2021-03-12

●「夜明けまでの夜」(保坂和志)では、一方に、若い友人から即時的にメールで送られてきていた二匹の子猫の一夜もたなかった命の成り行きがあり、もう一方に、アウグスティヌスエックハルトの言葉がある。これはどちらも言葉として作者(話者ではなく作者と言うべきだろう)に送り届けられる。そしてこの二つの異なる種類の「言葉」の間で、作者の猫にかんする様々な記憶が明滅し、思考の流れが形作られる。

一方の言葉(若い友人)は、作者に猫にかんする様々な具体的な記憶を惹起させると同時に、それが文字(言葉)であることによって具体像をもたないものでもある。体が温まった、もぞもぞ動いた、ミルクを飲んだ、また冷たくなった、てのひらで温めつづけけた、てのひらより温かくならなかった、と、リアルタイムで逐一報告されるそれらの「言葉」は、生命の終息をリアルに伝えるものであるが、同時にあくまで「文字」である。言葉によって惹起されるのは記憶であって新たな経験ではない、と書かれる。しかしそれでも、遠いところで起った子猫の死は、新たな出来事としてあり、その出来事のもつリアルさが減じるわけではない。

新たな感覚(経験)をもたらさない、新たな出来事としての子猫の死。おそらくその感じが、記憶のなかの猫と現実に今し方命を失った猫とを結びつける。《ペチャもそれとちかい状態だった》、《ペチャはそれで助かって、それから二十二年四ヵ月生きた》、《あのときに助からなかったら……ということはしょっちゅう考えた》、《ゆうべ助からずに名前もないまま死んだ子猫と生死が分かれたそれは並行していると感じた》。命を失った子猫たちには、助かって生きた並行の時間があり、助かったペチャたちには、助からなくて存在しない並行の時間がある、と作者は感じる。この世界の内に、子猫とペチャとの並行性があり、子猫の世話をした若い友人とペチャの世話をした作者との並行性がある。ならば、顕在的な死んだ子猫と潜在的な生きた子猫の並行性、顕在的な生きたペチャと潜在的な死んだペチャとの並行性もあるはずだろう、と。

冒頭の部分で早々に示されるこのような感覚(認識)は、様々な記憶の明滅と思考の流れを経ることで、「胎児の初期において人は一時的に一卵性双生児であった」という感覚(認識)へと至る。次の引用部分はこの小説のクライマックスの一つだろう。

《そうなる柔らかい粘土のような、心がいま何を求めているかを自分より先回りしてどんな形にも塑型するそうなる元、だからそれがその元のさらに起源が、自分の胎児だったごく初期に流産した一卵性双生児の片割れなのだとしたら、生きる自分は生きなかったそっちが自分だったかもしれない片割れとずっと一緒にいる、……、そうでなく自他の区別を知らない胎児はすでに死んだ片割れを生きるのかもしれない、命に、見える聞こえる形ある状態が出会うのだ。》

(「猫がこなくなった」では、話者と高平君との猫に関する経験が鏡像のように似通ってクロスして、どちらがどちらか判らなくなるのだが、「夜明けまでの夜」で並行性(双数性)は、鏡像的ではなく、生と死、存在と空というペアとなり、無が有を支え有が無を支えるという、図と地のような関係になっている。)

もう一方の言葉(アウグスティヌスエックハルト)は、「神」は、感覚として具体的に与えられるものによっては決して捕らえられないと語る。人が、感覚可能な何かのなかに「神」を感じたとしたら、それは決して「神」ではない。「神」は感覚可能をものを通して人に語るのではなくただ「精神」を通じて人に語るからだ、と。感覚可能なものという媒介を一切なしにしてどのように「精神」がたちあらわれるのかうまく想像できないのだが、このような言葉がとても強いのは、このようなことは「言葉」を通じてしか言うことが出来ないからだろう。もし言葉がなければ、「一切の感覚可能なもの無しで」ということを思考することそのものが不可能となる(例えば、感覚可能なものだけを使って「無」という概念を表現し、思考することは困難だろう)。逆に考えれば、このような思考は、人から外在するものとしての「言葉」によって強いられ、言葉が存在するという事実によって裏打ちされるとも言える。

