2019-06-07

●いつでもどこでも、常に(人間との)コミュニケーションを求められるのは辛い。

(人間とのコミュニケーションが嫌なのではなく---そもそもそこから逃れられはしない---「人間しかいない(コミュニケーションしかない)」場所は辛い。)

人間関係とは違う、あるいは、人間を介さない、世界との関係が、必要だ。

たとえば、美術館は孤独でいられる場所であって欲しい。これは正義の主張ではなく、たんにぼくの「願い」だが。

(誰でもない誰かとして、一人でぽつんと絵を観たい。人間とではなく作品と対話したい。素朴過ぎることを言っているのは自覚しているが、ぼくにはそういう美術館が、生きるために必要だ。)

 

2019-06-06

●お知らせ。67日発売の「新潮」7月号に、「ものごころと蜘蛛の巣/三国美千子「いかれころ」論」が掲載されています。

(「いかれころ」は六月末の発売みたいで、本がまだ出ていないのだけど。)

https://www.shinchosha.co.jp/magazine/shincho/

●おお、U-NEXTとアマゾンビデオで『霊的ボリシェヴィキ(高橋洋)が観られるようになった(ディスクも出た)。これはすごいので観た方がいいと思います。

霊的ボリシェヴィキ』の感想。

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20180222

●『虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察』刊行イベント《「虚構」と「制作」》(上妻世海×古谷利裕/68日・RYOZAN PARK巣鴨)の宣伝として、本の一部分を引用します。以下は、『君の名は。(新海誠)についての言及です。

https://www.facebook.com/events/600519313800983/

現実には起こらなかったことにまつわる、誰も思い出すことのできない記憶を、正確に掘り起こそうとすること。奇妙な言い方かもしれませんが、フィクションをそのようなものだと考えることができると思います。『君の名は。』の結末で三葉と瀧は、この世界の現実のなかには既に存在しない「二人の関係」を、出会うことによって「思い出す」のです。事の顛末を詳細には思い出さないでしょうが、忘れてしまったなにかしらの出来事があったことを確信し、その出来事の相棒が今、目の前にいる人物であることを思い出すとは言えます。そして、この出会いの成立が示すのは、この世界の内側には既になくなってしまったものが、しかし潜在性として「未だここにある」ことでしょう。わたしが現にある「このわたし」とは別様であり、世界が現にある「この世界」とは別様であるあり方で存在し得た可能性が、「このわたし」「この世界」と同時に「ここ」にある。そのように、客観的、あるいは物理的には存在するとは言えないものが、潜在的には存在すると言えるとするならば、フィクションとは、それを正確に掘り起し、提示しようとすることではないでしょうか。

顕在的なこの世界を「ここ」と、潜在的で別様な世界を「そこ」と言い換えるなら、フィクションは「ここ」と「そこ」との転換(反転)を企てようとするものだとも言えます。(p261)

 

2019-06-05

●「豪の部屋」に出ていたPANTAが、最後の方でちらっと橋本治の通夜の話をしていた。

パンタ(PANTA)という固有名を知ったのは、橋本治の『秘本世界生玉子』によってだった。でも、実際にパンタや頭脳警察を聴いたことは一度もない。その「名」だけが頭に今まであった。中学生の頃に読んでいた本に出てきた登場人物の姿を、五十歳を過ぎてから(ネットのアイドル系配信番組で)はじめて見たことになる。

そして、そこでその人が本の著者の通夜のことを話した。

 

2019-06-04

●引用、メモ。上妻世海「森の言葉 序説 全てのひそひそ話のために」(「たぐい」vol.1)より。

《これは「制作へ」のなかで「蝶番」という概念として主題化したものである。例えば、狩りの時、僕たちは獲物の視点から自らを見ることで、翻って、自らの行動をいかにとるべきか知る(獲物が僕がどう動くと考えているかを知ることで、その裏をかくことができる)。あるいは、チェスの場合、自らの駒の動かし得る可能世界だけでなく、向かい合った対戦相手がどの駒をどのように打つかを考えることで、翻って、自らの打つべき手を知る。》

《松野孝一郎はこのような一人称-二人称の現在進行形で「指された後に相手を指すという行為が、実は経験の生成する現場である」と言う。何故なら、この指し示すこと、指されることを巡る往還運動こそ、受動を能動に、能動を受動に変換することであり、その変換運動こそが生成を担っているからである。「蝶番」の機能がこの双方向の変換を担っていることは、狩猟の例、あるいはチェスの例を思い返してもらえれば分かるだろう。(…)故に、この「鏡像反転」は相手の視点へと憑依するだけでなく、相手の想像する自分の視点にも立たなければならない。》

《この「私とあなた」の間にある対話的な往還、一人称-二人称的な言語を松野は「ひそひそ話」と呼んでいる。》

●「制作へ」までは、「間に(事後的に生まれる)鏡を挟んだ二項関係」として描いてきた上記のようなこと(「私でなく」「私でなくもない」)を、ここではパースを援用しつつ、記号過程の三項関係として描こうとしているところがとても面白い。二人称的関係を三項で(三人称で、ではなく)説明することによる意義は大きいと思う。

