2019-01-31

●『獣になれない私たち』、『アンナチュラル』がとても面白かったので、野木亜紀子脚本のドラマをなるべく観ようと思って、U-NEXTで『逃げるは恥だが役に立つ』を四話まで観た。

なんというのか、現代的な空気を上手く反映してはいるけど、基本的には典型的なラブコメの展開で、あえて(中途半端にリアリティなどというものに配慮せずに、ラブコメ的な欲望に忠実に従って)、ベタをベタベタにやっていることの潔さは感じるし、それが面白くないというわけではないが、『獣になれない私たち』や『アンナチュラル』のようには、ひっかかってくるところはないかなあ、と。

原作ものとオリジナルとでは、やはり違うということだろうか。

(溜めて、引っ張って、溜めて、いなして、じらした末に、不意をついてググッと寄り、そしてまたさっといなして、またじらしがはじまるという、まるで『めぞん一刻』みたいな展開。)

(一話はやや単調な感じがしたのだが、次第に、ああ、これはベタを徹底してやっているのだと理解されてきて、そうするうちに、ドラマのベタなノリに少しずつ感染し、同調してきて、こちらも徐々にベタにのっかって、盛り上がっていく、という感じはある。)

 

2019-01-30

橋本治が亡くなったというニュースは大きなショックだ。橋本治が平成を越えることがなくなった。

持続的な読者ではなく、最近のものはあまり読んでいないし、たまに読んだとしてもそれほど興味がひかれることはなかった。だけど、十代の頃には熱心に読んだし、とても大きなインパクトを得た。その頃に(実際には二十歳ちかく離れているのだけど)自分のすぐ上の、兄のような位置にある作家だと感じていた。だからなのか、橋本治という名前には、いつまでもずっと「若い」作家のような感覚が貼り付いていた。

人が人の存在に頼る、というようなことがある。ぼくは、橋本治に会ったことはなく、話したこともない。それでもどこか、橋本治という人が存在していること、「その人がこの世界にいる」という事実に頼って生きてきたという感じがある。そのような橋本治が消えた。

●下に引用する橋本治が書いていることは、ぼくの実感ととても近い。

《平成の三十年は不思議な時間だ。多くの人があまり年を取らない。たいしたことのない芸能人が、古くからいるという理由だけで「大御所」と呼ばれる。年を取らず、成熟もしない。昔の時間だけがただ続いている。》

(「人が死ぬこと」)

http://www.webchikuma.jp/articles/-/1424

この三十年で世界は大きく変わった。日本は回復不可能なくらい貧しくなったし、さまざまなシステムはあからさまに崩壊した。しかしその一方で日本では、変わらないことはびっくりするくらいに変わらなかった感じもある。「昔の時間だけがただ続いている」という感覚は確かにある。

上の文章は、自身の死にかんする自己言及のように読める。橋本治は「たいしたことのない芸能人」ではないが、彼自身が「古くからい」て「あまり年を取らない」(ずっと一線で書き続けていること)ことで、「昔の時間」を持続させている人の一人だった。西城秀樹が六十を過ぎても「ヤングマン」でありつづけたように。少なくともぼくにとってはそのようにみえていた。

大学に入ったのは平成元年(1989)で、ある意味ではぼくの時間もその時点でとまっているようにも思われる。今も大学に入った頃とかわらずにだらだらと、お金も社会的な地位を得ることもなく、なにものでもないまま、それでも生きつづけている。そのような区切りのなさのなかで、橋本治は、ずっと八十年代---それは平成の前であり、昭和の末期である---からつづく時間の連続性を支えているような存在の一人として感じられていたと思う。

時間がとまったまま、曖昧に崩壊がじわじわきているような、妙な宙づり状態の持続をぎりぎりで支えているような何かが消えていく。おそらく、これからいろいろなことが変わっていくのではないか。たぶん、われわれはその程度には「年号」というものに捕われている。若くはないぼくにとってそれは大きな不安でもある。しかし同時に、あまりに「変わらない」ことに苛立ってもきた。

実際、あの橋本治がこの世からいなくなった。

(安い居酒屋に入ると、八十年代のヒット曲ばかりがつづけてかかっているということが割とある。必ずしも、五十代の客が中心というわけでもないような店なのに。この場所の時間が、年寄りの夢のなかに置き去りにされてしまっているかのような感覚になる。)

 

2019-01-29

●『アンナチュラル』を最後まで観た。面白かった。『獣になれない私たち』と違って一話完結がベースになっているから、ばらつきがあって、(脚本的にも、演出的にも)イマイチだと思われる回もあったけど、全体としてはとても面白い。

(最終話が、三話のきれいな反転形になっているところとか、ぞくぞくした。)

最悪の殺人鬼を、サイコホラーとは違って「怪物」として描いていないところが新しいと思う。とはいえ、心理的、あるいは、因果的な必然(たとえば「暴力の連鎖」のような)として描いているのでもない。野木亜紀子の脚本が問題にしているのは(『獣になれない私たち』でも同様だが)、交換可能性と固有性との相克、あるいはその並行性のようなものだと思う。

