2019-05-31

●『さらざんまい』、第8話。今回はバンクシーンがまったくなかった。

●前半では、玉を吸引する管であった玲央の拳銃が、反転して、弾を撃ち出す筒になっている。

●一稀が捨て、それを春河が拾って、燕太を介して一稀に回帰したミサンガは、もともと悠のものだった。一稀→春河→燕太→一稀というループの起源に悠がいた。つまり、大切にしていたミサンガ(サッカー)を弟のために捨てるという一稀の行為(決断)は、兄のためにミサンガ(サッカー)を捨てた悠の行為の反復であった。

であれば、一稀が捨てたミサンガが何人かの人物を介して再び一稀に戻ってくる(一稀が、春河との関係とサッカーとを取り戻す)という前半にみられたループは、作品全体として、悠の捨てたミサンガが、(その内側に一稀→春河→燕太→一稀という前半の小さなループを内包して)一稀から再び 悠に帰ってくるという、より大きなループとして反復されることになるのではないだろうか。

だが一稀は、ミサンガの起源が悠にあることを忘れている(ここに、幾原作品ではおなじみの「忘却」という主題があらわれている)。この起源の忘却によって、悠から 一稀に託され、一稀から再び悠に返されるはずの(悠が希望を取り戻すための)ループの経路は切断されてしまっている。この切断がどのように埋められるのかというのが、今後の展開となるのではないか。

●一見、一稀と悠とをつなぐループを切ったのは (一稀と悠の関係に嫉妬する)燕太であるようにもみえる。しかし、「ウテナ」において「世界を革命する力」がフェイクであったのと同様、ここでもおそらく「希望の皿」によってもたらされる希望はフェイクであろう(一稀と春河との関係の回復も、希望の皿によるものではなかった)。だからむしろ、希望の皿を盗み出すという燕太の行為は、フェイクの希望を潰すという意味でポジティブな行為であり、依然として燕太こそが一稀と悠とをつなぐ媒介的な役割を担っていると期待される。

(最初の「金の希望の皿」を無駄遣いしてしまったのも燕太だった。)

(主題論的に考えると、「穴」と「皿」と「球()」の関係がけっこう重要になっている。皿=円は、球の断面としてあり、穴はネガティブで空虚な皿=円であろう。たとえば、肛門の奥にある尻子玉を取ることに対する報酬として希望の皿があるのと同様に、ピンボール---ボールが穴に落ちる---の報酬として、皿状の平たいキャンディーがある、など。一稀と春河との関係を回復させたのは、希望の皿ではなく、丸まってボールと化したケッピ自身がパスされることだった。)

問題なのは一稀の忘却であり、忘却によるループの経路の断線であろう。だから、今後重要になってくるのは、その忘却の原因(謎・秘密)であり、その原因を越えてループのための経路を新たに作り出す、登場人物たちの関係のフォーメーションとその媒介であると思われる。

●そうであるならば、一稀、悠、燕太が「三(三次元・球)」であることに対し、玲央と真武が「二(二次元・円・皿)」という違いも効いてくるのではないか。

●『虚構世界はなぜ必要か?』がアマゾンで品切れになっていたのだが、復活していた。

 

2019-05-30

●余裕がないので、トイレのなかではじめの方をちらっと読んだだけなのだが、『身体(ことば)と言葉(からだ)(山縣太一+大谷能生)におもしろいことが書いてあったので、メモしておく。

《オフィスマウンテンでは、たとえば、ワークショップやはじめての稽古の時などに、俳優の一人一人に、今朝起きてから稽古場に来るまでの自分の行動を、みんなの前に立って話してもらう、といったことをおこないます。》

《覚えた脚本を発話する稽古の前に、まずは自分の声で、自分の言葉で、今日の自分の出来事を話してもらう。俳優は前に立って、何時にどのように起きたのか、ご飯は何を食べたのか(…)というようなことを話して、みんなに伝えます。ひとしきり話が終わると着席して、次の人の番になるのですが、次の人はまず、自分のことを話す前に、前の人が話したことを、その時の身振り手振りや言い回しも含めて、思い出せる限り正確に再現してもらいます。》

《真似して話す作業は人によって得手不得手があって、いま見て聞いた内容なのにまったく再現できない、という人もいます。そもそも、特に意味のある話ではないので、もう一回同じことを同じように話すのは本人でも難しい。》

《みんなでその再現を見ながら、自分が覚えている動きを指摘したり、抜けている話を追加したりして、何度か繰り返して確認します。それが終わったら、今度はその次の人が自分の今日の話をして…以下、全員がこれを繰り返します。》

《話しながら無自覚におこなってしまう身体の表現は、ひとりひとりまったく異なっている。ぼくたちは他人が自分の真似をしている姿を通して、むしろ逆に、「ひとつとして同じ身体はない」ということを目の当たりにするのです。》

《このような俳優の固有性は、「人前で話す」という「異常事態」にあって際だちます。》

●ここではおそらく二つのことがなされている。一つは、自分の無自覚な喋りや行為を「人が真似したものを見る」ことで自分の動きを意識するということ。もう一つは、他人の無自覚な喋りや動きを(意味ではなく形を)「正確に真似する」ということ。それは、自分の身体の動きが、他人の身体によって再現されたものを見ることと、他人の身体の動きを見て、それを自分の身体を用いて再現すること、だろう。

