2021-03-05

●昨日書いたことが、まだちょっとひっかかっている。『スパイの妻』には蒼井優が登場しない場面もある。だから、厳密には蒼井優を視点人物だとすることはできないだろう。しかし、この映画の中心にいるのが蒼井優であることは間違いないだろうと思う。

この映画で、蒼井優高橋一生の夫婦は存在として同等ではない。基本的に、高橋一生は「隠している人」であり、秘密をもつ者である。対して蒼井優は、信じる者であり、また、不信を持つ者である。この物語は、蒼井優が、彼女にとって愛の対象である高橋一生を「信じる/信じない」の間で揺れるというものだと言える。高橋一生は自律した存在というより、蒼井優にとっての謎として存在する。だから彼の心の中は終始わからないままだ。対して蒼井優には謎はない。謎があるとすれば、蒼井優はなぜ蒼井優であるのか(なぜそのように行動するのか)ということであり、その謎には、蒼井優蒼井優だからだという以外の答えはない。

だから、カメラの前で蒼井優は常に裸である必要があり、隠している内心があってはならないのではないか。蒼井優東出昌大に対して、あたかも誘惑しているかのように振る舞う場面でさえ、彼女に隠された意図はなく、彼女自身がそう口にするように、その行為は「そのまま」の意味しかもたないだろう。

だから、昨日の日記に書いたミスリードの部分は、上記のようなこの映画の原則とも矛盾してしまっているように思われる。蒼井優東出昌大をだます場面は、(蒼井優東出昌大に寝返ったかのようなミスリードを導くのではなく)蒼井優東出昌大をだます場面だとすんなり読めるようなやり方で描写されなければならなかったのではないだろうか、と。

2021-03-04

●『スパイの妻』(黒沢清)の「語り」について少し思ったこと(以下、ネタバレしています)。

蒼井優が金庫から書類を盗み出す場面を観る時、彼女の行動の動機は高橋一生との平和な生活の維持(あるいは自己保身)であると観客は思い、故に書類はただ破棄されるか隠匿されるのだと思う。しかし、次に(これまで常に洋装だった蒼井優が)和装で東出昌大を訪ねる場面がつづくので、もしかしたら蒼井優高橋一生を裏切って東出昌大の方に寝返ったのたもしれないと思う。拷問の場面があり、高橋が連行され、東出から圧力をかけられる場面へと進むことで、その思いは強くなる。だが、家へ戻った高橋が蒼井に詰め寄ると、蒼井は高橋の告発への協力を申し出る。つまりここで、蒼井の東出への密告は、情報の一部を相手に渡す(味方の一部を相手に売る)ことで、相手を油断させる(相手に自分を味方だと思わせる)ための策略だったと分かる。そして、安定した生活を望んでいた蒼井が、高橋の告発への賛同へと心変わりした、その原因となったフィルムが、この時点で---種明かしであるかのように---観客にはじめて示される(蒼井がフィルムを観る場面は事前にあるが、その内容は示されていなかった)。

ここで蒼井の内心には、(1)最初は現状維持を求めていたが、(2)フィルムを観ることで高橋へ協力しようと心変わりする、という変化があったことになる。だが、「観客が推測する蒼井の内心」は、(1)現状維持を求める、(2)東出の方に寝返る、(3)高橋への協力を決意する、という三段階の変化になっている。つまり、作者の「語り方」によって、「東出の方に寝返る」というミスリードへと意図的に導いている。これを語りの巧みさ(技法)であると言うこともできる。しかしぼくは、ここで軽くひっかかってしまった。作品の内容の外に立って、作者が意図的に観客をだまそうとするのはどうなのか、という疑問を持ってしまう。

この物語は、隠したりだまし合ったりする話ではある。高橋が蒼井に重要な出来事を隠す。そして、蒼井が東出をだまし、高橋が蒼井をだます。だまし合いの物語であるからこそ、その外側から、作者が語りの操作によって観客をだますということを、していいものなのだろうかと、ちょっと思ってしまった。

これを、観客のミスリードを導く技法と取るのではなく、高橋の側からみた蒼井に対する疑いを反映したものだと取れば(つまり、ここでは高橋からの視点が織り込まれている、東出だけでなく高橋もまた蒼井にだまされている、と取れば)、このような語り方もまた映画に内在したものだとも考えられるので、微妙な問題で、だからあくまで、ちょっと気になってしまったという感じなのだが。

(ぼくが最も気になっているのは、フィルムの内容を観客に対して開示するタイミングを遅らせたことについてどう考えればよいのか、という点だ。それによって観客が蒼井の意図を読み切れないことがサスペンスを生むのだし、そのような語りの技法は普通にあるとは思うのだけど。)

そもそも、高橋一生蒼井優をだましているという事実を、作者は最後まで観客に対しても隠しているわけだが、それは、作者が観客に隠しているという以上に、高橋一生蒼井優に対して隠している。つまり、この作品では蒼井優が一応は視点人物として機能しているから(『レベッカ』のジョーン・フォンテインのように)、それはありだろうと感じられる。視点人物だからこそ、蒼井優の行動の意図を---ただ「読み切れなくする」だけでなく---意識的にミスリードさせることに対して、語りのフェアネスの問題として気になってしまったのだった。

