●以下は、便所の落書きというか、親父のぼやきというか。
●政治を、最適解の計算によって置き換えたいという欲望をもつ人が一方にいて、もう一方に、そのようなことに対する強い抵抗が存在する。そこにあるのは、最適解(幸福)と平等(正義)との違いであるように思われる。
例えばベンサム功利主義(最大多数の最大幸福)というのも、最適解によって政治(共同体の因習やイデオロギー)を括弧に入れたいということだろう。だがここで問題になるのは、(1)そもそも幸福を定量化できるのか(幸福の足し算、わり算が可能なのか)ということと、(2)仮に定量化可能だとして、その最適解の計算は複雑すぎるということがあるだろう(明らかに無意味で非合理的だと思われる慣習が、実は複雑な状況のなかで思わぬ形で効いているのだ、というようなことは十分にあり、それはソリッドなロジックによって知ることはできない、と、これはコミュ二タリアンの主張とも言えよう)。そして、(3)もし仮に最適解が導かれたとしても、その最適解の犠牲になる人(公共の福祉の最大化のために、申し訳ないけどあなたには損な役割をしてもらうことになる、という人)が必ず生じるだろう。
それに対し、ロールズのよる無知のヴェールという思考実験(もし、産まれる前の、自分がどのような境遇や能力で産まれるのか分からない状態で人々が集まって社会のあり様について議論するとしたら、最も困難な境遇にいる人を最も手厚く保護する社会にすることに多くの人が合意するだろう)が一定の批判となる。しかし、そんなことをしたら社会全体としての幸福の総量は間違いなく減るだろうという反論もあり得る。そもそも社会全体の幸福などではなく個人の自由こそが第一というリバタリアンの考える平等もある。そこで、最適解によっては解けない正義や思想の対立が不可避になり、政治の必然が生じる。
●しかし、最適解によって完全に政治を消去することはできないしとても、その意味を軽く、あるいはその位置を低く、することは可能かもしれない。コンフリクトを解消できないとしても、計算によってそれを最小化することは可能かもしれない。最適解の問題のうち、(1)はクオリアに関するもので、(3)は政治の不可避性に関するものだが、(2)の、計算それ自身の困難さは、技術的にかなり克服されつつあるのではないか。
●政治というものの多くの部分を占めるのは、コンクリフトを、解消できないまでも最小化するための交渉や折衝ということだろう。ならばそれを(すべてではないとしても)計算のよって代行可能であるならば、効率的ということだけでなく、多くの人にとって幸福を大きくするのではないだろうか。
(気象はカオス系であるから、天気予報を完璧にすることは原理的に出来ない。しかし、完璧ではないにしても精度は日々上昇しているだろうし、そして、完璧ではないとしても、天気予報の情報があるのとないのとでは行動がまったくかわってくる。同様に、完璧ではないにせよ、コンフリフトを小さくする計算が可能であることは、完璧ではないとしても有効であるはず。)
●これは以前、企業内でビックデータ関連の仕事をしている人が言っていたことのなだけど、ビックデータの有効性は、それが「空気」を変える力をもつところにもある、と。
システムは、それがいったん成立すると、システム自身を持続的に再生産することそのものが目的となる傾向がある(まさに、オートポイエーシス的に)。システムの維持自体がシステムの目的となり、それは意味のない様々な習慣、因習、慣例を次々と生み出す。システム内にいる人は、誰もがそれに意味がないと知りつつ、しかしそれを変えることができないという状況に陥る。「それ、意味ないからやめましょう」と言えない空気が生まれ、強い抵抗を押しのけて変えようとするとその個人が過剰なリスクを追うことになる(少しでも隙をみせると失脚させられる、とか)。システム内には様々な人間関係があり、利害関係があり、権力関係があり、政治がある。システムはそれらの複雑な絡み合いと拮抗(生態系)によって成立しているから、なんでこんな無駄なことを…、ということもなかなか変えられない。前述したように、その「無駄なこと」がどこかで――バタフライエフェクト的に――効いている可能性は否定できないので、それを変えるリスクをとる必要はないと言われれば、それに反論する根拠はない。
そして、システムが本格的ににっちもさっちもいかなくなると英雄待望論が生まれ、担ぎだされた英雄がざくっと大鉈をふるって、……システムを回復不能なまでに滅茶苦茶にする…orz、とか。こんな予定調和な流れは誰にとってもミエミエなのに、それを誰も止められない、とか(このようなことは、コミュニタリアンへの批判としてあり得るのではないか)。
