2019-06-28

●なんかすごく「真理」っぽい。清水高志さんのツイッターから引用。垂直性を、「いわゆる垂直性」としてではなく、二項対立的な認識のなかにたちあがる三つ目のディメンションとして考える。

《さまざまな宗教において垂直性が畏敬を感じさせるのは、ただ三次元だからだ。》

https://twitter.com/omnivalence/status/1144494530957205504

《内とか外とか包摂とか余白とかいう問題は、三次元のものとしてしか意味を持たない。有機体としての生物は、そうした状態を問い続ける存在である。それを二次元に落とすのは無意味なのだが、我々はつねにそうした思考をする。》

https://twitter.com/omnivalence/status/1144543332078477313

《主客のアプローチの客のほうをいったん軸足にして、主体による複数のアプローチを合成するのではなく競合させておくと、くるっと奥行きがでてくる。そこで包摂ということが起こる。》

《奥行きの、立体包摂の召喚。。。これはアフォーダンスの話なんだけど、岩田さんが祭とか儀式とかいうものに見ているのもこれに近い。「夜の夜が姿を現わす」とかそう言うの。》

https://twitter.com/omnivalence/status/1144816562026606592

南方熊楠は、自分が寝ているとき眼前に見えるのではなくて幽霊が垂直に立っているという。》

https://twitter.com/omnivalence/status/1144589230020018178

《「オルフォイスが歌うと、耳のなかに高い樹がそびえ立つ!」(リルケ)岩田さんが引用しているリルケだが、なんで「高い樹」なのかというと、それこそが垂直性だからだ。聴覚の世界と、3Dと垂直性。。しかもそれは「耳のなか」にあるのだ。》

https://twitter.com/omnivalence/status/1144597748127109122

《竹に石が当たった音を聴いた、岩に足をぶつけて血が流れて痛いと感じた、その瞬間「忽然として大悟す」というのが禅でよくある話だが、この「忽然」こそが「今」であり、シンクロニシティーである。》

 

2019-06-27

●うーん。ここのところ、興味をもって読みはじめたが、イマイチな感じなのでなんとなく途中で放棄するという本が何冊かつづいた。

(途中でなんとなく飽きてしまうのは、向こう側------の問題であると同時に、こちら側---自分---の問題でもあり、その間にあるものであろう。)

どの段階で、「この本はもうこれ以上読み進める必要はない」と判断するかというのは実は結構難しい。特に小説で、はじめて読む作家だったりする場合、「面白くない」という自分の判断に確信をもつまでに一定の時間が必要で、それは、ある時点までまったくピンとこないまま探り探り読んでいるのだが、あるところで、「あ、こういうことか」と気づいて、そこから面白くなるということがけっこうあるから。

(たとえば、歴史上の人物で、怪人物として知られる人が主人公で、その人の一人称的な語りによって物語が書かれている場合に、その語りに含まれる内省や思考が凡庸であまりにさらっとしていると、この人がこんなにつまらない人であるはずがないと感じて---物語の本筋がはじまるより前に---しらけてしまう。それなりに説得力のある「その人物らしい」内省を組み立てる必要があると思うし、怪人物の頭のなかをそのまま示すような文体にするとエンターテイメントとしてのリーダビリティ上問題があるというのならば、その人物の傍らに平凡な助手的な人物を配して、その人を語り手にするなどの工夫が必要なのではないか、などと---物語が動き出すより前に---思ってしまう。が、そこから先に、物語的に面白そうな仕掛けがもしかしたらあるかもしれないという期待も捨てきれない、というようなことがある。)

物語のある小説などの場合、なんか面白くないなあと感じていても、物語の流れにのってしまえばなんとなく惰性で最後まで読めてしまうのだけど、別に「審査員」であるわけでもなく、必ず最後までつき合わなければならない義務などないのだから、面白くないと判断したら途中でやめるということは---自分自身のために---重要なことであると思う。

 

