2020-12-27

●いまさら、本当に、いまさらなのだけど、BEYOOOOONDSにひっかかった(一年以上遅い)。BEYOOOOONDSに、というより『眼鏡の男の子』にハマった感じ。曲は知っていたし、MVも観ていて、まあ面白いとは思っていたけど、普段のパフォーマンスからMVを完全に再現しているということを知って、改めて驚いたのだった。歌の前にドラマ(寸劇)があるMVはよくあるけど、はじめから寸劇と歌がセットになって一つの曲になっているのを観るのははじめてだ。そして、繰り返し聴いて(観て)いるとクセになって、さらに何度も何度も繰り返して聴いて(観て)しまう。

(メタ視点にある語り手の淸野桃々姫が、最期にちゃっかり眼鏡の男の子の彼女になってしまうというオチは、要するに語り手の彼女が事後的に自分の成功話を語っているという一人称の語りに落ち着くということなのだろう。というか、歌と踊りのセンター=山﨑夢羽と、語りの主体=淸野桃々姫の二者による闘争があり、語りの主体が勝利するという話、とも言える。とはいえ、最後には、この物語全体=マンガを読んでいる山﨑夢羽のカットがあるので、もう一回主客がひっくりかえって、すべては山﨑夢羽の妄想---頭の中---に回収される、とも言える。)

BEYOOOOONDS『眼鏡の男の子』(BEYOOOOONDS [The boy with the glasses.])(Promotion Edit)

https://www.youtube.com/watch?v=8D_H51VvINs

下のリンクは平場でのパフォーマンスの動画。これを観てハマったのだった。大人数(12人)であることを生かしたフォーメーション(の多層性)の面白さを、演劇(物語)を取り入れることで、モーニング娘とは違う方向で追求している。動きが物語に従属するというより、物語によって、動きが新たな展開へと開かれるように感じられる。この感じは、MVだけでは分からなかった。

(ぼくはどうも、多人数のグループアイドルが、みんなで統一された衣装を着ているという状態に居心地の悪い感じを抱いてしまうみたいだ。フィロソフィーのダンスがメジャーデビューして衣装が統一されてしまったことにもがっかり感をもってしまった。「眼鏡の男の子」状態のBEYOOOOONDSがいいと思うのには、そういう嗜好性も働いているのだろう。)

BEYOOOOONDS (ビヨーンズ) 眼鏡の男の子 

https://www.youtube.com/watch?v=ChP3vzJbPHM

そして物語はまだ続く。ライブ映像。

『文化祭実行委員長の恋』LIVE BEYOOOOOND1St_03

https://www.youtube.com/watch?v=SdcJBdHL1RU

『恋のおスィング』LIVE BEYOOOOOND1St_02

https://www.youtube.com/watch?v=LOr2ithLIw4

「元年バンジージャンプ」も、不思議と耳に残ってクセになる感じ。

BEYOOOOONDS /// 元年バンジージャンプ (LIVE BEYOOOOOND1St)

https://www.youtube.com/watch?v=uYU6WyMSHM8

派生ユニットのCHICA#TETSUは、曲がいい。

『高輪ゲートウェイ駅ができる頃には/CHICA#TETSU』LIVE BEYOOOOOND1St_08

https://www.youtube.com/watch?v=Y99qjxiRxoY

(正直に言えば、『眼鏡の男の子』のMVを観て最初に連想したのは『ねらわれた学園』の手塚眞だった…。)

映画『ねらわれた学園』 教室の風景

https://www.youtube.com/watch?v=InSQ1K3rYuM

2020-12-26

●「新人小説月評」をずってやっていると、短い字数のなかにどれだけ言いたいことを詰め込めるのか、ということを常に考えることになる。その前に、かなり長く新聞で美術評をやっていたこともあり、短い字数で、なんとなくふわっとしたことを言うのではなく、何か意味のあることを詰め込む(内容のあることをできるだけ明確に言う)にはどうすればいいのか、ということを長く考えてきた。

新聞の美術評をやりはじめた頃は、一度長く書いて、そこから、必要最低限の論旨だけを拾って、それ以外のところを切り落としていく、というやり方をしていたのだけど、段々、最初に書いている段階から、切るべきところが分かってきて、書いたそばから、書いている文をどんどん削って短くしていくようになり、さらに、書く前から、別にここはなくてもいいと分かるようになって、はじめから極端に切り詰めた表現になって、後から読み返して、ここはいくらなんでも説明不足かも(あるいは、あまりに無愛想かも)と思って、むしろ「遊び」部分を書き足す感じになっていく。