作者は、このような言葉(思考)に強い説得力を感じつつも、自分自身がそのような思考と同化することは断念する。これはこの小説のもう一つのクライマックスであり、結論でもあると思われる。

《それならば、私は、一切の過ぎ去りゆく生き物をひとつの無として映ることが不可能な私なのだから、神を見るのも命の実相を見るのも、アウグスティヌスエックハルトに委ねるしかない、私は限りある期間しか生きられない生き物たちを決して遠景から見るような、身に不釣り合いな真似はせず雨音のひとつが落ちる音を最大に増幅させる、アウグスティヌスエックハルトも神はいると言ったのだ、安心しろと私は私に言う。》

《二匹の猫の命はほとんど極小だった、有限なものが極小となってあらわれたということが真実の予兆あるいは影、あるいはまだどこかに人の気配の残る無人の部屋だ、私は昔見たベルギー象徴派の無人の部屋の絵が忘れられない、どんなにささやかなものでもささやかであるほどそこに真実はあらわれる、真実は五感を経ないのだから五感をともなわなければ働かない人の思考はまず、ささやかさに注目し、ささやかさに傾聴しなければならない、ささやかであることは五感が無力であることのサインなのだ。》

さらに、「夜明けまでの夜」で重要なの次のような感覚(認識)だろう。

《(…)私の若い友達が必死にてのひらで包んで温めたその必死さは若い友達の意思でなく子猫二匹が結局は叶わなかったが若い友達が子猫に出会ったそのとき子猫が生きようと必死だったからだ、若い友達が必死に温めたことで人は子猫の必死さを形として見た。》

2021-03-11

●保坂さんの小説を読んで、長いこと思い出すこともなかった受験生最後の頃を思い出して、昨日と一昨日の日記に書いた。もう少し。

1989年の3月には、一次試験で三回、一次の発表で一回、二次試験で二回、合格発表で一回と、一ヶ月のうちに計七回も芸大に行った。そして、その七回のうちにいつの間にか春になっていた。ひと月のうちに七回、特別な緊張と高揚のなかで、絵を描く道具の入った大きなボックスをカートにくくりつけてゴロゴロ転がしながら(発表の時はカートはなしだが)、上野駅から上野公園を突っ切って芸大まで歩いた。そして、その同じ道を逆にたどって帰った。この時の感じは、この後かなり長くかなり年齢がいっても身体のなかに生々しく残っていたし、上野公園を通るたびにその名残が身体の中で燃えるようだった(大学に受からなかったという悪い感じではなく、とても希有なよい高揚感として)。この感覚はその後の自分を支えるようなものでもあったと思う。

しかし今となっては、その時はそうだったはずだ、と、外側から思い出すくらいの感じで、その感覚を自分のなかであまり生々しくは再現することはできなくなっているかもしれない。それよりもむしろ今の自分にとって強く残っているのは、《いつの間にか春になっていた》という感覚と、(昨日の日記に書いた)《上野駅を出た京浜東北線の電車がいつまでたっても横浜駅に着かなかった》という感じの方ではないかと気づいた。これはどちらも、緊張や高揚というより、とりとめもなく弛緩していく感覚であり、同時に、足場が取り払われ寄る辺(モノサシ)が失われたような感覚だろう。

(《いつの間にか春になっていた》という感じとはおそらく、自分の生において特別な緊張と高揚が、秋の深まりと同調するようにして強度を高めていって、冬を経過してさらに高まり、それがピークとなろうとする時に、その過程とは無関係に世界は春になっていて、それに気づき落差を感じた時と、緊張と高揚のモードがふわっと解かれる時とが、同時にやってきたという感じだったと思う。)

四月になって母校となった大学のバス停でバスを降りてアトリエへ向かう坂道を上っていく時の、足下のおぼつかないあのふわふわした感じは今でも生々しく残っているし、世界はまったく変わってしまったが、30年以上前のあのふわふわによって自分が支えられていると感じる。

 

2021-03-10

●昨日の日記を書いていて思い出した場面。89年の芸大の一次試験の三日目(一次試験の最終日)が終わった後、二次試験対策のための油絵を終電近い時間まで描くために、そのまま横浜にある予備校まで戻る。待ち合わせたのか、たまたま駅で会ったのか、同じ予備校の受験生(現役から多浪生まで)4,5人くらいで上野駅で電車を待つ。横浜までは通常、京浜東北線か山手線で東京まで行って、東京駅で東海道線に乗り換える。ただ、京浜東北線に乗れば、時間はかかるが、そのまま直通で横浜まで行く(東海道線の方が停車駅が少ないのではやく着く)。

