2020-09-22

●『彼方より』(高橋洋)を、YouTubeで観た(9月30日まで限定配信)。

https://www.youtube.com/watch?v=ar8hicvEzo0&feature=youtu.be

いわゆる「リモート映画」は、映画館のスクリーンではなく、スマホやPCの画面で観られるべきものだろう。仮に、俳優が、スマホやPCに内蔵されているカメラによって撮られているとすれば、その時、俳優と観客はどちらも、合わせ鏡のように、ほとんど同じ姿勢でスマホやPCの前にいることになる。つまり、彼(女)らは、カメラの前にいるだけではなく、ディスプレイの前にもいて、撮られる(見られる)だけでなく、そのディスプレイにはこちらが(あるいは別の何かが)表示されている(かもしれない)。ディスプレイの表面の薄い膜一枚で隔てられた(非常に近くて、また遥かに遠い)向こう側とこちら側とに、彼(女)らと私とが鏡像反転したような形で存在している。私が彼(女)らに触れることは出来ないとしても、彼(女)らと私の間に、遠隔的だが対称的(双対的)な関係-構造が生まれている。

勿論それはイリュージョンだ。私が画面を観ている時、俳優は既にスマホやPCの前にはいない。それは既に撮影され、加工されたもので、つまり過去の痕跡にすぎない。彼(女)らと私はリアルタイムで交信しているのではなく、薄皮一枚を介して鏡像反転的対称性をもって存在しているかのような感覚はまやかしである(俳優たちは既に時間の外にいる)。とはいえ、このイリュージョンは、通常の映画における(観客から撮影対象への)視線の一方通行性を揺るがせ、観客が対象へと送る視線がそのまま反転して、観客に自身の身体の存在を意識させることにつながる。今、ディスプレイに表示されている俳優の身体の前にもディスプレイがあり、今、ディスプレイを観ている観客の身体もまた、向こう側のディスプレイ上に表示され得るものである、と。

ディスプレイの向こう側にいる俳優を観ることが、折り返されて、ディスプレイのこちら側にいる「私」の存在を意識させる。このような感覚が発生するためには、実際にZOOMやスカイプGoogle Meetなどによる通信を経験している必要はあるのかもしれない。とはいえ、このような経験は映画にはない新しいものではないだろうか。

たとえば、映画でカメラ目線で撮影された俳優を見る時、スクリーン越しに俳優と観客の目が合ったように感じられる。この視線の(本来交錯しない)交錯は、相手のまなざしを見る(自分が見られているのを見る)ことによって生じる。しかし、リモート映画における鏡像的対称性(への意識)は、相手のまなざしを介して起こるのではなく、通信技術や通信のメカニズム(対称的構造)への意識によって生じる。私の前にスマホやPC(ディスプレイ平面)があるのと同様に、彼(女)の前にもスマホやPC(ディスプレイ平面)があるはずだ、と。通信技術とディスプレイ平面を介した対称性の発生に、彼(女)が私を見ているまなざしは必ずしも必要ではない。

観客が、俳優たちとの鏡像的対称性を感じている時、向こう側には既に俳優たちはいない。だからこの対称的構造はイリュージョンである。だが、それによって意識される自分の身体は、たしかに今、ここに存在しているはずだ。そうだとしても、もし、向こう側にいる彼(女)たちの存在が危うくなるとしたら、そこから反転的に意識されている、観客自身の存在もまた、危うく感じられるようになるのではないか。こちら側は向こう側でもあり、向こう側はこちら側でもある(対称的)。対称性が意識される時、向こう側の危うさに、こちら側の存在が引っ張られる。観客が、幽霊のように既にそこにはいない俳優たちを介して自分の存在の意識を得ているのだとすると、そのような自分の身体の存在への意識は、はじめから危ういとも言える。

(このことは、『彼方より』における、この世とあの世との関係とパラレルであると思う。あの世=向こう側の「時間の関節」が既に外れているとすれば、その影響はこの世=こちら側にも浸透してくる、というような。)

