2024/02/07

⚫︎『見えがくれする都市』(槇文彦・他)の第四章「奥の思想」(槇文彦)は、割合と常識的な日本文化論の範疇にあり、そこまで面白いことが書かれているわけではないようにぼくには思えるが、一つ、日本の町屋の空間について、ごく狭い空間の中に、ケとハレ、と、オモテとウラという、二つの二項対立的な価値が重ね合わせられることで、《次数の高い場の様々なあり方と、意味の多様性を演出している》と書かれている点が興味深い。

以下は槇文彦の正確な要約ではなく、多分に勝手な解釈が混じる。町屋の空間は、ケのオモテ、ケのウラ、ハレのオモテ、ハレのウラという四つの複合的な価値をもつ場に区分けされる。さらに細かく、オモテの空間が「ミセ」と「中」と「奥」の三層に仕切られる(「ケのオモテのミセ」と「ケのオモテの中」と「ケのオモテの奥」、「ハレのオモテのミセ」と「ハレのオモテの中」と「ハレのオモテの奥」)。このような入れ子的な配置の中で、いわばウラのウラともいうべき、最も外(あるいは日常)から「奥」にあるような「ハレのウラ」の場から、さらに一つ次元を跨いだ「ウラのウラ」のさらにウラとしての「奥」あるいは「斜めの奥」として「奥座敷」がある、というふうにも考えることが(というか、感じることが)できるような配置になっている。

入れ子構造により、「ハレのオモテの奥」であると同時に「ハレのウラの(さらに)奥」とも言える、二重に「奥」であることで一つ次元の上がった「奥」でもある「奥座敷」。

ほぼフラットな土地を、いくつかの「面」によって仕切っているだけで重曹的な空間を作ることができる。

ただ、この「奥の奥」に特別な何かがあるわけではない。重要なのは「奥の奥(「ウラのウラ」のウラ)」を作り出す空間の構造(配置)である。「奥座敷」もまた、他の部分と特に変わりなく作られている。

ここでもう一捻りして考える。「奥の奥」は変わり映えのしないただの部屋だが、そこに到達することで空間の価値が反転するとは考えられないだろうか。「奥の奥」に辿り着いた途端、そこは「オモテ(ケ)のオモテのオモテ(ミセ)」となり、町屋全体のケとハレ、オモテとウラ、ミセと中と奥という価値が反転して、「奥の奥」は、その反転した空間の起点となり、入り口になる。最も奥が、同時に最前面になる。ここまで考えると、もはや日本の文化の範疇から逸脱する。

たとえば、タルコフスキーの『ストーカー』に出てくる「ゾーン」というのはそのような空間なのではないか。ただしタルコフスキーの登場人物たちは、極めて深刻そうな顔つきと、極めて重たい足取りでゾーンの中を移動する。そうではなく、特になんということもなく、しばしば、頻繁に、そのような空間を行き来し、反転を経験することも可能ではないか。