(今なら上野東京ラインで直通だが、当時は、上野東京ラインとか、湘南新宿ラインとかはなくて、東海道線はすべて東京が終着駅だった。)

いつもは東京で乗り換えるのだけど、なんとなく面倒になって、どうせこのまま乗っていても横浜に着くのだからと、そのまま京浜東北線に乗っていることにした。実際、乗り換えたとしてもせいぜい10分程度はやく着くだけで、東海道線との待ち合わせが悪ければかかる時間はほとんど変わらなくなる。

ただ、この時の京浜東北線が、ほんとうにいつまでたっても横浜に着かなかった。事故があったとかいうことではなく、体感時間として、時間がだらーっと間延びして、目的地に近づけば近づくほど目的地が遠ざかっているのではないかという感じで、いつまでも、いつまでも横浜に着かなかった。実際に電車に乗っていたのはせいぜい50分程度であるはずなのだけど、外の他の時間との同期から逃れて、ふわーっとした、なんともとりとめのない時間がどこまでも続く感じで、後にも先にも、この時の他にこんな感じの時間を経験したことがないという、特別な、緩んだ時間だった。浅いが心地よい眠りのまま、二度寝、三度寝、四度寝しても、いつまでも起きるべき時間にならない、みたいな感覚。とにかく着かない(何度着いてもそこは途中駅)という形で決着がどこまでも先延ばしにされつづける状態。この感じも、とても良いものとして残っている。一緒に電車に乗った4、5人の受験生たちにもこの感じは共有されていたように思う。

(今思うと、この時に、前年秋からつづいていた緊張と高揚の状態が解かれてしまったために、二次試験がイマイチだったのかもしれないとも感じる。)

2021-03-09

●『猫がこなくなった』(保坂和志)に収録されている「ある講演原稿」と「秋刀魚の味と猫算」を読んでいると、自分の昔のことがいろいろ思い出されて、ぜんぜん先にすすめなくなる。「ある講演原稿」では子供の頃のことを、「秋刀魚の味と猫算」では受験生の時のことを思い出す。

●小学校に上がるか上がらないかくらいの頃(70年代のはじめ頃)は、世間というか近所の空気は今とはまったく異なるものだった。「近道」とか言って、平気で他人の庭や敷地を通り抜けていたし、他人の家の塀に上って遊んだりもしていた。希に怒られることはあっても特に気にしなかったし、子供に対してはそのようなことを許容する空気が共有されていたと思う(他人の庭の柿の木の柿を取って食べたりしたらさすがに怒られたが)。また、学校の同級生と遊ぶのではなく、下は小学校に上がる前くらいの子から、上は中学生くらいの子までの、近所の子供たちの集団があって、学校から帰ってから遊ぶのはその集団とだった。小学1年からみたら大人のように見える中学生も一緒に遊んだ。

とはいえ、そのような「空気」は急速に変わっていった。小学校1、2年生の頃はそんな感じだったが、5、6年生くらいになるとぜんぜん違っていた。「近道」はしなくなるし、学校から帰っても同じクラスの友達と遊ぶようになった。近所の子供たちのコミュニティはなくなっていた。空き地で遊ぶということもなくなった。空き地といっても誰かの所有地であり、そのような土地で子供たちが勝手に集まって騒ぐことを当然のように許容する感じではなくなっていたと思う。

それには大規模な人口流入という理由もあったと思う。ぼくの通っていた小学校は、通っていた6年の間に4つに分裂した。つまり学校3つ分も生徒が増えたことになる。入学した頃にはまわりは田んぼと畑ばかりで、なにものでもない「空き地」もかなりあったが、そこに次々と家が建てられ、団地もできた。中学生の時には、1学年が15クラスくらいあって、中学1年の一年間を、学校の敷地の外に建てられたプレハブ校舎群で過ごした(プレハブ校舎は小学校にもあったが、さすがに敷地内だった)。「先輩」からの抑圧のない自由な世界で、それはそれで楽しかったが。教師は、教員免許さえあれば誰でもいいという感じてかき集められたのだと思うが、とても質が低かった(問題も多く起こった)。