そういうことをつづけていると、文の内部の論理構造、文と文との論理構造、文章全体の論理構造を、はじめからはっきりと意識していくようになって、自然言語で書く文章が、どんどん数式のようなものに近づいていく。文を書くというより、論理をどのように組み立てるがということをまず考えて、組まれた論理を、最低限の言葉数(というか、文字数)で表現するにはどうしたらいいのか、と考えて言葉にする感じになっていく。レトリックみたいなものも、論理の一部として意識するようになる。

これはこれで、すごく「鍛えられる」感じなのだけど、これをやりすぎると、では、自然言語で書く意味はどこにあるのか、という感じになってしまう。そもそも、自然言語は論理とそんなに相性がよくない。おそらく、自然言語は鳥のさえずりや猿の威嚇する奇声の延長にあり、人類はそれとは別に「論理」を発明(発見?)したと思われる。論理を自然言語で記述するには限界があるし(だからこそ、論理式や数式が発明された)、また、論理的には書けないことまで含むことを書く力があるからこそ、自然言語に意味があると思われる。

美術評の担当も終わり、「新人小説月評」も終わったので、これからはもう少し、自然言語の冗長性を意識して書くことを考えたい。論理を放棄するのでは勿論ないのだが、論理では、図と地で言えば「図」の部分しか表現(あるいは解析)できないので、地も含まれた図としての自然言語を考えて、書くことをしたいと思う。

 

2020-12-25

●日本語は出来ないけど、耳で聴いて日本語の曲をカヴァーする、インドネシアスマトラ島在住の女性YouTuberのRainychという人がいて(既に有名で、日本のメジャーレーベルからデビューしてもいる)、この人が最新の動画で菊池桃子のカヴァーをしているのだけど、これがすごく妙な感じで面白い。

とても耳がいい人だと思われ、かなり正確に日本語の感じをひろっているのだけど、しかし、端正だからこそかえって微妙に発音のニュアンスの違っているところが目立って、過剰に端正であることと、ちょっとしたズレがあることで、絶妙なボカロ感が生まれる。やわらかくてすごくいい声であることの温かみと同時に、ニュアンスや抑揚がズレることでそこに機械的(非感情的)な表情も重なる、という、矛盾した、とても不思議な感覚がある。おそらくそれが一つの「謎」を構成し、魅惑の元となる。たとえば松原みきのカヴァー。

【Rainych】 Mayonaka no Door / STAY WITH ME - Miki Matsubara | Official Music Video

https://www.youtube.com/watch?v=DHm9diEKlC0

菊池桃子カヴァーでは、そこさらにもう一つ、時々「菊池桃子(の霊)」が混じる感じ。発声まで耳で聴いて正確に憶えるからだろうけど、時々、菊池桃子の特徴的な発声に過剰に寄ってしまって、「菊池桃子出た」みたいな瞬間が、ふっと訪れる。ずっと菊池桃子だとモノマネみたいになってしまうけど、時々、ふっと出ては、すぐにすっと戻るので、別の回線が一瞬だけ混線したみたいな部分が何カ所か出てきて、独自の居心地悪さがあって面白い。

【Rainych】Blind Curve | Momoko Kikuchi (cover)

https://www.youtube.com/watch?v=_2yFeebg7gE

ただ、このように感じるのは、日本在住で日本語ネイティブだからなので、そうではないリスナーは、別の感じをもつのだろう。

こういう人をみるとつい、裏に日本のプロデューサーがいて、日本市場向けに仕掛けているのではないかと疑ってしまうのだけど、そうではないみたいだ。「シティポップの世界的再評価」というのは本当のことなのだろう。

インドネシア人が日本語で洋楽カバーしたら人生変わった YouTuberレイニッチ、空前絶後の大反響に「見つかっちゃった」(ねとらぽ)

https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2011/11/news110.html

(声や顔つきからは子供っぽい感じに見えるけど「専門学校でロボット工学を教えていた」というのだから大人なのだろう。)

●「フライデイ・チャイナタウン」(「Friday」じゃなくて「Fly-day」というのを今知った)を今になってカヴァーしてる人がいるのも、シティポップの世界的流行という文脈の上でのことなのだろう。この曲が出た当時は中一か中二だった。シングル盤を買った。イントロのオリエンタルな感じのフレーズが印象的で、割と聴いた(当時「ジャスミン」が何なのか分からなかった)。