2019-06-26

U-NEXTで『きみの鳥はうたえる(三宅唱)を観た。

いまさらだけどすごかった。普通に、とてつもなく、素晴らしい。初見での感想としては、最初から最後までずっと打ちのめされっぱなしだった、というくらいしか言葉がない。

「若い」ということそのものに不可分にくっついている、幸福、停滞感、寄る辺なさ、どうしようもなさ、を、ケレンもひねりもなくベタに引き受け、それでいて映画としてとんでもなく高度な、かっこいいものにしてしまう。

こんなことが実現可能なのか、と、とにかく驚かされた。

●女一人に男二人という関係で、劇的な三角関係にならずに関係がふわっと推移していく的な話の映画は、それこそ『生活の設計』から『はなればなれに』から『ストレンジャー・ザン・パラダイス』から、山のようにすごい作品たちが過去に既に存在していて、いまさらそれをやってもあざといだけというか、また、それなりによい作品になったとしても、まあ悪くないけどねくらいの反応しかできなさそうだという感じをもっていたのだが、そういう思い込みをものすごい高見からぐわーっと超えられた感じ。

 

2019-06-25

●『さらざんまい』、最終話。この話は、失われたつながりを取り戻そうとするという意味では『君の名は。』みたいだし(ミサンガ=組み紐)、「つながり」を過去に遡って消していくことによって「現在」を変えてしまおうとする()という意味では『シュタインズゲート』みたいでもある。

●前回までの重たい展開とは違って、最終回はちゃんと気持ちよく終われる展開だった。ただ、最終話の物語が終わった時点(悠が三年の刑期を終えて出所した時点)では、ハッピーエンドと言っていい状態であると思うのだけど、それより先の三人の関係がかならずしも順風満帆ではない---というか、あまり明るくない---可能性が(そのような未来の姿が)、まるで回想シーンのようにしてあらかじめ繰り込まれているという形になっていて、ハッピーエンドが相対化されているという含みがあるところが味わい深い。

ひとまずつながりは保たれたが、しかし未来が明るいとまでは言えない。

(未来の困難は、「さらざんまい」のこれまでの各話のタイトルを反復するように同様の「問題」が未来において回帰することが予感されるという形でなされている。しかしその回帰が、「同じような問題の回帰」であると同時に未来への展開となっていることによって、この作品の途中に濃厚にあった、同じ時間が回帰する「ループ物」を予想させる匂いに対する裏切りになっているところも面白い。)

●最終話は六話と対応関係にある。六話では、カワウソ帝国のアジトへ地下深く潜行し、一稀が春河を救うために自分の存在を消そうとすることのだが、それを、燕太と悠とが食い止めようとする。最終話でも、水の底(カワウソによって操作された黒ケッピの内部)深くへと潜行しながら、今度は悠が、自分と世界との関係を断ち切ってつながりの外を出ようとするのだが、それを、燕太と一稀とが食い止めようとする。

六話でも最終話でも、自らの存在を消し、つながりの外へ出ようとするのは一稀自身、悠自身の意思であり、希望ですらあって、誰かから強いられたものではない。しかしそのような本人の意思を無視してでも、他の二人はその遂行の邪魔をする。その邪魔によって、一稀も悠も、この世界とのつながりを維持しつづけることが出来る。ここで、世界とのつながりは、自分の意思というよりも、自分をひっぱりあげる「他人の手」によって可能になる。自分の存在には、常に既に「他者の手」がかかわっている。

(今までの幾原作品に多くみられた「自己犠牲」の主題は第三者---主に燕太---によって拒絶されることになる。)

●『君の名は。』において、瀧と三葉とのつながりが切断され、二人の関係を示す記憶も物的証拠も次々と消えていってしまうなか、ただ組み紐と口噛み酒だけが二人をつなぐ媒介として残っていた。同様に、悠がつぎつぎと三人のつながりを消していくなかで、ただミサンガだけが悠と、燕太と一稀とのつながりを媒介するモノとしてある。

