2023/11/21

⚫︎自分語りというものをことさら嫌う必要はないと思うが、自分語りとは「自意識語り」であり、そうである限りそれは「このわたしの生」を揺るがすところまではいかないのではないかという感覚がある。逆説を弄するように思えるかもしれないが、「決して一般性には解消されることのないこのわたし」性というものの「一般的性質(形式)」のようなものをいっぺん考える必要があるように思う。

(アラカワ+ギンズが考えていたのはこれではないか。)

ただし、「一般化できないものの一般的性質」なので、こうなのではないかと仮定して、その仮定の蓋然性を試してみることができるだけで、決して決定したり証明したりすることはできず、どこまでも改訂可能性のある「蓋然性の高い仮定」として運用されるしかないだろう。とはいえ試行錯誤によって蓋然性を高めていくことはできるはず。

つまりこれは決してメタにはなりきれない未メタ性としてあり、階層構造に至らない階層への指向性のようなものとなる。

「他でもないこのわたし」の一般化されない固有性を認めると、他でもあり得た多様な「このわたし」の具体性をいくつも並立的に想定(想像・創造)した上で、それらのどれであってもよかったはずだが、どれでもない「これ」として「わたし」を措定する必要があるが、メタ構造に収斂されない具体例は果てしなく増殖して際限がない(全体がない)。この、爆発的増殖を食い止めるのが(「このわたし」の一般的形式という遠回りを経た上で現れる)《この「このわたし」》の限定性なのではないか。

たとえば、マルクス・ガブリエルによる「このわたし」の一般的性質とは「先取りできない」ということになるのではないか。実際に認識を深めて誤謬を訂正するより前に誤謬の在処を「先取り」できない。実際に他者と応答するより前に他者との抗争や調停の結果を「先取り」できない。実際に具体例が現れるより前にその可能性の全体像を「先取り」できない。実際に試してみるより前にその仮定の真偽は「先取り」できない。このような「このわたし」の一般的性質(先取りできない)により《この「このわたし」》という限定性が導かれる。

(これは仮定であり、いわば「哲学的掛け金」のようなもので、証明することはできない。しかし蓋然性を試してみること―-わたしの性において-―はできる。)

(どのような高度な計算機であっても、実際に計算してみるより前に計算結果を「先取り」することはできない。だとしても、その計算量や速度が膨大である場合、人間にとっては計算機に「先取り」されることになる。この場合の「先取り」をどう考えれば良いのか。本当に先取りされていたかどうかという結論は「先取り」できない、となるのか。)

(追記。たとえば天気予報。一週間後の天気の予想にはブレがあるが、明日の天気の予想についてのブレはかなり小さい。既に計算機は、明日の地球の気象状況をかなりの精度で「先取り」している。また、計算機によるシミュレーショが「実験」として認められている。これも計算機による「先取り」の一種ではないか。)