●作品を経験する時、とりあえずいったんは、その作品のすべてを受け入れなければならないと思う。好きなところも嫌いなところも。すごいと思うところも疑問を感じるところも。受け入れるというのは、それがそのような形になったことのすべてに必然性があるという前提で、それに対するということだ。あらゆる細部は、それがそうであるべき必然性によって、そのような形としてできあがった。必然性があるということは、完璧で改善の余地がないということとは違う。そのようになったそれなりの理由があるということだ。それはその作品の成立の事情とも、作者の意図とも関係なく、そうである、と、仮定する。勿論それは仮定としてしか成り立たないが、その仮定からはじめる必要があるように思う。作品に接して違和感や拒否感を感じたとしたら、そこにこそ、その作品の積極的な意味とつながっている何かがあると、とりあえずは考えるべきだろう。たとえ、その作品に対して最終的には批判的であらざるを得ないとしても、ある細部をエラーとして批判するにしても、いったんはそのような仮定を受け入れた上で、その判断がなされなければならない。つまり、作品に身を預けなくてはならない。作品を経験する時、主体は、私ではなく作品である。あるいは、そのような態度で接し得る密度をもったもののみを、作品と呼ぶべきだろう。逆に言えば、そのようにして全面的に受け入れることの出来ない作品は、今の自分には「合わない」として、態度や判断を保留するしかない。いつか受け入れられる日がくるかもしれないし、とうとうやってこないままかもしれない。人が作品を選ぶのではなくて、作品が人を選ぶ。一人の人間が、あらゆる作品を理解出来、あらゆる作品とつきあえるということはあり得ない。一人の人間が、あらゆる作品に対して等しく平等に接し得るということも、原理的にあり得ない。
これは決して、いったんできあがった作品を絶対化するということではないし、すぐれた作品の前ではただ沈黙するしかないということでもない。それどころか、それとはまったく逆のことであるはずだ。それは、「作品」というものの特異なありようが、理論的、社会的、政治的、日常的な発言、あるいは構築物などと根本的に違うということを意味しているに過ぎない。ただたんに、作品とは、そういうやり方で全体を丸のままで飲み込むことによってしか理解されない、経験されない何かを内包し、表現しているものだということだ。丸のまま飲み込むということは、その細部の全てを理解するこというこでは勿論ない。作品の全てを理解することなど出来るはずがない。飲み込むというのは、理解できないものを理解できないまま飲み込むということだ。そしてそれは、無条件に肯定するということではない。肯定できないものは肯定できないし、疑問は疑問のままだが、肯定できないまま、とりあえず飲み込んでみるということだ。そして、そうしたら(自分が)どうなるかを試してみる。作品の経験とはそういうものだろう。どうしても飲み込めないとしたら、その作品はいったんは拒絶するしかない。ある作品を拒絶するとしても、そのことは誰もに咎められることではないはずだ。