●DVDで『ココロコネクト』を五話まで観た。これすごい。いや、作品としてすごいという感じはいまのところないのだけど(正直、そんなに面白くはない)、設定がすごい。『転校生』みたいに心と体が入れ替わるという話なのだけど、高校生の男女五人の心と体がランダムに入れ替わる。誰と誰(と誰と…)が、何時から何時まで入れ替わるのかわからない。きっかけとか前触れとか全然なくて、いつの間にか入れ替わっていて、いつの間にか元に戻っている。
登場人物を1から5と呼ぶとして、1の体と1の心という通常の状態を1−1と書くとする。すると、五人の「カラダ−ココロ」の組み合わせパターンは次の25通りあることになる(登場人物は男性二人、女性三人なので、それぞれのカラダとココロの組み合わせ(○−△)に対して、男−男、男−女、女−男、女−女という四つの異なる色分けがなされる)。
1−1、1−2、1−3、1−4、1−5
2−1、2−2、2−3、2−4、2−5
3−1、3−2、3−3、3−4、3−5
4−1、4−2、4−3、4−4、4−5
5−1、5−2、5−3、5−4、5−5
ここで、(1−1、2−2、3−3、4−4、5−5)という組み合わせが正常な状態とすると、「五人組み」としての「ココロ−カラダ」の状態の組み合わせとして、あり得るバリエーションは全部で何パターンあるのだろうかというのが気になった。このとき、(1−1、2−1…)のように、一人のココロが複数のカラダに宿ることはない――カラダもココロもそれぞれ一人一つずつしか持たない――ものとして考える。例えば『転校生』のように二人が入れ替わるだけなら(1−1、2−2)と(1−2、2−1)の二つのパターンしかないことになる。
まず、登場人物「1」が(1−1)の状態の時に、他の人物においてあり得るパターンはどうなるのかを愚直に数え上げてみる(他にもっといい方法があるのだろうけど…)。
(1−1)の時に他の人は、
(2−2、3−3、4−4、5−5)
(2−2、3−4、4−5、5−3)
(2−2、3−5、4−3、5−4)
(2−2、3−5、4−4、5−3)
(2−2、3−3、4−5、5−4)
(2−2、3−4、4−3、5−5)
(2−3、3−2、4−4、5−5)
(2−3、3−4、4−5、5−2)
(2−3、3−5、4−2、5−4)
(2−3、3−5、4−4、5−2)
(2−3、3−2、4−5、5−4)
(2−3、3−4、4−2、5−5)
(2−4、3−3、4−2、5−5)
(2−4、3−2、4−5、5−3)
(2−4、3−5、4−3、5−2)
(2−4、3−5、4−2、5−3)
(2−4、3−3、4−5、5−2)
(2−4、3−2、4−3、5−5)
(2−5、3−3、4−4、5−2)
(2−5、3−4、4−2、5−3)
(2−5、3−2、4−3、5−4)
(2−5、3−2、4−4、5−3)
(2−5、3−3、4−2、5−4)
(2−5、3−4、4−3、5−2)
という風であり得るので、24パターンある。次に、「1」が(1−2)の場合を考えると次のようになる。
(2−1、3−3、4−4、5−5)
(2−1、3−4、4−5、5−3)
(2−1、3−5、4−3、5−4)
(2−1、3−5、4−4、5−3)
(2−1、3−3、4−5、5−4)
(2−1、3−4、4−3、5−5)
(2−3、3−1、4−4、5−5)
(2−3、3−4、4−5、5−1)
(2−3、3−5、4−1、5−4)
(2−3、3−5、4−4、5−1)
(2−3、3−1、4−5、5−4)
(2−3、3−4、4−1、5−5)
(2−4、3−3、4−1、5−5)
(2−4、3−1、4−5、5−3)
(2−4、3−5、4−3、5−1)
(2−4、3−5、4−1、5−3)
(2−4、3−3、4−5、5−1)
(2−4、3−1、4−3、5−5)
(2−5、3−3、4−4、5−1)
(2−5、3−4、4−1、5−3)
(2−5、3−1、4−3、5−4)
(2−5、3−1、4−4、5−3)
(2−5、3−3、4−1、5−4)
(2−5、3−4、4−3、5−1)
同じく24通りになる(前の表で「○−2」だったところをすべて「○−1」に置き換えるだけで他は同じ)。なので、同様にして(1−3)から(1−5)までも数え上げてゆくと、24×5で120通りの組み合わせがあり得ることになる。例えば(1−3)の場合は二つ目の表で「○−3」のところを「○−2」に置き換えれば同じ(これで、間違ってないですよね……)。
つまり、たった五人のキャラクター(外面+内面)を設定するだけで、120種類もの異なる人物配置による展開が可能になる。というか、ココロとカラダはストーリーライン上でランダムに入れ替わる(何時、何処で、誰と誰と…が入れ替わるのか分からない)のだから、一本の物語の線のなかに、異なる120の局面が入れ代わり立ち代わり生起する(挿入される、雪崩込んでくる)可能性があることになる。あるいは、一本の線(時間の持続)のなかに120本の線の束(異なる世界)が可能性として常に同居していることになる。。
●とはいっても、実際には、この五人組を常に「ひとまとまり」として物語の局面が構成されるのではなく(というか、そのようなことはほぼなくて)、多くの場合が二人組、三人組という単位でのエピソードになってくるので、そんなに複雑なことにはならないのだし、ランダムに入れ替わるとか言っても、それは当然――作者が操作する――物語の都合に沿った入れ替わりなのだけど(そうでなければ観ている方は分けが分からなくなるし「物語」として成立しなくなる)。そもそも120通りのバリエーションがあるとして、そのすべてが等しく「物語」的に面白い発展へつながるポテンシャルをもつわけではないだろう。「120通り」という数は、たんに「ごちゃごちゃしている」とか「かなり複雑」というざっくりした「感じ」を表現しているに過ぎないのかもしれない。とはいえ、潜在的には、常に120の異なる線へと分岐し得るものが、「見かけ上の同一性」(カラダ−ココロがどんな入れ替わりのバリエーションになっていようと、外から見た「姿」はどれも一緒)によって強引に一つに束ねられている、とかいうことを考えながら観るのは、ちょっと楽しいことではないか。
●『ココロコネクト』の五話までの展開をみると、実際には単純な話だ。男性二人、女性三人の五人組の話ではあるのだけど、物語の内容としては、実質、一人の男性と、三人の女性たちとのそれぞれの関係を語るエピソードが中心となる。カラダとココロの入れ替えも、ギャグ的なパート以外では、三つの「一対一関係」を際立たせるために使われているに過ぎない(120もの潜在的な「他の線」がある、みたいな複雑性はほぼ感じさせない)。とはいえ、五話までの話はこの設定の最初のエピソードであり、人物紹介という側面も強く、シリーズはこの後もつづくのだから、今後面白くなる可能性はある。