あらゆる人物の位置が、構造的には交換可能であり、しかし、特定の誰かがいるのは、交換可能な位置のうちのどこか一つでしかあり得ない。ああであり得たかもしれないし、そうであり得たかもしれないが、こうであるものとして「ここ」にある。乱反射するほどの交換可能性が示されながら(たとえば三話で主人公---石原さとみ---が置かれる位置に、最終話で殺人鬼が置かれる、二人はともに殺人鬼となってもおかしくないような過去をもつ)、しかし決定的に異なる別の人物として出現している。

生きている人と死んでしまった人との違いは偶然でしかないかもしれないし(たとえば、八話の火事で「彼」だけが生き残ったのは偶然だろう)石原さとみと殺人鬼との違いも偶然でしかないかもしれない(石原さとみには、薬師丸ひろ子という存在がいたが、殺人鬼にはいなかっただけかもしれない)。しかし、違いがあるとすれば、石原さとみは「ああであったかもしれないし、そうであったかもしれない者として、現にこうである」という自覚と問いがあるが、殺人鬼には、「こうでしかあり得ない者として、こうである」という思いしかないという点ではないか(最終話の石原さとみは、三話に対する自らの位置の交換---自分と殺人鬼との位置の交換---を意識して演じているだろう)。この違いが、逃れられない過去という「(不条理な)問題」に対する解として、「法医学者」であるか「殺人鬼」であるかの違いとして現れるのだと思われる。

(だから、『アンナチュラル』は必ずしも「科学主義」のドラマではないと思う。科学主義=因果性よりも、「交換可能性と固有性との並立」が強調されている。)

 

2019-01-28

U-NEXTで、『アンナチュラル』三話を観た。二話まで観てそれっきりになっていたのだが、先日お会いした人に、『アンナチュラル』は三話がキーになっていると聞いて、とりあえず三話を観てみようと思って観たらすばらしくて、即、全話をレンタルした。野木亜紀子の脚本はやはりおもしろいと思ったし、テレビドラマというものは確実に進化しているのだな、とも思った。

『獣になれない私たち』とは違って、ある事件が一話完結的に示されると同時に、その事件の解決を通して、それを扱う組織(UDI)の内部にいる人間たちのありようや関係が持続的に深められていく。ここでは、「事件」そのもののリアリティというより、それが解決されていく過程が重要になる(扱われる「事件」そのものはそれほど新鮮でもなく、リアルというわけでもない)。ある問題があり、あるいは、ある対立がある。まずはその問題や対立を解くための努力がなされるのだが、しかし、捜査や検証によるデータの追加や解像度の向上によって、最初にあった問題や対立の「構え」そのものが揺るがされ、最初にあったものが偽の問題であり、偽の対立であったことが明らかになる。

それは停滞であり行き詰まりであるのだが、同時に、正しい問題へと至るための準備作業でもあり、飛躍への猶予時間でもある。『アンナチュラル』の面白さや新鮮さは、この、古い問題から飛躍する時の「問題そのものの組み替え」や「問題に対するアプローチの転換」の鮮やかさと意外さにあると思う。

(そして、その飛躍が、何段構えにもなって複数化されている。)

そして、三話では、「問題に対するアプローチの転換」が、並行する二つの問題に対する解法(解決者)の入れ替えによってなされる。「女性差別」と「パワハラ」という問題は解決しないが、しかしそのよううな分かりやすい「問題」への誘導が、現にここにある「解決しなければならない何か」に対しては間違った問題化であったことが、この転換によって示される。それは、現にここにある問題が「大問題」にすり替えられた、現状にかんするミスリードだったのだ。

(それはもちろん、女性差別パワハラが「問題ではない」ということではなく、その問題は消えずにありつづけるが、「ここ」ではそのような問題への焦点化が適切ではなかったということだ。)

ここで、主人公の二人が、それぞれが抱えている「問題」を交換することが問題を解決に導く、という形態が、『獣になれない私たち』の物語における位置の交換という形式と似ているところが興味深い。扱っている題材は大きく異なっているが、その形式には共通性がみられる。

 

 

2019-01-27

●『けものフレンズ2』の二話を観たのだけど、やや白々しさのようなものを感じてしまった。この違和感についてちょっと考える。

けものフレンズ』にあったのは、(現実的にはありえないのだとしても)あらゆるものの無条件で無邪気な肯定(「すごーい」「たのしー」という感嘆)だったのだと思うけど、そうではなくて、意識的に褒める(「かばんちゃん、すごーい」と「○○ちゃんってすごいねー」との微妙な違い)、みたいな感じになっているところがあったということではないか。それは、肯定(あるいは感嘆)というより、「気遣い」とか「忖度」へとつながるものへの萌芽なのではないか。

これはあくまで微妙な「匂い」でしかなく、この先どうなっていくかは分からない。ただ、この違いは決して小さいものではないとも思う。

(「気遣い」が作動しはじめると、ジャパリパーク的な「あり得ない楽園」の崩壊がはじまるように思う。)