●以上のことは、リモート映画であり得る「ある一つの層」についての記述にすぎない。たとえば、(時間と空間の関節が外れているかのように)複数の層が同時に走りながら複雑に絡み合い、スイッチが切り替えられつづける『彼方より』を、そのような一つの層だけで捉えることはとてもできない(たとえば、『彼方より』において、まなざしの力はとても重要だ)。だが、そのような層が存在するということが、この作品にいわゆる「映画」とは異なる様相を帯びさせている大きな原因の一つとは言えるのではないかと思う。

(つづく)

2020-09-20

●「無名アーティストのWildlife」が来年の一月で消滅してしまうので、日記だけでなくテキストも少しずつ別の場所に移動させていこうと思う。

まず、次の三つのテキストをnoteに移動した。

「地縛霊とモンスター/事前と事後 」(ツァイ・ミンリャン『楽日』、アルノー・デプレシャンキングス&クイーン』について)初出「映画芸術」416号 2006年

https://note.com/furuyatoshihiro/n/n99737de826af

「「見えること/見えないこと」と、信じること」(タルデンヌ兄弟『ある子供』、テリー・ギリアムブラザーズ・グリム』、ヴィム・ヴェンダースランド・オブ・プレンティ』について) 初出「映画芸術」413号 2005年

https://note.com/furuyatoshihiro/n/nf5483ff8db0d

「身体を崩落させる振動 」(ペドロ・コスタヴァンダの部屋』について) 初出「映画芸術」406号 2004年

https://note.com/furuyatoshihiro/n/nc8c0bb99326d

●2005年から2006年にかけて一年くらい、「映画芸術」誌で「外国映画時評」を担当していたのだが、当時、八王子に住んでいて都心から遠かったので、試写会を何件も回るのが大変だったという記憶がある。

ペドロ・コスタは、(映画祭などでの上映はあったかもしれないが)日本では『ヴァンダの部屋』ではじめて本格的に紹介されたはず。試写会の会場に「なんかすごいの来た」みたいな、盛り上がりというかざわつきというか、妙なテンションの雰囲気があった。

2020-09-19

●こんな音源があったのか。当時、すごく観に行きたかったけど、すごい競争率だった。「ヘンタイよいこ白昼堂々秘密の大集会」。1982年。坂本龍一田原俊彦の曲を歌っている。

忌野清志郎坂本龍一矢野顕子・CHABO・どんべ・鈴木さえ子 LIVE AT 品川プリンスホテル [Audio Only]

https://www.youtube.com/watch?v=-KzLigpAKI0

坂本龍一が「君に薔薇薔薇…という感じ」を歌っているのは、この年に矢野顕子と結婚したからなのか。

田原俊彦 君に薔薇薔薇と言う感じ

https://www.youtube.com/watch?v=JRsv708UCqM

矢野顕子が、高橋悠治のピアノ伴奏でクラシックの歌曲や高橋悠治の曲を歌った『BROOCH』というアルバムがあって、とても好きなのだが、このアルバムのライブを撮ったビデオ版というのがあるのは知らなかった。

85年くらいだと思うが、アートワークがモロにこの時代っぽい。

AKIKO YANO - BROOCH Pt.1/4~4/4

https://www.youtube.com/watch?v=YpwVX3WqCE4

https://www.youtube.com/watch?v=nY0QSIurNu0

https://www.youtube.com/watch?v=cNxK94qKe0c

https://www.youtube.com/watch?v=sKfZos_IZnQ

Akiko Yano [矢野顕子] - Brooch (Full Album)

https://www.youtube.com/watch?v=LCSw3PenU7w&list=PL4NXUZspQ7BxY8Dh6n24tkPsUoG0pGtwD&index=1

 

2020-09-18

ソネットからメールがきていて、来年一月でホームページのサービスを終了すると知らせてきた。来年の1月28日の15時を過ぎたら、データが消える、と。

「偽日記」は、1999年の11月に、ソネットの提供するU-Pageというサービス上につくられた「無名アーティストのWildlife」というホームページの一つのコンテンツとしてはじめた。ホームページは、「Adobe PageMill」というソフトでつくった。このホームページは既に更新されていないが、その存在を維持するために、月にいくらかのお金をソネットに支払いつづけている。そのサービスがとうとう終わるという。