この本では、それらを通じて、俳優が自分の身体の固有性を発見するということが書かれているのだが、これはどちらも「交換」と「反復」に関わる行為であり、それ自体が虚構的なものだ。他人による反復、他人の反復という虚構性が、個々の俳優を(取り替えのきかない)固有性へと導く、ということになる。

●そして、もう少し後には次のように書かれている。

(…)「演劇」は繰り返されるものです。「繰り返される」という時点でフィクションです。ぼくたちは「何かを繰り返すことができる」というフィクションを、可能な限り魅力的なかたちで上演したい。そのために選ばれている素材として、何度読んでも変わらない書き言葉としての戯曲と、それぞれに個性的な情報を抱えた、生きて死ぬ一回限りの身体をもった俳優が、舞台に存在しています。》

ここでは演劇における「書き言葉(戯曲)」と「身体」の関係が書かれているのだが、それを少し脇に置いて考えると、わたしたちは、それぞれに個別の「生きて死ぬ一回限りの身体」をもち、「二度と戻らない今」を生きているのだが、しかし同時に、何かを繰り返すことができるし、他人を真似する(行為や言葉を交換する)こともできる。つまり、この身ひとつでフィクション(反復と交換)をたちあげることができる。そして、何かを繰り返したり、真似したり(交換したり)するというフィクション(虚構)を通じてはじめて、取り替えのきかない固有性(現実の一回性)を得ることができる、ということではないだろうか。

意識的に舞台に立ち、意識的に「異常事態」に直面しようとする、いわゆる「俳優」でなくても、ふつうに人と会話するということのなかに、人前にたち、何かを反復させ、何かの真似をするという行為が、つまりフィクションのたちあげが含まれていると考えれば、ふつうに人と話すことが既に演劇であることになる。というか、「演劇」が可能であるからこそ、私たちは他人とふつうに話すこと(現実的な、一回限りの生における会話)ができる、ということではないか。

●最初に引用したこと、つまり、自分の身体の動きが他人の身体によって再現されたものを見ることと、他人の身体の動きを見てそれを自分の身体を用いて再現すること、それらを通して自分の身体の固有性の場を確保することは、それとして意識的になされなくても、私たちが常に行っている(それを通じてこそ「現実の一回性」が確保される)普遍的な行いなのではないだろうか。

 

2019-05-29

sora tob sakana、本当に三人になってしまったのだな。四人での完成度がとても高かっただけに、一人抜けるのはやはり痛い。

190526 sora tob sakana

https://www.youtube.com/watch?v=ZqIl45cQHl4

アイドルの面白さの重要な点の一つに「(大人に)やらされている感」というのがあるとはよく言われる。いわゆるアーティストとは違って、その活動のモチベーションが能動的(主体的)であるより受動的である感じ。sora tob sakanaや、フィロソフィーのダンスMaison book girlなどにおいて、その意味は、アイドルがプロデューサーのメディウムとして存在しているようにみえる、ということであるように思う。

(「やらされてる感」のありようはグループによってそれぞれ異なる。)

メディウムとは、たとえば画家にとっての絵の具やキャンバスのようなもののことだ。絵の具やキャンバスは、自ら主体的に「絵」になることはない。でも、画家は一方的に、自分の自由に、絵の具やキャンバスを奴隷のように使うのではなく、その特性を探り、特性と対話し、絵の具やキャンバス自身がもつ可能性を最大限に発揮するような表現の形をみつけだそうと試行錯誤する。ただ、そうであるとしても、絵の具やキャンバスが、自ら積極的、意識的に自分を表現するのではない。

(プロデューサー---あるいは「運営」---とアイドルとの関係は、主体と客体ということではないと思う。)

アイドルは、自ら積極的に自己表現するのではなく、(誰かがお膳立てした)ある表現のシステムのなかでそのメディウムとなることによって、結果として自らを表現する。「アイドルは自我があってはいけない」という言い方もあるが、それは、アイドルは自己を抑圧してグループに奉仕せよということではなく、積極的、意識的な表現とは別の(他者がつくった)過程や通路に入り込むことを通じて、結果としてそれが、(積極的、意識的には出来ない形で)自己を表現することになる、ということだと思う。

とはいえ、人には自我が芽生えるものだし、自らがメディウムとしてあることに満足できなくなることもある。「やらされている」ことによって十全に近い自己表現が実現していたとしても、そうではなく、自ら「やりたいこと」をやりたくなる。それは必然であり、そうなったら、そうするしかないだろう。つまり、メンバーがグループを抜けるのは必然であり、誰もとめられないだろう。

(アイドルというのは、安定したメディウムではないのだろう。)

 