(そしてこのパース的な三項関係は、ほぼそのままハーマンの議論へとつなげられると思う。これはぼく個人としての興味。)

情報とは「差異を生む差異である」

(…)情報がどんな情報かは、その個体が差異をいかなる差異として解釈するかに依存する。つまり、どんな個体が「経験の生成する現場」に参入しているかによって、生じる情報は異なるのである。これは情報を一般化できない最大の理由である。情報は個体に依存する。》

生物学者ジェスパー・ホフマイヤーは「ある晩に私がツグミが不意に鳴き出すのを聞いたとすると、私は木を見上げ、その鳥を見つけようとするだろう。言い換えると、私の耳に届いた音は、身近のどこかにツグミがいるに違いなという効果をもつインフォメーションを私の脳に作り出す。蛾が近くの壁にぴったりついていたとしても、このツグミの鳴き声は蛾にとっては何のインフォメーションももたらさない。ツグミの歌は蛾には聞こえない。完全に相違をつくらない相違がこれである。それゆえ、インフォメーションではない。そして私の小さい息子は「鳥」と言おうとするかもしれないが『ツグミ』とは言わないだろう。彼は、同じ歌声から別のインフォメーションを引き出したことになる」という。》

《これは言い換えれば、情報の基盤には個と個の「蝶番」があり、一人称-二人称の関係があるということだ。そして、その間にある翻訳過程こそが情報を生み出しているのである。》

《パースは、この翻訳過程を記号過程と呼んだ。そして、主体と客体という二項関係ではなく、記号と解釈項と対象という三項関係による記述を必要なものと考えた。パースの記号の定義をホフマイヤーが言い換えたものを引用すると「記号とは…ある観点なり立場から誰かに何かを表すもの」である。つまり、ある観点なり立場がなければ記号は存在しえない。》

《しかし、これは事前に対象と切り離された主体を設定することとは異なる。なぜなら、情報そのものは個と個の接触以前には存在しないからである。個それ自体の情報は接触することによって生じる。》

●経験(情報)の主体は常に《指された後に相手を指す》という形で、二人称的関係の事後(経験の後)に生じる。しかし、そもそも事前に個(主体)がなければ、情報(経験)を生むための「個と個の接触」を考えることはできない。

ここに三項で考えることの意味が出てくる。パースにおける解釈項は、主体や個以前の、その萌芽となるような「記号過程の淀み」のようなものであり、世界の可塑的性質に刻みつけられた「一時的に保持される形態や機能」であり、そして《習慣》であると考えられる。つまり、習慣は、未だ主体足り得ない、世界に遍く散らばっている準-主体的な、弱い主語的統合機能だといえる。

習慣は、世界のなかで(偶発的に)起こる、関係(出会い・出来事)の反復性によって形成されると考えられる。ある特定の出会い(出来事)の偶発的反復が、《「一人称-二人称」の往還運動》にまで発展することで、習慣として記号を解釈する解釈項が生じると考えることはできるだろう。そして、習慣が生まれることで、記号過程の連続的、持続的な生成と発展が促される。

《ホフマイヤーはツグミの鳴き声を聞き、木の方を眺めたが、蛾はそれを聴くこと(記号として解釈すること)ができなかった。(…)それは蛾にとってツグミが関係を持たない生物だからである。つまり両者は接触することが滅多になく、差異(情報)を生み出すことがない。》

《蛾とツグミは出会わない。故に「習慣」が形成されることはない。しかし、世界には多種多様な出会いが存在するだろう。「習慣形成」には「一人称-二人称」の往還運動が必要である。》

●形成された《習慣》は可塑的なものであり、《習慣形成》は終わりのないプロセスである。

《子供が成長し、学習機会に恵まれ、その鳴き声は「鳥」というクラスの「ツグミ」というメンバーであると知れば、次にその鳴き声を聞いたとき、彼の子供も「ツグミ」の鳴き声であるという解釈を行うことになる。これは新たな「習慣」が形成されたことを意味する。(…)差異を生み出すものは「習慣」であり、差異に違いを生み出すのは「習慣形成」なのである。》

(…)僕たちは「経験を生成する現場」に立ち会うことによってのみ「記号過程」を生きることができ「習慣形成」が生じるのである。その時、「経験を生成する現場」と「習慣形成」とは同時に生成している。(…)「習慣形成」は「現場」で生じているし、「現場」も「習慣形成」によって生じている。》

●このテキストでは、「三人称」の発生についても触れられている。

《松野(孝一郎)は「一人称、二人称を三人称現在形に橋渡しするもうひとつの可能性は、進行形を完了形に変換すること、つまり記録です」という。》

《松野は「進行形」と「結果」の違いを説明するために、進化と自然選択を例に挙げる。自然選択は結果である。それは「結果」として生き延びている生物に対して、自然選択という「原因」を与える。しかし、進化は現在進行形で生じている。進化は個別具体的に進む。それは具体的な視点を持つ生物が絶えず、能動と受動を切り替えながら/切り替えられながら変化していく過程である。》