2021-03-03

●『スパイの妻』(黒沢清)をU-NEXTで観た。一度目はかなり興奮しながら観たし、もう一度繰り返して観て、なるほど、こういうつくりになっているのかといろいろ納得するものがあった。

だけど、改めて何か書こうと思うと、書きたいことが出てこない。黒沢清の映画の音のつくりはいつも新鮮だ。蒼井優は、クローズアップで決め顔の演技をしてもあまりクサくならない希有な存在だ。対して高橋一生の演技はややクサくて、一度引っかかると気になってしまう。戦中の日本の空気の変化(悪化)を、東出昌大という一人の悪役の態度の変化に代表させるというやり方は大島渚を連想させる(東出昌大の背の高さをほとんど奇形的に強調している)。高橋一生の会社の空間が面白く、特に、オフィスと倉庫を結ぶ中間地帯の設定が面白い。数少ない例外(水死体が浮いている場面と高橋一生が去って行く場面)を除いて、海を見せることをラストまで抑制しているというのは分かるのだが、「港」的な空間の広がりをほとんど見せていないのは何故なのだろうか(高橋一生満州から帰ってくる場面も、横が狭くて縦に長いゲートの空間が示されるだけで、やや息苦しい感じ)。いつもの黒沢清のスタッフではなく、NHKのスタッフとつくっているせいか、フレーミングや光の感じに常に違和感がつきまとうが、それはそれで新鮮とも言える。ただ、そうはいっても時々フレームが窮屈な感じにはなる。というような、まとまらない、細かいことはぽつぽつと頭に浮かぶのだが。

●一つ感じたのは、古い時代の物語を「映画」が語ろうとする時に、リアリティの軸をどう置くのかという問題の難しさだ。蒼井優高橋一生も、昔の日本映画に出てくる俳優のような言葉遣いや立ち振る舞いをする。でもここで、昔の人を演じているのか、昔風の演技を模倣しているのか、よく分からなくなる。また、正確な時代考証によって過去の姿が再現されたとしても、演じているのは現代の人だし、当たっているのは現代の光で、撮影しているのは現代の技術による撮影機材だ。考証(再現性)が確かであればあるほど、演技が高度であればあるほど、この矛盾がはっきりと感じられるようになって、自分が今見ているものが何なのか分からなくなり、混乱が生じる。

おそらく演劇であれば、このような混乱は生じにくいと思われる。過去は再現されているというより、見立てられ、演じられている。あるいは映画であっても、もっと簡易的な再現度しか持たない、隙の多い空間が作られていれば、あるいは抽象度の高い空間であれば、観客は「過去」という虚構の時空をもっと容易に受け入れられるだろう(あるいは、虚構=役と現実=俳優との分離を、もっとすんなり受け入れられるだろう)。しかし、綿密に再現された過去のリアルな高画質映像は、過去という虚構の時空の出現というより、「現在において再現された過去」のリアルな出現のように感じられるだろう。演じられた「過去の人物」を見ているというより、過去の人物を模倣している「現在の俳優」を見ているという感じが強くなる。

常にそう見えてしまうというのではなく、時々、そのように見えてしまうことを抑制(制御)することができないということだ。虚構の次元にのみ没入することはできず、ある時には演じられた過去の人物(虚構としての過去の風景や時空)を見るし、ある時は、演じている現在の俳優(過去を再現した現在の光景)を見ている。ネッカーキューブのようにくるくる反転するこの二重性を意識することなく観ることは難しい。映された現実と、演じられた虚構との二重性は、そもそもフィクションを語るあらゆる実写映画に存在するのだが、古い時代の物語が高画質で語られる時、もともとあるこの矛盾(乖離)がさらに一層強く感じられることになる。

ならば、これは欠点ではなく積極的なものだとも考えられる。実写映画に内在する矛盾(二重性)を目立たなくするのではなく、むしろはっきりと見えるようにするためにこそ、積極的に「古い時代の物語」が語られていると考えることができる。

 

2021-03-02

●「考えるな、感じろ」、「感じるな、考えろ」、「考えなければ、感じられない」、「感じなければ、考えられない」という4つの文は、排他的ではなくどれも真であり、必須であり、どれが欠けてもいけない。さらにここに「知る」を含める。「知るな、感じろ」、「感じるな、知れ」、「知らなければ、感じられない」、「感じなければ、知ることはできない」。「知るな、考えろ」、「考えるな、知れ」、「知らなければ、考えられない」、「考えなければ、知ることはできない」。これら12の文となり、これらもまたすべて真であり、これらすべてが必要である。これらすべてを、生身の人間の身体が担っている。

