2020-09-16

●今更という感じだけど、ちょっと前に「進次郎構文」というのが話題になった。小泉進次郎が、なんとなく意味ありげな語彙を使いながら、結局、空疎な、同語反復的な、何も言っていないに等しい発言をする、と、軽く馬鹿にするようにネタにする。別に、小泉進次郎を支持しているわけではないが、このような風潮に対してずっとモヤモヤするものがあった。言葉はもうちょっと丁寧に読もうよ、と。

そのように言われる発端になったのが、去年、環境相になって、福島第一原発の除染廃棄物問題について記者から質問された時の回答だろう。除染廃棄物の問題について、具体的に、今しようと思っていることは何か、という問いに、次のように答えた。

《私の中で30年後を考えたときに、『30年後の自分は何歳かな』と発災直後から考えていました。だからこそ私は、健康でいられれば、30年後の約束を守れるかどうかという、その節目を見届けることが、私はできる可能性のある政治家だと思います》

https://smart-flash.jp/sociopolitics/82416

この回答には、確かに、具体的に何をしようと考えているのかは何も語られていない。しかし、意味がないわけではないと思う。「30年後を考えたときに、30年後の自分は何歳かなと考えていた」という言い回しがトートロジー的だとも言われたが、背景(地)を考えにいれれば、それは違うのではないか。

ここで言われているのは、三十年後の自分は、事故や大病を避けられれば、まだ充分に元気でいられる年齢だし、政治家としても現役でいられる年齢だ、ということだろう。だからこそ、現時点で下した政治的な判断が、三十年後にどのような帰結となっているかという事について(三十年後に「約束は守られた」と言えるのか、ということについて)、自分は政治家としての責任をとることのできる存在だ、ということが言われている。つまり、年配の政治家では、三十年後には既にこの世にいないであろうから、三十年後の世界についての責任をとることが出来ない。だが、自分はまだ若いから、そういう人たちとは違う、と言っている。三十年後の世界が、自分にとっても決して他人事ではないという前提で行動しているのだ、と。

確かにこれでは、質問の答えにはまったくなっていないのだが---おそらく、具体的なアイデアが何もないので、はぐらかしたのだろうが---そうだとしても、ここではかなり重要なことが言われているのであって、同語反復的な(無意味な)言葉ということは決してないと思う。

ここで言いたいのは、「小泉進次郎は悪くない」ということではなく、「言葉はきちんと丁寧に読もう」ということだ。そして、人の話す言葉の「意味」は、字義通り、文法通りに読めば分かるというものではない(つまり、字義通りに読むことが「丁寧」ということではない)ということ。ポエムと言って笑う前に、詩を読解する努力をするべきではないかと思う(人の通常の発話は、論理的であるというよりずっと、詩的であると思う)。