(政治の不可避性が、最適解と平等が両立しないということであるとして、しかしこのような硬直化したシステムは、最適解から見ても、平等からみても、等しく悪であると言える。)
その時、「データがこうなってますからやめましょう」というのはとても強い、というか、言いやすいし、通しやすい、と。データがこう言っています、コンピュータがこう言っています、というのは、○○部長がこう言っています、というのとは違って、非人称的で、システム内の人間関係から切れているので、人を説得する道具として使いやすいのだ、と。それは外からの言葉として作用し、空気を変え得る。
ビックデータによる予測は一種の神託のようなもので、根拠を示す必要がない。というか、示すことができない。膨大なデータ解析から導かれた結果は、結果の算出過程を人間が追うことができないから、なぜ、こんな答えが出るのかは分からない。人間の頭ではその因果関係を組み立てられない。しかし、それをやってみると確実に効果がでる(それはおそらく、一見凡庸にも思われるヒットメーカーが、何故か分からないがヒットを量産できる、ということに似ている)。根拠も因果関係も説明できませんが、しかし、コンピュータの言う通りにする人だけがほぼ確実に得をすることができますよ、という言葉はほとんど悪魔のささやきだと言える。
(例えば、店内のある特定の場所にいつも店員が立っている、というそのことだけで、客一人当たりが使う金額の平均が上がる、ということを予測し、実際やってみるとその通りになり、売り上げが15パーセントも上がったのだが、その理由は分からない、など。これは「データの見えざる手」に書かれていた例。)
(これは最適解側からの解であり、平等や正義を満たすものではないが、しかし、より繊細で精度の高い最適解――妙な言い方だが――は、より少ない不平等を導くのではないか。)
(ウィンウィンの関係など、搾取を隠蔽する構造にすぎない、という批判も可能だが、ここに幸福-クオリアの問題が絡むとすれば、搾取が必ずしも悪とは言えないのでは…、とも思える。ここで、いわば抑圧された搾取がどのような形で社会に回帰するのか分からないので、簡単には言えないが、最適解が、ある程度の搾取を容認しつつも、全体としての幸福度を上げ得るものだということは言えると思う。)
(おそらく、搾取という問題は、ある業界の規模が右肩下がりに縮小してゆく局面で、その業界で既得権をもつ人たちが自らの利益を優先的に確保しようとするときに顕在化する。業界全体が右肩上がりで成長していれば、搾取があったとしても、する方もされる方も利益が拡大してゆくから、あまり表面化しないのではないか。だから搾取があってもよい、ということではないが。)
ビッグデータという武器は強過ぎて、人間による知識、経験、才覚、カン、などの蓄積、そして論理的な思考までを、まるごと無意味なものにしてしまいかねない。そもそもシステムにとって人間こそが無意味ということになってしまうかもしれない。しかし、そのくらい危険なものでないと、どんどん巨大で複雑になり硬直化するシステムのなかで蓄積して、人々を息苦しくしている澱のような無意味を取り除いて、システムを緩く、若い状態にするのは難しい、ということになる。それは逆に言えば、このような危険な悪魔のささやきにどうしようもなく魅力を感じてしまうほどに、われわれの行き詰まり、閉塞感、無力感は深いのだと言える。システムは、人間的な知に手におえるものではなくなっている?
●だけど、テクノロジーの進歩が見せる希望は麻薬のようなものかもしれないという可能性も捨てられない。
(「なめ敵」で描かれていたPICSYは、その人の社会への貢献がそのままその人の富になるという貨幣システムで、つまり「搾取」の完全な撤廃が目指されていた。これも最適解が「計算」可能であるという試みの一つだと思われる。しかしそれが実現した時にあらわれるのは、完全に平等で客観的な能力主義であって、それは確かに公正ではあるし、頭のいい人にとっては社会がそうなっていないことが苛立たしくて仕方ないというのも理解できるが、ロールズ的な視点に立った時に、それが望ましい社会であるかはまた別の話だ。)
このような考えは、ある種の「頭のいい人」が陥りやすい隘路だという可能性もある。ビックデータや人工知能は「人間の頭」に比べれば確かに圧倒的だとしても、この世界はもっと複雑で、だから彼らの神託を真に受けたとしてもうまくゆくとは限らないし、大きな落とし穴が待っているということもあり得る。
●しかしもしそうだとすると、不条理に見えても昔からの伝統や常識、良識は大切だからちゃんと守りましょう、お作法もちゃんとしましょう、大人は(たまにはガス抜きをして自分が壊れないように気遣いつつ)世界の不条理に耐えましょう、という、退屈な結論になってしまう。それが嫌だから「モダニズム」だったのではないか。