今聴いても、イントロのフレーズがかっこいい。ボーカルの人の振りが不思議。

【よみぃ×Ms.OOJAフライディ・チャイナタウン【泰葉】

https://www.youtube.com/watch?v=6DsH_bwQVnQ

オリジナルの方はアレンジがかっこいいという感じ。歌はちょっと単調に感じた。

泰葉 フライデー・チャイナタウン [Yasuha - Flyday Chinatown]

https://www.youtube.com/watch?v=hNFK8RsLXpY

2020-12-24

K-POPアイドルの、隙の無い完璧さ、クオリティの高さは、それはそれで素晴らしいと思うけど、ぼくは、日本のアイドルの、隙だらけであること(が許されること)によって成立する多様性が好きなので、日本のアイドルシーンが、(数少ない勝者だけが生き残ることの出来る)クオリティ競争の場になってしまわないことを願う。

必ずしも歌えなくてもいいし、必ずしも踊れなくてもいいし、必ずしも容姿がすぐれていなくてもいい。なにかみるべきところが一つでもあればよいし、みるべきところがあれば、足りていないところまで魅力となる。活動の規模も、大きくすることだけを目指さなくてもいいし、大きくなればよいということでもない(勿論、大きくすることを目指してもいい)。できるだけ長くつづいて欲しいが、しばしば問題(いざこざ)が起って、短命に終わってしまう。しかしその、今観なければいつ消えてしまうか分からないという不安定さもまた、魅力の一つとなる。ハードルを低く設定することで、さまざまな形式、さまざまなあり方で存在することが可能になる。決して全面的に肯定できるものではなく、看過できない問題が多くあるが、同時に、現状をよしとせず、問題を指摘し、すこしでも良い方向へ向かおうとする動きも常にある。

アイドルというのは、「みるべきところが一つでもあればそれ以外の欠点は基本的に受け入れるという態度」によって成り立っているもののことではないか(それは、ファンもまた、他者から---社会から---そのような態度で受け入れて欲しいという願いの反転かもしれないが)。この場合、「みるべきところが見事に一つもない」ことが唯一の「みるべきところ」だということさえも成り立つ。このような文化が、(日本ローカルであるとしても)資本主義のもとで成り立っているということが貴重なのではないか。

(だからといって、それがいつまでも成り立ち続けるという保証はない。淘汰されて消えてしまう可能性も少なくない。)

2020-12-23

●今年は、やらなければならない事をしっかりとやるということに追われていて、こころにゆとりが少なく、勉強するとか、興味あるところを深く掘っていく、時間をかけてじっくりとつくる、というところが手薄になってしまった感じがある。このことに対する、焦りと渇望みたいな感じもある。

新しく買った本や、以前に買ったけどまだ読んでいない本、既に読んだが読み返したいと思う本(ネットで拾ってPDFをプリントアウトした紙束を含む)など 、近々に読もうと思っている、さし当たっての優先順位が髙い本は、本棚や本の山から取り出してきて、折りたたみ式の脚をもつ背の低い小さなテーブル(ホームセンターで安く買えるやつ)の上に、大雑把な傾向や、読みたい順番などに応じて配置して、置いておく。この配置は、どんどん変化する。たとえば、まだ読んでいないけど、優先順位が下がったり、そのまま本棚に戻ったりすることも普通にあるし、いきなり本棚の奥から探し出されて最優先の場所に置かれることもある(置かれる前にいきなり読み始めることもあるが)。このテーブルの上にある本の配置の変化が、その時々のぼくの興味や関心のありよう(行き先)をだいたいあらわしている。だけど今年は、このテーブルの上の本がどんどん高く積み上がっていくばかりで、今では崩れそうなくらいだし、乱雑になり、下の方にどんな本があるのか分からなくなっていて、テーブル上に配置する意味がなくなるくらいになってしまっている。