2019-05-28

●用事でいっぱいいっぱいで、最近この日記に意味のあることをほとんど書き込んでいない気がする。

●『虚構世界はなぜ必要か?』の刊行イベント《「虚構」と「制作」》(68日・RYOZAN PARK巣鴨)について。

https://www.facebook.com/events/600519313800983/

トークの相手をして下さる上妻世海さんとは、以前、「週刊読書人」の、「<別の身体を、新しい「制作」を> 『制作へ 上妻世海初期論考集』(エクリ) を読む」という記事でご一緒しています(20181130)。上妻さんの著書『制作へ』について、人類学者の奥野克巳さんと三人で鼎談しました。

https://dokushojin.com/article.html?i=4618

古谷  花鳥風月には、お金持ちしかアクセスできないという話は、アートの世界にも共通するように思います。現在のアートは、お金持ちのコレクターとギャラリストが手を結んで、財産を保護していくような仕組みになってしまっている。でも上妻さんは、本書のあとがきに、「一つの〈形〉を作ることは、いつか、どこかの、だれかが別の〈形〉を作るための足場を作ることに似ている。僕は直接誰かと繫がることよりも、なにか〈形〉を媒介にして、部分的に、間接的に繫がる共同体の可能性を、どこかで信じているのだろう」と書いています。たぶん、本来アートに関わるというのは、そういうことなのでしょう。作品として自分を形にし、普通なら接点のないような人にも何かが伝わったとき、そこから小さな共同体が生成されていく可能性。そのことを信じていく必要があるのだろうと。

 

上妻  消費や参加にとどまって、ある種の制度や組織の中でだけ流通するような、論文はもったいないですよね。人類学の知識が、学者の間だけで流通する論文ならば、それは本当に人類のためになっているのか。制作的視点を持った瞬間に、人類学も、認知科学も、芸術史も、僕らが生き延びていくための一つの重要な素材になるんです。

それはアート作品も同じで、制度の中で、過去に基づいて現在を評価するのではなく、プロトタイプとして未来に繫がるようなもの。僕らの身体に効くか効かないかを前提に、作品を通してみんなが考えるきっかけになったり、自分なりの概念を作るきっかけになるようなもの。各々が制作的になる視点へ、説得しつつ誘惑する、そういう文章を書いたり展示をしていくのが、僕の役割ではないか、と思っているところです。 

●おお、レジェンドのインタビュー記事が…。《お姉ちゃんは渡り廊下がうまいんです》《…世渡りがうまい?》。

巷で“レジェンド”と呼ばれるアイドル・SSW、小日向由衣って?─未発表曲を含む独占音源配信開始

https://ototoy.jp/feature/2019052201

ただ、このインタビューでは、レジェンドのすごさが充分に伝わらない感じもある。前にもリンクしたけど、下の動画を観るのがいいのではないか。

まんぼう×ヨネコ×レジェンド3マン ~ #あの夜再び 吉田豪x桐原ユリxヨネコx小日向由衣 20190421 阿佐ヶ谷家劇場

https://www.youtube.com/watch?v=h2NbUqNs5qk

多くの人は、これを観ても、なんて緩い、なんてぐだぐだなイベントなんだと思うだけかもしれないが、時間に余裕のある時に、自分のリズムをできるだけこのぐたぐだ感にあわせるようにして、最後まで通して観てみることに成功したならば、この奇跡の感じを体感できるのではないかと思う。

 

2019-05-26

●アマゾンで、『虚構世界はなぜ必要か?』が品切れになっているみたいで、中古の本に五千円以上の値段がついてしまっている。

(定価は2800円+税なので、買う人はアマゾン以外で買ってください。)

noteに、『ハレルヤ』(保坂和志)の書評(「おとぎ話が跳ねる経験とレトロ未来」)をアップしました。初出は「群像」201811月号でした。

https://note.mu/furuyatoshihiro/n/n3aecf4fff09c

●どこまでも軽薄な新しいもの好きでいたい、とは思うけど、(「歴史の現場」に立ち会う)時代の生き証人になりたい、みたいなことはあまり思わない。この二つは近いようでかなり違うと、ぼくは思う。

 

 

2019-05-25

●用事にかかりきりの状態がつづいていてつらい。ようやく終わりがみえてきたが、気を抜いている余裕はない。

●下の記事の動画をみると、「モナリザ」は動かしてはいけないのだということが、よく分かる。

モナリザが眉をひそめる、機械学習が昔の絵画や写真に命を吹き込む

https://jp.techcrunch.com/2019/05/23/2019-05-22-mona-lisa-frown-machine-learning-brings-old-paintings-and-photos-to-life/

モナリザ」は、あの状態こそが完璧なので、動かしたらすべてが「台無し」になるのだということが、動かしてみることで明らかになる。ダ・ヴィンチが、静止した「この状態」を見つけ出すのに、どれだけの試行錯誤をしたことだろう、と。勿論、技術それ自体はすばらしいと思う。

(モナリザはある意味ではポップアイコンでもあり、たんにわかりやすい例として使っただけのだろう。それにしても、見るに忍びないくらいすべてが崩れてしまう。2Dより3Dの方がリアル---ワンランクアップ---であり、静止画より動画の方がリアル---ワンランクアップ---である、というのは無根拠な思い込みだというわかりやすい例だろう。下手に使うと、それとして完成されているものをわざわざ台無しにすることになる。繰り返しになるが、技術そのものを悪く言っているのではない。)