小学校の低学年の頃だったと思う。河原が主な遊び場の一つだった。実家のすぐ近くには川が二本流れているが、それは数百メートル先で合流している。その合流地点に至る岬のような部分は、かなり広い面積が、人の背丈くらいある雑草で覆われ、荒れたまま放置されていた。川沿いの舗装された道はそこを迂回して曲がっていた。近所には、人の背丈くらいの雑草に覆われて放置された空き地はほかにもあって、そういうところに一人で入り込んで、外から遮断された秘密基地的な感覚を味わうのが好きだった。ある日、川の合流する岬状の場所に雑草を踏み倒しながら入っていった。するとすぐに、既に草が踏み倒された細い道のようなものがあるのを発見し、自分より前にここに踏み込んだ者がいたのだと少しがっかりした。しばらく進むと自転車が一台倒されていて、その先が急に開けていた。草がきれいに刈られ土が露出したその開けた場所には、4、5軒の掘っ建て小屋があり、小屋に囲まれた小さな共有スペースのような場所があり、小さい畑があり、釜戸のようなものがしつらえてあった。確か、人は一人もいなかったと思う。その時ぼくは、自分の身近な場所で現実の幕が破れて、まったく未知の異世界が出現したかのようなショックを感じた。この、唐突に異世界につながってしまったという感覚は、その後の自分のこころのありように大きな影響を与えたと思う。

もちろん、後から考えればそこには謎もないし異世界もない。路上生活を余儀なくされた人が、河原の人目を遮断できる場所で何人かでコミュニティをつくって生活するということは現在でもあるだろうし、きわめて現実的で社会的なことがらだ。だが、無知な子供だったぼくはそこにユートピアのにおいのようなものさえ感じた。自分が住んでいるのとはまったく違う世界がごく身近にあるということに衝撃を受けた。

●1989年には受験生で、しかも三浪していた。ぼくは大概ぼんやりした人間だが、若い頃は今より輪をかけてさらにぼんやりしていたと思う。大学受験というものの重要さや大変さをまったくわかっていなくて、ただなんとなくそのうちに入れるだろうくらいに思っていた(当時の美大受験生は二浪、三浪は普通だった)。だがさすがに三浪になって尻に火がつき、今年ダメだったらあきらめるしかないと必死になっていた。だから自分のことで精一杯で、88年の秋に昭和天皇が体調を崩し、89年の一月に崩御するという、昭和が終わり新たな元号がはじまるという時の世の中の空気というものを感じている余裕はなかった。

この時期はまさに受験の追い込みで、毎日朝早くから終電ぎりぎりまで予備校のアトリエでデッサンか油絵を描いていた。前年の秋くらいから三月に芸大の試験が終わるまでの数ヶ月の間の緊張と高揚は、自分が今まで生きているなかでも特別の感じで、それは決して嫌なものではなかった。

今がどうなのかまったく知らないが、芸大の試験はけっこう大変で、一次試験に三日かかり、二次試験に二日かかった。一次試験では、まずデッサン1を1日(確か6時間だったと思うが、3時間だったかもしれない)かけて描き、デッサン2を2日(確か6+3時間)かけて描く。この2枚のデッサンで受験生は十分の一くらいに絞られて、二次試験では油絵を2日(確か6+4時間だったと思う)かけて描く。一次試験→一次合格発表→二時試験→合格発表と、印象として試験はほぼ三月いっぱいかかる感じで、最終的に合否が決まる頃には三月も末になっていたと思う。すっかり春になっていた。

結局、三浪(つまり四回目の受験)でも芸大には受からなかったし、それはとても残念なことだが、受験前のこの高揚した感じはよいものとして残った(2月のうちに合格していた母校となった大学に入った)。だからぼくにとって、昭和の終わりから平成の始まりという切れ目はなくて、この時期は「よい感じの緊張と高揚」の感覚が強く残っている(具体的な記憶としては、終電近くの横浜駅のホームに何人かの予備校の友人と立っているときの疲労と高揚と冬の空気の感じとかが残っている)。