 

2019-01-26

ウエルベック服従』を読んだ。ウエルベックはずいぶん前に『素粒子』のはじめの方だけを読んで、嫌な気持ちになってやめてしまって以来読んでいなかった。ただ、この「嫌な気持ち」とは一種の気分的な共振によって生じたものだろうし、だからそれは反転された共感とも言える。

小説を読む時に感じる文の抵抗のようなものをまったく感じさせずに、新書を読むようにすらすら読めた。『服従』は小説というより、毒を効かせた露悪的なジョークというようなものだろう。ヨーロッパの知的な階層にいる人たちによって行われる社交の場に、会話のネタとそれを活性化する「ざわつき」をもたらすために機能する。「本」はそのような目的によって書かれ、消費されていく。強い反感もなしくずしの共感も既に小説に先取りされてしまっている。

この小説をいくら読み込んでみたところで、意地の悪い「本音」の露悪と弄される逆説以上のものは見いだせないだろう。ただ、とはいえ、この露悪が誘発する「ざわつき」は、非常に深いところから発せられているように思われる。そもそも深いところに切り込んでくるリアルさがなければ「毒」として機能しないし、人々をざわつかせることはできない。この小説自体に内容はほとんどないが、この小説が誘発する不安やざわつきには、強い現実的な根拠があるだろう。

この小説によって描かれているのは、ヨーロッパの---あるいは、われわれの近代の---行き詰まりによって生まれる、ある「気分」であって、たとえばイスラム教について、具体的に特に興味深いことはなにも書かれていないと思う(イスラム教は、ただ「逆説」として使われているだけではないか、というか、たんなる中身のない逆説であるからこそ政治的に機能するということかもしれないが)。とはいえ、この小説を読むことによって、われわれがそのような「気分」のなかにいることは自覚されるだろうし、そのような「気分」が必然的に生まれてしまう現実のなかにいることも自覚される。

そのような「気分」が必然的に生まれてしまう現実を自覚することは重要だ。ただ、ここで「毒」は、批判というよりも(苦みと諦めを含んだ)共感として作用する。というか、そのように作用するしかないということが書かれる。反感もまた、共感の反作用でしかない。そもそもこの小説は、何かを「批判する」という行為が機能しなくなってしまっているという事態を描いていると言える。

ただ「正しい」ことを言いつのってもどうにもならない(批判は機能しない)。とはいえ、もはや「やれやれ」と言って済ましていることができないくらい状況は切迫している。だとすれば、(個として「この人生」を悪いものではなく過ごすためには)なしくずしの肯定以外にあり得ないのではないか、と。「やれやれ」の一歩先には、なしくずしの肯定として要請される「神」の必然性がある。

(だが、この「なしくずしの肯定」を享受できるのは、きわめて特権的なごく一部の男性に限られる。必ずしもそうではないのかもしれないが、この小説では、そのような特権的な「ぼく」の視点からしか描かれない。つまり、個としての「ぼく」の人生の選択の問題であり、この「ぼく」と代替可能な「ぼくたち」である---そうであることに「居直る」ことが可能な---実在する読者の共感をあてにしている。)

(この小説ではあくまでも個としての「ぼくの気分」こそが重要であり、個としての「ぼくのこの人生」を救うために、個としての「自由」や「人権」を捨てて、神に服従するのだ、という逆説がある。神---教義---への服従が、利己主義によって導かれる。)

仮に、このような結論が妥当なのだとしても、この小説ではその「なしくずしの肯定」のありようが、具体性と密度とをもって描かれているわけではない。「神」や「なしくずしの肯定」を受け入れたとしたら、なにがどうなるのか具体的には分からない(個としても、社会としても)。描かれるのは、そこへと誘い込まれる---追い込まれる---状況設定と、そこで生まれる気分だ。

この小説は---逆説を弄した---露悪的なジョークであると同時に一つの「問題提起」と言えるかもしれない。ただ、この「問題提起」は、はじめから、曖昧な共感か強い反感しか生みようがない形でなされている。つまり、「毒のあるジョーク」にはもはや「批判(あるいは抵抗)」という機能はないということを自ら示しているようなジョークとしての「問題提起」だろう。

●この小説が提起しているものにまったく意味がないとは思わないのだけど、この小説の音調に納得することはぼくには出来ない。ウエルベックみたいにならないようにするにはどうすればいいのかという問題への取り組みは切実であるように思われる。

 

2019-01-25

前野 曜子 / 別れの朝

https://www.youtube.com/watch?v=a3NZjpdnbls

別れの朝/小柳ルミ子

https://www.youtube.com/watch?v=NvVY-WaL1_w

藤圭子/別れの朝

https://www.youtube.com/watch?v=HgkgU1hNGlM

Peter Brotzmann Quartet - Jazzfest Berlin'95

https://www.youtube.com/watch?v=MHTDPx8LpuQ

六本木心中

https://www.youtube.com/watch?v=tMcbUS-Ihb8

深沢七郎 /噴水

https://www.youtube.com/watch?v=F-HK3xnWd6E