《そして、それは環境と他種との関わりという受動的な側面だけではなく、生物が環境をつくるという側面も持つ。》

(松野孝一郎からの引用)たとえば植物は、その勢力を増すにつれ、地球全体の物理化学的環境をも変えてしまった。生物は遺伝子と環境の相互作用によって姿を変えていくのはもちろんだが、環境もまたある程度生物によって帰られていく。生物は自分自身を造り上げるのに能動的な役割を果たしている。》

 

2019-06-03

●『虚構世界はなぜ必要か?』を読み返していた。

この本の一番の元になった講義を行った2013年の冬頃は、カーツワイル『ポストヒューマン誕生』(この本は現在では『シンギュラリティは近い』というタイトルになっている)やストロス『アッチェレランド』などを読んでいた時期で、テクノロジーの発展によって人間の「生と死」や「自己」のありようがまったく変わってしまうということが、SF的な思考実験や未来予測の話ではなく、自分のすぐ目の前に突きつけられたリアルな問題として迫っているのを生々しく感じていた時期だった。

カーツワイルは、2045年以降に人は死ななくなるということを言っていて、そして彼の本は、それが必ずしも荒唐無稽な与太話とは言い切れないようなリアリティがあるということを感じさせるものだった。それは、もしかしたら自分(たち)は「死ぬ人間」の最後の世代(「死なない人間」にぎりぎり間に合わない世代)なのかもしれない、という、常識的に考えればバカげたとしかいえない考えを、そうそうバカにできない考えとして受け取らざるを得ないのではないかという感触を、かなり強く与えられるものだった。

(「シンギュラリティ」という言葉が流行る二年くらい前で、当時、この話を人にしても、ただポカンとされるだけだった。今や、シンギュラリティという言葉が流行ったことすら忘れかけている人が多いけど。)

つまり、人間は長くても百年くらい生きて死ぬ、この件に関してはどんな金持ちでも偉大な人でも平等である、という、常識の根底にあるような死生感が、テクノロジーによって強く揺るがされた時期だった。金持ちは平気で千年くらいは生きるような時代が、自分が生きているギリギリくらいの時期(この「ギリギリくらい」というのが生々しいのだが)にやってくる可能性があるかもしれない(それは、不死のリアリティであると同時に、死の不平等が実現するリアリティだ)、ということをはじめて認識した時期だった。これはかなり大きなショックで、この感じによって、「死」というものに対する捉え方が大きく揺らいだ。

2013年の講義は、このような背景になかで行われた。それは、フィクション(アニメ)が「冥界(あの世)」というものをどのように表象しているか、あるいは、「この世」と「あの世」との関係を、世界観としてどのように組み立てているのか、そして、それがテクノロジーの発展によってどのように変化しているのか、ということを、様々な作品の例をあげながら、いくつかのタイプとして形式化してみるというような内容だったと思う。テクノロジーが人間の死というもののありようをドラスティックに変化させているという、当時の自分の「動揺」を反映していた。つまり、死というもののにおいがとても濃く香っているような内容だったと思う。

その後、2014年、2015年と講義が繰り返されるうちに、フィクションのなかで描かれる「冥界」というのは、フィクションのなかでフィクションとして機能しているものだ(あるいは、フィクションの世界観における「共同性」の基底を支えているフィクションだ---『共同幻想論』の「他界論」のようなものとして)という認識が強くなり、フィクションによってフィクションの機能や意味を考えるという方向に、関心の軸足が少しずつシフトしていって、「死のにおい(動揺)」は薄れていったのだと思う。

だが、改めて読み返して、最初の講義の時点にあった「死のにおい」のようなものが、(特に本の前半には)思ったよりも残っているものなのだなと感じた。そう感じるのは自分だけかもしれないが。

●『虚構世界はなぜ必要か?』刊行イベント《「虚構」と「制作」》(6月8日・RYOZAN PARK巣鴨)。

https://www.facebook.com/events/600519313800983/

2019-06-01

●ずっと束縛されていた用事がなんとか終わった。あとは、これを送り返せばよい。

●前に清水高志さんが「南方熊楠が、夢は見ている人の正面に見えるが、幽霊は垂直に立っていると言っている」と言ってたけど、ここで「夢」というのは(小鷹研理さんが研究しているような)いわゆる幽体離脱的な現象だと言っていいと思うけど、「幽霊」というのはどういうことなのだろうか(幽体離脱とどう違うのか)

記憶違いでなければ、確か『しんせかい』(山下澄人)に、寝ている自分の足元に自分が立っていて、立っている自分が寝ている自分を見ているのを、見られている(寝ている)自分が感じている、みたいな記述があったと思うのだけど、「垂直に立っている」幽霊というのは、そういう感覚なのだろうか。

「幽霊」ということは、時間的なズレがあるということか。夢(幽体離脱)において自分を見ている自分と見られている自分は同時に存在しているけど、垂直に立つ「幽霊」として自分を見ている自分は、今ここにいる自分とは違う時間に存在しているという感じだろうか。

そもそも幽霊は自分じゃないのか。