これが消えてしまうというのは、名残惜しい感じがある。

http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/

二十年以上分の日記のデータの多くは既に「はてなブログ」に移動してあるけど、まだ、数年分のデータが移動し切れていない。

(一度、ソネットがサーバー移転のためにホームページのURLを変えると言ってきた時に移動し切れなかった分のデータ---2000年から2001年にかけて---が、既にけっこう失われてしまっているので、まるまる二十年分のデータがあるわけではないのだが…)

●それで、過去の日記を、どこまでテータが移動できていて、どれが出来ていないか調べていて、二十年前、33歳の誕生日の日記に行き当たった。自分が33歳だったことがあるという事実が、いまさら新鮮なことのように感じられた。そして、この日の日記に書かれている「散歩」のことを今でも憶えている。

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20000523

●自分が過去に書いた日記を読んでいると冷や汗が出る。この日の日記だけは「はてな」に再アップするのやめておこうかと思ったり、ちょっと、この部分だけは修正したいと思うところがけっこうある。

もし、自分がこのような書かれ方をしたら絶対怒るだろうという書き方を、えらそうに(攻撃的に)、というのならまだマシなのだが、きもちよさそうにしているところに腹が立つ。

それとはまた別に、時代と共に意識の変化があって、この記述(認識)は現時点からみるとちょっと問題かも、と思うところもある。

とはいえ、それは過去の自分が確かに書いたことなので(これは「ブログ」であるより「日記」なので)、基本的に「歴史」は修正しないでそのまま移行させるつもり。

2020-09-17

●正義の表現の量的制限についてのメモ(思いつきのレベルだが)。

表現の自由は重要だ。なにかを表現することに対するリスクが高くなり過ぎると、人々は自由にモノが言えなくなって危険だ。しかしもう一方で、表現に対するリスクが低くなりすぎても危険なのではないか。それによって、至る所で、果てしなく、集団リンチが起こっているような世界になってしまうのではないか(というか、既になっているのではないか)。

表現への規制が、表現の内容にかんするものであることは許されない。しかし、表現の量にかんするものであるのならば、ある程度は受け入れられるのではないか。

あなたは今日一日で、これだけはどうしても許せないと思った二つのことがらについて発信することが許されます。ただし、三つめや四つめについては、明日以降にまでとっておいてください。もし、明日以降にもその許せなさが持続するようであれば、その許せなさがその日の一位か二位になったならば、その時にそれを発信してください、というような。

つまり、各々が、自分にとってある程度以上重要な「正義」についてのみ表現できるという状態。

テレビを観ていて、ある出演者に対して、こいつムカつくと思うとする。そして、それを言葉にして、一緒に観ていた友人たちと共有するとする。ここまでは、これまでいくらでも繰り返されてきたことだろう。しかし、それをそのまま同じ気軽さでツイッターに投稿するとする。そして、その苛立ちが、たまたま、多くの人の間で共振されて広がってしまったとする。たんなる一時の苛立ちの、しかも、直接的に関係のない人物に対する苛立ちなので、抑制がまったくかかっていない多数の苛立ちの表現が、その出演者に向かって押し寄せることになる。

仮に、その苛立ちが正当なものであったとしても(その出演者の言動が倫理的に看過できないものであったとしても)、それは好ましいことなのか。

(正義は消費される。人は、正しいことを言うことで満足し、すぐにそれを忘れるが、言われた側は、言われたことを忘れることができないだろう。)

(現代のメディア環境が、我々から「悪態をつく」自由や楽しみを奪ってしまった、と言えるのかもしれないが。)

(だとしても、「これはおかしい」と声をあげることそれ自体が抑制されてはならないだろう。問題なのは、それが充分に検討されるより前に、容易に拡散され、同調---あるいは反発---され、制限なく増殖してしまうことにあるだろう。つまり、パズるということが頻繁に起こってしまうことが問題なのだと思う。)

