●書かれた言葉において重要な事は、記述された言葉の形式や整合性や自律性(言葉そのもの)でもなく、言葉によって書かれている事柄の内容(事柄そのもの)でもなく、記述の有り様と、記述された事柄との関係なんだと思う。あるいは、記述することによって記述された事柄に生じる(記述が事柄に介入する)効果と言うべきだろうか。記述の有り様が事柄-出来事に対してもつ効果のことをフィクションと言うならば、言葉を持つ人はすべてフィクションのなかでこそ生きていると言えるのではないか。つまり、「それ」が、「そのように書かれる」ことによって、ある経験が構成される。経験は、「それ」と「そのように書かれる」の間にたちあがる。あるいは、「そのように書かれる」ことではじめて、「それ」が経験として構成される。
だから経験とはフィクションであり、だがそれは言葉によって構築されるものではなく、記述と、記述された事柄との間に生じる何かで、だからそれは距離とか姿勢とかタッチとか息遣いとか偏差としてしか捉えられないものだ。書かれた言葉の身体とは、いわゆる「文体」のようなものではなく、記述と事柄の間の隙間に吹き込まれた「息」のようなもののことではないか。そして、そのような捉えられない場所-体-息こそが、人の住処(環境-身体)なのだと思う。
言葉は、現実を反映するものとしてあるではなく、フィクションとしての経験を構成するものとしてある。だがフィクション-:経験は、現実から切り離された言葉によって(好き勝手に)作り上げられるのではない。内容とその記述との隙間(「それ」と「そのように書かれる」の隙間)に、フィクションが立ち上がる捻れの場が開かれ、フィクションは両者の関係(捻れ)のなかに生じる。だからこそ、「良く生きる」ためには、良く書く(良く読む)ことが必須なのだと思う。
逆に言えば、「良く書く」という時に問題となるのは、言葉そのものではなく、言葉を通して(言葉の操作を通して)、言葉と出来事との関係をかえてゆくということであり、それによって経験をかえてゆくということなのだ。手元にある、見えるものを操作することで、見えない「関係」に、もっと遠くにあるものにアプローチするということだ。