●目先のことに追い立てられていたら、竹橋のヴィデオ展が終ってしまっていた。ようやくいい感じになってきた、今やっていることの集中を途切れさせたくはないので、外の様子まではまったく気が回っていなかった。しかしそれにしても、自分は一体何をやっているのか、何がやりたいのか。もっと徹底して引きこもるべきなのか、それとももっと頻繁に外へ出るべきなのか。混乱している。
何日か前に出かけた時に、しばらくご無沙汰してしまっている何人かの人と会って、髪を切ったので誰だか分からなかった、と言われるのと同じくらいの頻度で、随分とご無沙汰で、とか、あら、珍しい、みたいなことを半ば厭味まじりで言われることになって、ご無沙汰してすいません、いろいろ目先のことで精一杯で、と答えることになって、要するにひきこもっているのだが、しかしそのわりには、じっくりと腰を据えて何かをしているという感じでもないのだ。
とはいえ、先月には、自分の作品としてはけっこう重要な展開があったし、今、書いている原稿だってかなり一生懸命書いていて、それなりの手応えはあるはずだ。だけど、自分が抱えている複数の事柄の相互の関係とか、そしてさらに、それとは関係なく「私の外」で進んでいる時間との関係が、どうもちぐはぐで噛み合っていない。というか、そういうものたちに対し自分がどのように関係をもつのかという軸が定まっていない。ふらふらしている。いろいろなことを「散らかしたまま」にしておくのがぼくの趣味ではあるのだが、散らかり過ぎていて、その散らかりに呑み込まれてしまいそうだ、というのか。
こう書くと、どんだけ忙しいんだという印象になるが、全然忙しくなんかないし、そんなに多くのことを抱えているわけでもない。普通に働いて、子育てなんかもしている人に比べたら、ぼくはほとんど何もやっていないに等しい。一日の大半をぼーっとしたり、本を読んだり散歩したりして過ごしている。しかし、例えば、一日に絵を描いている時間は二時間くらいだとしても、「絵を描いている時の二時間」の状態をつくりだすには、そのために「一日」の時間をまるごと必要とするから、絵を描いていない残りの時間で、○○ギャラリーの人に連絡して作品をプレゼンしに行く、とか、絶対に観ておくべき○○展を観に行く、とか、そういう切り替えはなかなかできないのだ(そういうことを「考える」ということが、まず困難なのだ)。そういう日は「そういう日」として、まったく別のモードで朝からはじめなければならない。批評の原稿を書き始めると、絵が描けなくなってしまう、とか、そういうのもあるし。で、結果、そういうひとつひとつのことがきれぎれになって、滞り、一個一個、中途半端な状態で放置されることになる。いや、ぼくのなかではすべて繋がっていて、とてもゆっくりとした(あまりにもゆっくりな)スピードで絡まり合って進行しているのだが、それが「ぼくの外」の時間の流れと噛み合ない。
例えば、絵を描くことの進展の速度には「他者との関係」はあまり関係ないから自分のペースでいけるけど(というか、それ以外にどうしようもないけど)、○○ギャラリーの人と会って、上手くいけば展覧会を…みたいな話は、自分のものごとの進行の速度と、相手の都合や速度とを噛み合わせる必要があり、その二つのこと(「引きこもった時間」と「他者との関係によって生まれる時間」)を同時に進行させるのはぼくにはすごく困難なのだ。○○展を観にゆく、というのも、展覧会には会期があるから、展覧会様側の都合と自分の都合とをすりあわせる必要があり、そういうことと、描くことや書くことが行われる(引きこもった)時間との関係を調整するのはとても困難なことだ。いや、他者との関係とか、そういうむつかしいことを言う前に、お金がなくなりそうになったら、なんとかしてそれを調達する何かをしなければならなくなり、それは、こちらの仕事のペースなどとは何の関係もなくやってくるので、そのたび仕事がへんなところで中断される。
(その意味で、書くことも読むことも、共に「ひきこもった時間」として可能になる本=言葉というのは、とても優れたメディアなのだと思う。絵画や美術は、描く=つくることはともかく、観る=観せるという次元では、展覧会=展示という「私の外」の時間、社会的な時間から自由にはなれないから。けっして充分なものではないとはいえ、印刷図版の重要性というのは、ここにあるのだと思う。)
でも、そんなの言い訳じゃねえの、という気もする。じっさい、忙しい仕事を抱えながら、同時に、もう一方で充実した作品をつくっている人もいるのだ。「引きこもった時間」と「他者との関係によって生まれる時間」とに二分することが間違っているのだろう。本当は、常に、いくつものリズムの異なる時間が同時に進行していて、「私」というもの、あるいは「作品」というものがあるとしたら、それらが重なりあい、それらを関係づける「働き」として、その「働き」の結果として、事後的に確認されるだけなのだ。けっきょく、その「働き」がうまくいっていない、その「うまくいってなさ」のある形が「私」なのだ、ということなのだが。
●自分の頭が信じられない。今日一日、どうしても「ジョン・レノン」という名前を思い出すことが出来なかった。ジョン、までは思い出すのだが、どうしても、ジョン・○○○なのか思い出せなくて、ジョン・フォード、ジョン・ケイル、ジョン・B・チョッパーとズレてゆき、ジョンとポール、ジョンとヨーコとなってゆく。ジョン・レノンの顔を思い浮かべながら、ジョン、ジョン、と頭のなかでつぶやいても後がつづかず、さらに息子の顔をイメージするのだが、そちらの経路でもショーンまでしか出てこなくて、ジョン、ショーン、ジョン、ショーンと繰り返しても出て来ない。『ジョン・○○○対火星人』、という連想からも出て来ない。しばらくそのことを忘れていて、また再びチャレンジしてみても駄目。何度やっても出て来ない。普通に考えてジョン・○○○が出て来ないはずはないのに、こういうのって、マジで「自分の頭は大丈夫なのか、それ以外のことも、ものごとが全く正しく把握できていないんじゃないか、穴だらけなんじゃないか」と、もの凄く深くて底の見えない下を崖っぷちからのぞいているような感じで、どんどん不安になってくる。すごく気持ち悪い。そのうち、そもそも「ジョン」が間違ってるんじゃないかという気がしてくる。夜遅く部屋に戻ってから、「ビートルズ、ジョン」で検索して「ジョン・レノン」という文字を見たとき、うわっ、なんでこれを思い出せなかったのか、信じられない、と愕然とするのだった。