たとえば、ぼくはハッシュタグによるツイッターデモというのは、とても危険なものだと思う。それが、あまりにも手軽で、(安易な同調や反発に対して)あまりにも制限がないものであるから。

リアルなデモであるなら、まず、(1)自分の身体をデモが行われる場所まで移動させなければならないし、また、身体は一つしかないので、(2)同時に二つ以上のデモに参加することはできない。それらの条件によって、表現の「量」の制限が自然にかかっている。

それが、なんらかの形で(相手が権力者であろうと)他者を裁くことになるような(なにかしらの「正義」にかかわる)表現である場合、それがあまりにも手軽になされることは危険だと思う。しかし、そこで表現への抑制が、抑圧や忖度によってかかってしまうのであれば、それもまた大変に危険なことだろう。だから、表現への抑制は、量的なものでなければならないと思う。

世界には、無視することの許されない重大な問題が(未だ表に出ていない潜在的なものも含め)山のようにあるだろう。だから、問題についての表現が「内容」によって抑制(検閲)されてはならないだろう。しかし、一人の人間がそのすべてについて考えたり、介入したりすることは出来ない。一人の人間の生きる時間は限られており、また、その能力も限られている。ならば、一人の人間に許される(正義にかんする)表現の「量」もまた、限られているのではないか。

2020-09-16

●今更という感じだけど、ちょっと前に「進次郎構文」というのが話題になった。小泉進次郎が、なんとなく意味ありげな語彙を使いながら、結局、空疎な、同語反復的な、何も言っていないに等しい発言をする、と、軽く馬鹿にするようにネタにする。別に、小泉進次郎を支持しているわけではないが、このような風潮に対してずっとモヤモヤするものがあった。言葉はもうちょっと丁寧に読もうよ、と。

そのように言われる発端になったのが、去年、環境相になって、福島第一原発の除染廃棄物問題について記者から質問された時の回答だろう。除染廃棄物の問題について、具体的に、今しようと思っていることは何か、という問いに、次のように答えた。

《私の中で30年後を考えたときに、『30年後の自分は何歳かな』と発災直後から考えていました。だからこそ私は、健康でいられれば、30年後の約束を守れるかどうかという、その節目を見届けることが、私はできる可能性のある政治家だと思います》

https://smart-flash.jp/sociopolitics/82416

この回答には、確かに、具体的に何をしようと考えているのかは何も語られていない。しかし、意味がないわけではないと思う。「30年後を考えたときに、30年後の自分は何歳かなと考えていた」という言い回しがトートロジー的だとも言われたが、背景(地)を考えにいれれば、それは違うのではないか。

ここで言われているのは、三十年後の自分は、事故や大病を避けられれば、まだ充分に元気でいられる年齢だし、政治家としても現役でいられる年齢だ、ということだろう。だからこそ、現時点で下した政治的な判断が、三十年後にどのような帰結となっているかという事について(三十年後に「約束は守られた」と言えるのか、ということについて)、自分は政治家としての責任をとることのできる存在だ、ということが言われている。つまり、年配の政治家では、三十年後には既にこの世にいないであろうから、三十年後の世界についての責任をとることが出来ない。だが、自分はまだ若いから、そういう人たちとは違う、と言っている。三十年後の世界が、自分にとっても決して他人事ではないという前提で行動しているのだ、と。

確かにこれでは、質問の答えにはまったくなっていないのだが---おそらく、具体的なアイデアが何もないので、はぐらかしたのだろうが---そうだとしても、ここではかなり重要なことが言われているのであって、同語反復的な(無意味な)言葉ということは決してないと思う。

ここで言いたいのは、「小泉進次郎は悪くない」ということではなく、「言葉はきちんと丁寧に読もう」ということだ。そして、人の話す言葉の「意味」は、字義通り、文法通りに読めば分かるというものではない(つまり、字義通りに読むことが「丁寧」ということではない)ということ。ポエムと言って笑う前に、詩を読解する努力をするべきではないかと思う(人の通常の発話は、論理的であるというよりずっと、詩的であると思う)。