●昨日一日、ジョン・レノンの名前がどうしても思い出せなかった時、記憶喪失というのはきっとこんな感じなのだろうと感じられた。たんなるど忘れなのだが、本当に文字通り「ジョン・○○○」という感じで、「○」の部分が真っ白というか真っ暗で、知らないはずがないことなのに、そこへと至る経路が閉ざされてしまっていて、それはまさに頭のなかに深い穴が空いてしまったようで、「それを知っていたはずだ」という記憶の方があやしく感じられてしまうほどだった。思い出せないというよりも、この世界にははじめから「○○○」の部分など存在しなかったかのようにさえ感じられてしまう。勿論、ジョン・レノンの存在そのものを忘れてしまったわけではないし、その顔は思い浮かべられるし、何枚かのジャケットも、曲そのものも思い浮かべることができる。そして、彼は「ジョン」と呼ばれている、ということも、すんなり思い出せる。しかし「ジョン」の先が真っ白なのだ。ジョン・ンンン、と、たしかリズムとしてはそんな感じのはずなのだが、それでもその続きは、ジョン・フォードとか、ジョン・ケイルとかの方にするっと逃げていってしまう。喉元まで、舌先まで出かかっている、というのでもなく、ジョンまでは明確なのに、その先がいきなりガクンと空白となるのだ。固有名をど忘れした時は、そのビジュアルイメージを思い浮かべるとけっこうすんなり出てきたりもするのだが、ビジュアルイメージが明確になればなるほど、「○○○」の部分の「真っ白」さが一層、なんの手がかりもない何も無さとして、どうしようもなく空白の穴となる。
そして、部屋に戻って「ビートルズ、ジョン」で検索して出てきた「ジョン・レノン」という文字を見た時の気持ち悪さ。それは、記憶が蘇ったとか、知っていたものが回帰した、という感じとは、かなり違っていた。そうそう、確かに「ジョン・レノン」だった、というのではなく、まったく違う世界からいきなりあらわれた「ジョン・レノン」という名前が、その時に強引に頭に入り込んで、摺り込まれて、無理矢理に納得させられた、みたいな感触だったのだ。一度なっとくさせられてしまえば、もう、そうではなかった可能性についてなど想像すら出来なくなる。しかし、まるで、昨日までは、あの人は「ジョン・レノン」とは違う名前で知られていて、今日から世界全体が誰も知らないうちに密かに更新されていて、だから、あの人が「ジョン・レノン」と呼ばれる世界は今日から始まっていて、ぼくはちょうど一日分その更新からズレてしまっていて、だから、ぼくの頭のなかでは丸一日、「ジョン・○○○」の「○」が空白だったのではないか、という妄想すら抱いてしまうくらい、その時の「ジョン・レノン」という文字は気持ち悪かった。
●人を開放的にするような「明るい人」は、積極的に、こだわりなく自分の話をする。だからこそそれは、「自分」に関する鬱陶しい執着を感じさせないのだと思う。「自分語り」への過度な抑制は、けっきょくまったく逆の効果となるように思われる。自分の位置を特権化し、自分に執着する(赤裸々な)自分語りは鬱陶しいだけだが、自分を語ることによって自分を超えてゆくような、自分自身をネタとして人に差し出すような(開放的な)自分語りは、自分だけでなく、まわりの人をも開放する。そういう人に、わたしはなりたい。かなり難しいけど。