●「秋刀魚の味と猫算」には次のような記述がある。昭和天皇崩御の後で昭和の日本映画を流しつづけた東京12チャンネルで放送された『秋刀魚の味』の録画によってはじめて小津安二郎の映画を観た、と。

《その夜、観るのははじめてだったが出会ったわけではなかった。おもに蓮實重彦四方田犬彦の評論を通じて小津映画のことはよく知っていた。はじめて観た『秋刀魚の味』は評論を通じて知っていたとおりだった。》

ここに当時の感じがすごくあらわれていると思った。ぼくが小津をはじめて観たのは一浪の時(86年くらい)に銀座の並木座でだったと思うが、その前に『監督 小津安二郎』(蓮實重彦)を読んでいた。というか、この本がおもしろかったから小津に興味をもったのだし、だからどうしても「答え合わせ」のような観方になってしまった(とはいえ、今でも小津は好きである一方、本の内容はおおかた忘れている)。何が言いたいのかというと、当時はそのくらい圧倒的に「批評」が強かったということ。特に、映画と小説において、批評が実作にくらべ圧倒的優位にあった。現在では批評があまりに弱すぎると思うが、当時の「批評があまりに強すぎる」状況も健康的ではなかったと思う。そして90年代の保坂さんはまさにそのような状況と闘っていた作家だろうと思う。

《私は毎朝『秋刀魚の味』を十五分刻みで観る生活を一年くらいかもう少し送った。小津安二郎のことは事前にたくさん知っていたが、そういう知り方で面白いと思ったとしても、二、三回も観ればそれ以上観なかっただろう、毎朝観るのは事前の知識と別にずっと面白かったからだ。》

2021-03-08

●U-NEXTで『日本春歌考』(大島渚)を観ていた。自分が生まれた年につくられた映画。大島渚は松竹ヌーヴェルヴァーグと言われているが、映画作家(作品のスタイル)としてはヌーヴェルバーグの次の世代、アンゲロプロスベルトルッチなどに近いと思う。大島渚、1932年生まれ、アンゲロプロス、1935年生まれ、ベルトルッチ、1941年生まれ、ゴダール、1930年生まれ、トリュフォー、1932年生まれだから、世代的にはヌーヴェルヴァーグだし、『大人は判ってくれない』、1959年、『勝手にしやがれ』、1960年に対して、『愛と希望の街』、1959年、『青春残酷物語』、1960年なのだから、キャリアとしてもヌーヴェルヴァーグと併走しているのだが、作風としてははじめから、アンゲロプロスやベルトリッチの先駆けとしてあると思う。

(歴史的、政治的な主題と、映画がつくりだす空間や時間とを、どのように絡ませるのか、歴史的、政治的な主題の導入するには、どのような映画的な空間や時間の発明が必要なのか、という点への注目によって三者は共通する。たとえば、アンゲロプロスは、政治的、社会的、世代的な対立や断絶を、宴会における歌合戦やダンス合戦として時空化するのだが、この点で大島渚は見事に先駆けている、とか。)

『日本春歌考』は1967年の作品だが、これはベルトルッチの『暗殺のオペラ』(1970年)よりも、アンゲロプロスの『1936年の日々』(1972年)よりはやい。これは驚くべきことではないかと思う。ベルトルッチはこれよりはやく、1964年に『革命前夜』をつくっているが、それより、大島渚の『青春残酷物語』(1960年)『太陽の墓場』(1960年)『日本の夜と霧』(1960年)の方がはやい。さらに『飼育』(1961年)『天草四郎時貞』(1962年)と、60年から62年までの3年間の大島渚の爆発的な創造性にはすさまじいものがある(さらに、67年から68年のわずか2年で、『忍者武芸帳』『日本春歌考』『無理心中 日本の夏』『絞死刑』『帰って来たヨッパライ』をつくってるのもすごい)。たんじゅんに考えて、『日本の夜と霧』が、『暗殺のオペラ』や『1936年の日々』の10年前に既につくられているというのはすごいことではないか、と思う。

ベルトルッチがそのキャリアの初期の段階で大島渚の映画を観ているかどうかは分からない(おそらく、観ていない可能性が高いと思う)。たとえ観ていなかったとしても、ベルトルッチが『暗殺のオペラ』(1970年)や『暗殺の森』(1970年)をつくり得たのは、それよりも前に大島渚が『太陽の墓場』(1960年)や『日本の夜と霧』(1960年) 『日本春歌考』(1967年)といった作品をつくっていたからだ、と言ってもいいのではないか、とさえ思う。