(ここには、兄と悠との関係を媒介するモノとしての銃と、三人の関係を媒介するモノとしてのミサンガとの闘争がある、とも言える。銃には、弾を撃つという機能があるが、ミサンガはただ「在る」だけで、何の機能も持たないのだが、最終的にはミサンガが勝つことになる。)

(ミサンガは、男性器・尿道VS肛門・直腸というイメージの対立には属さない、たんなる輪である。)

このミサンガは、この物語の前半では、 一稀→春河→燕太→一稀という小ループの媒介として、後半では、悠→一稀→春河→燕太→一稀→ 悠、そして(一稀、燕太、悠)→少年の頃の一稀という大ループの媒介として機能する。後者の大ループは時間の遡行を含むという点でも『君の名は。』と共通している。

(君の名は。』には、組み紐や口噛み酒さえ失い、世界全体が二人の関係を完全に忘却してしまった後でもなお、二人の間につながりはあり得るのかという問いがあるが、ここでは、関係の媒介であるミサンガは存在し続けている。)

●ただ、この大ループが完全だと言いがたいのは、悠が遡行していった過去の世界で、少年時代の(一稀にミサンガを渡すはずの)悠が消されてしまっているからだ。だから、少年時代の一稀にミサンガを託すのは、少年時代の悠ではなく、現在から遡行していった三匹のカッパ(一稀、燕太、悠)の集合体としての「さらざんまい」だということになる。

ならば、ミサンガを受け取った一稀少年は後にサッカーを始めるかもしれないし、燕太と出会うことになるのかもしれないが、この世界には既に悠はいないのだから、それは悠とは何の関係もない出来事ということになってしまうのではないか。一稀は、悠のこと(ミサンガの出自)を思い出すこともないし、悠に出会うこともない、ということになるのではないか。

あるいは、悠が消えてしまった世界(悠が時間を遡行した世界)と、 一稀がミサンガを受け取った世界(一稀の記憶の世界)とは、別の異なる世界だとも考えられる。悠が遡行した世界では、悠は縁の外側に消えてしまったが、一稀の世界ではまだ縁がつながっていて、悠の出所後も三人の関係はつづいている、と。エンディング曲以降に示されているのは後者の方の世界である、と。

これは意図的になされた極端な解釈に過ぎない。とはいえ『さらざんまい』では、ループ物の匂いは希薄になっているとしても、多世界的であるという匂いは割と残っているのではないか。

 

2019-06-24

●技術というのは目に見えてあらわれているところには既にない。

技術とは、未だあらわれていないもの、認識できていないものを、あらわし、認識するためのもの、その間(見えないと見えるの間)を媒介するものであって、既にあらわれてしまった(目に見えてしまった)もののなかにあるのは技術の結果でしかない。

技術の結果でしかないものを技術と取り違えるところに形骸化が生まれる。

(しかし、技術の結果としてあるものを、一つのフォーマットとして使うことはできるだろう。)

逆に、重要なのは、技術の結果でしかないものから、技術のありようを直感し、それを掴むことだろう。

 

2019-06-23

●『ぼくはきっとやさしい』。町屋良平をはじめて読んだ。

スケールが小さいのかスケールが大きいのか分からない、スケールレスな小説だった。スケールレスという感じは、隙間の多さからくるものと思われる。そしてそのためなのか、「無限」について考える時に襲われるような種類の不安に、読んでいてしばしば襲われた(無意識のうちに前提として依存しているものを、無意識のままでふっといなされて、根本的な何かが揺らぐ、図がその前提としている地が、しばしば揺らぐ、という感じ)。それはおそらく、この小説がおもしろいということなのだと思う。

(分析欲をかきたてられるような小説でもあるが、しばらくは、一読した感触を不定形のままで留めておきたい感じだ。)

 

