●フィロソフィーのダンスはとてもかっこいいし好きなのだけど、最近、ちょっと上手くなりすぎてしまって、アイドルとしての面白さがやや希薄になりつつあるような危惧を感じる。フィロソフィーのダンスの面白さは、四人それぞれがみんな「出自が違う」という感じで、それは、「アイドル」というなんでも包み込む風呂敷がなければ決して同じグループでは歌っていないような四人が、そのかみ合わなさにおいてかみ合っているバランス、ということだと思う。四つの色が同一平面上に並んでいるのではなく、バックグラウンドからして異なる四つの色が、ズレを含みながら、あっちのズレとこっちのズレとでいびつにバランスしているみたいな感じ。でも、上手くなるとどうしても統一感みたいなものが出てきてしまう。それは勿論悪いことではないのだろうけど、でも、ただ「かっこいい」となると「それがアイドルであることの意味は何?」みたいな感じにもなってしまいかねない。いや、かっこいいし好きには違いないのだが。
たとえば、2019年12月のライブと、2018年6月のライブの動画とを並べてみる(「シスター」という曲はとても好きなのだけど)。
フィロソフィーのダンス/シスター(ライブ・アット・スタジオ・コースト)
https://www.youtube.com/watch?v=75t6SLlTaI0
フィロソフィーのダンス/アイドルフィロソフィー(ライブ・アット・リキッドルーム 2018/6/16)
https://www.youtube.com/watch?v=lhLfSm6cAOk
●sora tob sakanaを知ることを通じて、ハイスイノナサを知ったので、ハイスイノナサを聴くと、「まるでsora tob sakanaみたいだ」と逆行した感じで思ってしまう。ただ、ハイスイノナサとsora tob sakanaとを比べることで、「アイドル」という(あらゆるもの---音楽的にというだけでなく、様々なカルチャー---を横断的に包み込むという意味で、あらかじめ「不純」である)メディウムの意味がみえてくる感じもある。
ハイスイノナサ"reflection"
https://www.youtube.com/watch?v=l_s8NV4aeuI
サカナ日記27日目 「広告の街」ダンス映像
https://www.youtube.com/watch?v=2uZDeLwB2V8
ハイスイノナサの、ある意味で「自閉症的な潔癖感」みたいな感じに、素直な(技巧的ではない)子供の声でメロディがのっかることで、その強い自律性を壊さないままで、それ以前にはみえなかった新しい局面が生まれている感じがある。たとえば、Maison book girlもいいと思うけど、Maison book girlの場合は、音と声(歌っている人たちのキャラや衣装やダンスまでふくめて)の組み合わせに意外性が少ないというか、音と声やキャラに、トーンとしてあらかじめ統一性をもたせている感じがあるのだけど、sora tob sakanaの、「ハイスイノナサ+子供の声」という組み合わせの方が意外性が大きく、ここにもまた、かみ合わない(ようにみえる)ことによってかみ合っている感じ(から生まれる新しい局面)があって、「アイドルであることによる創造性」は高いように思う。
Maison book girl / cloudy irony / /MV
https://www.youtube.com/watch?v=zQpDoGzGMfY
(ただ、sora tob sakanaの最年長メンバーの寺口夏花は今年二十歳の年で--- sora tob sakana は2014年結成だ---声はまだ子供っぽい感じをキープしているものの、この感じがいつまで維持されるのかは分からない。)
●ちゃんと調べたわけではない雑な思いつきだけど、70年代くらいまでのアイドルの曲は「歌謡曲のプロ」がつくっているという感じで(例えば筒美京平とか都倉俊一とか)、80年代くらいになると、様々なアーティストがアイドルという素材を一つの「課題」のように与えられて、それをどう料理するのかという「料理の鉄人」のような感じで作られるようになり(例えば、山下達郎が近藤真彦やKinKi Kidsの曲を作るとか、大滝詠一が松田聖子や薬師丸ひろ子の曲を作るとか)、現在では「アイドル」は、アーティストやプロデューサーにとってもっと積極的な表現のための一つの「独自なメディウム(アイドルだからこそ成り立つこと、や、アイドルであることによる創造性をもつもの)」となっているのではないか。