンのような異様な筋肉も必要ないみたいだ。この師匠の映像を観ていると、中上健次の『地の果て、至上の時』に出て来る六さんとかが、こんな感じの人なのかなあと思ったりする。しかし、生半可であることによる、生硬で瑞々しい(そして鬱陶しい)、興奮というものがネイチャー・ジモンからは感じられる。あと、熊谷守一は、母親が亡くなった後六年くらい実家でまったく絵も描かずぶらぶらしていたのだが、そのうち二年(ふた冬)ほど、山の中でヒヨウという仕事をしていた。《ヒヨウは伐採した材木を川に入れて、筏の組める水量のあるところまで運ぶ仕事です》(『へたも絵のうち』)。がっしりとしたガタイの、三十代のクマガイのイメージが、ネイチャー・ジモンと重なったりもする。テレビカメラは、山のほんの入口くらいまでしか入ってはいけない。本当に凄いものを実際に見ることが出来るのは、ごく一部の限られた、道を極めた人だけなのだ、と、改めて思う。カメラが入ってゆける場所など、本当は大したことはないのだ。
ネイチャー・ジモンと荒川修作が交錯するところ。そういう場所に芸術の秘密があるような気がする。気がするだけだか。とにかく、いまごろ?、という感じなのだろうけど、「やりすぎコージー」の四巻はすごく面白い。