●私は「私」という素材しか持っていない。作品に触れる時、その貧しさが露呈する。作品は、その貧しさのなかにしか現れない何かだ。私と誰かが同じ作品を並んで観ていたとしても、隣にいる誰かの頭のなかに結像している作品の姿を、私は見ることが出来ない。私が見ている作品は、私が見ている夢と同じくらいあやふやだ。私に見えている作品の像を他人に伝えるのは、私の見ている夢を他人に伝えるのと同じくらいむつかしい。目の前の風景やものを、「あれ」と指さすように、私の見ている夢を「これ」と言って指さすことはできない。ある作品を「これ」と指さすようには、その作品から私が「見たもの」を「これ」と指さすことはできない。作品の経験は夢のように孤独なものとしてある。
ここで重要なのは「私」ではなく、作品から私を通して結像された「何か」であり、私が作品を通過することで見た「何か」の方である。ここで「私」がついてまわるのは。私が私という素材しか持たないからであり、作品の経験という、作品それ自体にしか根拠や着地点をもたないものが、その私の貧しさを露呈させるからである。私が作品を観るのではなく、私とは、作品を結像させる、作品を立体化させる装置でしかない。「生きられる」のは私ではなく作品であるが、作品は私を通すことによってしか生きられない。私においては、私という限定された、私という限界をもつ装置によってしか、作品は結像されない。「私にとってのこの作品」と言わざるを得ないのは、「私」が大切だからではなく、私が私という位置に限定されているという、「私」が必然的にもつ貧しさによってだ。
私の見る夢におてい、私がする経験の強さは、その夢そのもの以外の外的な要因によっては保証されず、その夢の経験以外の場所に着地点をもたない。勿論ここでも、「私の夢の経験」で重要なのは、「夢の経験」そのものであって、それが「私」のものであるということではない。にもかかわらず、それは「私」においてしか現れない。夢そのものを「これ」と指さすことは出来ず、夢の経験は、その夢について説明したり、物語ったりして示すしかない。だが、説明したり、物語ったりした途端、それは擬似的な、外的な着地点をねつ造することになる。
私の見た夢そのものを「これ」と言って指さすことは出来ないが、作品ならば、ある作品を「これ」と言って指さすことは出来るだろう。そのような意味で、作品とは外在化され、物質化された夢であろう。作品は、それに触れた一人一人に、それぞれ個別に生きられるしかない、孤独な夢をみさせる。それらの夢は個別なものとして切り離されている。しかしその、互いを比較することすらできない切り離された夢は、同じ作品を原因として見られたものである以上、なにかしらの共通したものがあるはずなのだ、と言っていいのだろうか。同じものを見ている、という時の「同じ」というのは、一体何によって保証されるのか。もしかすると、たんに「同じ」という言葉によってだけなのではないか。