2019-06-22

RYOZAN PARK巣鴨で、保坂和志小説的思考塾vol.4。今回は人称の問題がテーマ。

●「小説は小説の外に真偽の根拠はない」と保坂さんは言う。だがこれは、「テキストは閉じられている」という意味ではないだろう。ここで言われるのは出来事の「真偽」のレベルの問題で、たとえば小説に書かれた出来事の「真実らしさ(リアリティ)」の基準は、小説の外にある現実的な出来事を判断する真実らしさの基準には依っていない(それによっては測れない)、ということだろう。その小説で起こる出来事のリアリティは、その小説自身によって支えられる、と。

(あるいは、「神の子が死んだということはありえないがゆえに事実であり、復活したということは信じられないことであるがゆえに確実である」というような、---小説という大枠がなくても---文単位でそれ自身で成り立つ逆説的なものの説得力というのもある。)

しかしそれは、小説(あるいは言語)がそれ自身として自律しているということではない。まず、言語の有り様は身体に起源をもつ。

たとえば、内村航平が、横たわった状態で自分の競技をイメージする時に脳の状態を調べると、脳の実際に筋肉を動かしている部位が活性化しているというのだが、別の選手で調べてみると、その選手は脳の視覚を司る部位が強く活性化していたという(Nスぺ」より)。つまり、同じ体操選手でも、自分のやっている動きをどう捉え、どのように組織しているか、そのやり方が異なっている。

保坂さんはここで、内村航平のような身体-運動の把握が一人称的で、別の選手の視覚的な身体-運動の把握が三人称的なのではないかと言っている。つまり、どのような人称によって書く(書かれる)のかということは、それを書き、読む人の個々の身体の固有性が強く作用することで、たんに形式的な操作によって交換可能なものではない、と。だからそれは小説内部の問題だけでは決まらない。つまりここで言われている「人称」は必ずしも文の形式のことではないはず。

たとえば、「私が犬とじゃれあっている」という一人称で書かれた文があったとする。この文を、まさに「私」の感覚を基点にして、犬の体温や毛並みの触覚的な感じ、息のにおいや舌の湿ったペタッとした感触として受け取ること(一人称的)も可能であり、あるいは、犬とじゃれ合っている私を、その外から私が見ているような、話者-わたしと描写対象-わたしとが分離した文(三人称的)として受け取ることも可能である。そして、そのどちらの感触が強く惹起されるかは、その文を含む小説の他の部分のありようとその文との関係や、それを読んでいる人のもつ身体的な特異性によるだろう。

●だが、言語が身体に起源をもつというだけでなく、身体の「構え」が、言語のありようによって決まってくるということもある。ある具体的な形をもつ文を書いてしまうことで(あるいは「読む」ことで)、その文のもつ形に身体の「構え」が自動的に導かれ、あるいは拘束される。ある一文を書いた(読んだ)ことで、「構え」が開かれたり、変化したりすることもあるし、ある一文を書いた(読んだ)ことで「構え」が決まったり、固着してしまったりすることもあるだろう。

一人称、あるいは三人称という形式は、そのような意味で書く(読む)人の「構え」を導き、ある一定の振り幅のなかに安定させ、「書くこと(読むこと)」を持続可能にする大きな枠として作用するのではないか。

●保坂さんはこのトークを、「移人称」は技術の問題ではない、と言うところからはじめていた。それにはまず、人称の問題が、言語の形式や技術の問題である前に、身体的な「構え」に起因するものであるということを示すものだと思う。しかし同時に、既に形式や制度として存在する「人称」は、そのような「構え」を導き、発生させ、安定させ、抑圧しもする、という効果をもつ。

だから問題は、たとえば「移人称」のような形式の揺らぎは、形式的に高度な操作(技術)なのではなく、言語の側からもう一度、固着化した身体的な「構え」を動かし、変化させていくための(フィードバック的な)アプローチの一つであるということができる。

そしてもう一方で、身体の「構え」の変化が、そのような形式的な「破れ」を要請したのだと考えることもできる。つまり、そのような形式(形式の破れ)が、「書く人」の意図とは別に、自然に(というか、自ずと)出てきているということでもあるはず。