今年じゅうにやるべきことはだいたい終わったので、テーブルの山を切り崩して、整理し直す余裕がようやく出来た。

2020-12-22

●お知らせ。noteに、以下のテキストをアップしました。

〔書評〕豊かな地を孕む貧しい図/山下澄人『月の客』(初出「新潮」2020年9月号)

https://note.com/furuyatoshihiro/n/n1483983c0b7f

〔絵画〕月や空が大きいのでもなく、草の露が小さいのでもない/井上実の絵画(聖蹟桜ヶ丘のキノコヤで2019年10月から12月まで開催された井上実展のためのテキスト)

https://note.com/furuyatoshihiro/n/nbd64c9a2497a

〔書評〕使命と孤独/『日本蒙昧前史』(磯﨑憲一郎)( 初出「群像」2020年10月号)

https://note.com/furuyatoshihiro/n/ne2cac353a770

20日に、図書館で借りてきた分厚いミステリをずっと読んでいて、面白いけど、でも、この一冊でもうお腹いっぱいと思ったとこの日記に書いたけど、一日置いたら気が変わって、また、図書館に行って、分厚いミステリを借りてきた。どちらも同じ作家の本。

20日に借りてきたのが『オイディプス症候群』で、今日借りてきたのが『吸血鬼と精神分析』。笠井潔の「矢吹駆シリーズ」の五作目と六作目。ジャンルに詳しいわけではない者の雑な印象だが、SFでは主に思弁(思考の内容)のアクロバット(実験)が行われ、ミステリでは主に論理(思考の形式)のアクロバット(実験)が行われているという感じがするのだが、このシリーズでは、トリックが(論理的でない、ということではないが)思弁的に構築されているという感じがするところが興味深い。探偵役の矢吹駆と高名な思想家をモデルとした人物の対話など、衒学的な会話が多いというだけでなく、そういう部分にこのシリーズの思弁的性格があらわれていると思う(矢吹駆の「思想」には頷けないところも多いのだけど)。

このシリーズは前作『哲学者の密室』まですべて読んでいるはずだが、読んだのはずっと前なので内容はほぼ憶えていない。

2020-12-21

●「NiziUの『Step and a step』のAメロが間違っている論争」をみていて改めて思うのは、(サブスクやYouTubeでほとんど際限なく様々な音楽を聴くことができる現代においてもなお)音楽というものは基本的にドメスティックなものであり、強くテリトリー(あるいはトーテム)の表現として機能するものなのだなあということ。ジャズやソウルを聴いている人にはごく普通に感じられるサウンドや展開が、ポップスのリスナーや作家には「間違って」いるように聴こえる。そして、違和感がある、気持ち悪い、ひっかかる、という感覚を「間違っている」と表現してしまうことからわかるのは、規範意識というものが美(感覚)のなかに強く埋め込まれているということだろう。

つまり、音楽は人(の所属先)を識別するという機能をもつ。

(だからこそ「俺はロックが好きだ」という宣言が、サウンドやリズムの好みの表現である以上にアティチュードであるということがあり得るのだろう。)

(『Step and a step』がこれらの問題をあぶり出しているのは、全体としてはJ-POPの様式に忠実につくられていながら、たった一カ所その部分にだけ、しかも冒頭近くにいきなりという感じで、別の様式をぶっこんでいるからだろう。)

音楽は政治であるという言葉に正当性があるとしたら、ある特定の音楽がある特定の政治思想を表現しているということではなく、ある特定のサウンドやリズムのありようが、ある特定の集団(あるいは潜在的集団)の党派性を顕わすトーテム(あるいはエンブレム)として機能することがありえる、というところにあるのだろう。

(故に、近代以降のハイアートとしての音楽の展開は、「未だ存在しない=来たるべき集団」のためのトーテムの創造という側面があると言える。)

この問題(論争)それ自体が仕組まれたステマであるという可能性もあるけど。

NiziU(니쥬) Debut Single『Step and a step』MV

https://www.youtube.com/watch?v=a6QT0acJFQE

この件については下のリンクの動画が参考になった。

NiziU(니쥬) の『Step and a step』のAメロが音楽理論的に破綻しとるって批判しとるDTMerがおるんだって?プロの音楽プロデューサーのワシがこの曲を音楽理論でズバリ解説したるよ。(ハンサム判治のハンサム音楽道場)

https://www.youtube.com/watch?v=UzKNUax6kEM&t=608s

「ハンサム判治のハンサム音楽道場」は、下の動画も興味深かった。

グリーンスリーブスの謎。メロディにいろんなパターンがある原因を探る!固定ド、移動ド、短調の主音をドとするかラとするか問題が絡んどるのか?

https://www.youtube.com/watch?v=Fp3J9fIBAaw

宣伝。ぼくはなぜか「グリーンスリーブス」がとても好きで、過去に「グリーンスリーブス・レッドシューズ」という小説を書いたこともある(「群像」2013年8月号)。

http://gunzo.kodansha.co.jp/18928/25902.html