だからこれは、影響関係というより、同時代的な共振なのだと思う。そして大島渚はその共振の先駆け的な作家なのだ。ギリシアアンゲロプロスが『1936年の日々』(1972年)や『旅芸人の記録』(1975年)がつくることができたのは、それに先駆けて、日本で大島渚が『日本の夜と霧』(1960年) 『日本春歌考』(1967年)をつくっていたからなのだ、と。完全主義であるアンゲロプロスに対して、大島渚は明らかにそうではなく、雑に時代と同調しちゃっているような作品もあるのだが、決して完全主義ではないということろが大島渚の良さでもあるだろう。とはいえ、たとえば『儀式』(1971年)は、『旅芸人の記録』と比べてもなんら遜色のない強さと完成度をもつ作品だと思う。

はじめて『儀式』を観たのが何時だったか忘れたが、その時には、これは当然アンゲロプロスの影響下でつくられているのだろうと思って観ていた。だけど後になって、『旅芸人の記録』(1975年)だけでなく『1936年の日々』(1972年)よりもはやいのだと気づいた時、とても驚いて、大島渚マジですげえと思ったのだった。

(紀元節復活反対のデモの日とその翌日の話なので、『日本春歌考』の作中の日付は---おそらく1966年の---2月11日と12日となる。この日を舞台とするというところにまず政治的な意図があり、また、軍歌に対して春歌(よさほい節)をもってくるところにもまた、政治的な意図がある。さらに「軍歌VSよさほい節(どちらも日本・男性)」に対して、朝鮮人娼婦の歌である「満鉄小唄」で対抗させるところにも意図がある。吉田日出子が「満鉄小唄」を歌った瞬間に映画の空気ががらっと変わってひっくり返るところがすごい。ここは吉田日出子の表現力に依っている。そして、いわゆるリア充の若者の象徴としてフォークソングがでてくる。この場面の夜の水辺の舞台の空間造形---と、冬の夜の空気感---がすばらしい。ここでも吉田日出子は歌で抵抗するがリア充たちにもてあそばれる。このように、闘争、抵抗、階級はあくまで歌合戦という形で表現化されるのだが、ラストにいきなり小山明子の演説がはじまり「言葉で言い切って」ぶった切るように映画が終わるのにちょっとびっくりする。)

2021-03-07

●メモ。面白い。津田道子っぽいけど。米津玄師『感電』のMVを撮った奥山由之がつくった(『感電』のMVも良かった)。

Mame Kurogouchi 2021 Fall Winter Collection

https://www.youtube.com/watch?v=Gs7EulPQHeU

津田道子「あなたは、翌日私に会いにそこに戻ってくるでしょう。」(installation / 2016)

http://2da.jp/2da/en/work/You-would-come-back-there-to-see-me-again-the-following-day..html

津田道子「Walking Condition」(nstallation / 2019)

http://2da.jp/2da/en/work/walking-condition.html

2021-03-06

●人のこころの年齢は見た目よりもずいぶん若い。たとえば、夢のなかで年齢よりも若い自分として生きている状態をしばしば経験する。しかし、夢による時間遡行には限界があるのではないかと最近気づいた。ぼくの場合、自分が高校生くらいの感じで存在している夢を見ることはけっこうあるが、ここのところ長らく、中学生である夢にはほとんど覚えがない。夢による時間遡行において、十代の半ばくらいに大きな壁があるようなのだ。

そしてこれは、記憶がないということとは違うようだ。個別的な場面の記憶としては、高校生くらいの頃の記憶よりも、中学生、小学生の時期の記憶の方が、より強く、生々しく残っているものが多い。しかし、「その当時の自分として、今、みている夢を経験する」、「夢として、当時の自分の感じが再構成される」ということは難しいようだ。

記憶として生々しく思い出すことと、夢のなかで当時を自分の感じが再現されるということは、異なるようだ。前者は、現在の自分の内に過去の状態が生じるということで、後者は、自分の有り様自体が構成し直されることだから、ということなのだろうか。