2021-03-01

●リモート版「保坂和志の小説的思考塾 2nd」を昨日観た。以下は、感想であって要約ではありません(とはいえ、保坂さんの発言が曖昧に混ざっているので、オリジナルというのでもない)。

精神分析が、転移と逆転移によって成り立つのであれば、患者と分析家が互いを映し合う合わせ鏡のような存在となることによって分析が進行する。分析家は、(メタレベルに立つ)知の所有者でも(自らを主張しない)透明な媒介者でもなく、固有の色をもつ一人の人として、別の固有性をもつ患者の前に立ち、二人は相互に影響を与え合う。分析家の技量は、上位の階層から安定した技術を用いて患者を導くという風に発揮されるのではなく、同等の位置にいる相手と自分の相互の変化を通じて、患者が自ら治療するように導くことによって発揮される。この場合、分析家もまた変化することは避けられない。「再帰性」という語を使って保坂さんが言いたいのは、おそらくそういうことだろうと思う。

作者は、自分が書いてしまった文によって自らを否応なく変化させる。あるいは、カフカは不安を描いたのではなく、カフカの文章が読者の不安を惹起させる。このような相互作用的な出来事を「再帰性」と呼ぶ。このように語る保坂さんをみて、ずいぶん前に保坂さんから直接聞いた話を思い出す。初期の作品は、しばしば「性的なものが描かれていない」と評されたが、性的なものが描かれない小説など他にもあるのに、自分の小説を読んでことさら「性的なものが描かれていない」と感じた(意識した)ということは、その人のもつ性的な何かが惹起されたということで、つまり明示的に描かれていないとしてもそこには「性的なもの」がちゃんとあったのだ、と。

(ガルシア=マルケスは「カフカに小説の書き方の自由を教わった」と言っている。生真面目な人には不安を惹起させるカフカの文は、ガルシア=マルケスには自由を感じさせた。だが、カフカから影響を受けたというガルシア=マルケスの文は、あまり人に不安を惹起させない。ここに、個々のキャラクターの違いがあらわれる。この指摘からも、書くことも読むことも、自分自身の固有性を通して---自分自身の変化を通して---行うしかないということが意識される。)

●日常的思考様式は「文学」によってつくられている。自分がそのように書いてしまったことによって、自分はそう考えていると思ってしまう。この文には二つの異なる意味があると思う。自分が「そのように書けた」こと(表現の獲得)によって自分自身の「思考の様式」が更新されていくという側面と、今まで読んできた様々な文章によってすり込まれた「思考の様式」に従って書いてしまったことで、自分もそのように感じていると思ってしまうという側面。後者は、既にすり込まれた思考や言葉の形によって言葉が再生産されているということだが、前者では、言葉や思考の形がそれ以外の何か(現実・身体・死など)とぶつかることによって変質を受けるということを通じてあらわれるものだと思われる。

日常的、社会的な場面では後者が求められるのだが、自分自身を支えるため、あるいは良い生を生きるためには、前者が必要だろうと思う。

おそらく「文学」には、自分のこころに言葉によって固定的な形を与えてしまうことを促すという側面(後者)と、それを拒否するための助け(糧)になるという側面(前者)の両方があるように思う。

●「宗教的な言葉(論理)」について。日常や社会的な妥当性の範囲内で通用する論理や表現では、たとえば「死」に直面した人を支えられない(せいぜい「くよくよしないで前を見よう」みたいなことしか言えない)。自分が崩れずにいられるか否かという瀬戸際の状態にある人を支える論理(表現)は、日常的なものではありえない。より練られ、考え抜かれた宗教の言葉(論理)は、いっけん非論理的にみえたとしても、それを支え得るように思われるものが含まれている。

芸術や哲学が贅沢品ではなく(余裕のない)必須のものだというのも、そういうことだと思う。

●あと、シェリングを引きつつ「主語が述語を規定する」という話をしているところで、キース・リチャーズが「なぜ自分はロックをやっているのか」と問うため古いブルースを沢山聴いたという話がでてくる(日常的な「なぜ」ではない別の「なぜ」について)。ここで、大瀧詠一がエルヴィスとビートルズについて言っていたことを思い出した。

エルヴィスもビートルズも、エルヴィスとして、ビートルズとして頭角を現す前に、膨大な数のアメリカンミュージックをカヴァーしている。エルヴィスは、古いブルース、リズムアンドブルース、カントリーなどまでカヴァーしている。それら、アメリカの大衆音楽の膨大な支流の総体がエルヴィスの元へシュワーと収束していって大河となったのが56年の「ハートブレイクホテル」だ、と。そしてビートルズもまた、(エルヴィス以後のではなく)エルヴィス以前のアメリカのロックの源流となる曲を沢山カヴァーしている。エルヴィス以降のソフトになったアメリカのポップミュージックに対して「ロックンロールを思い出せ」という方向だった。エルヴィスができるまでの「原料」を自分たちの音楽をつくるための糧として探そうとした。そして、エルヴィスとビートルズは他の人に比べてカヴァーの選曲がよい、と。全方位の曲をカヴァーしていて、カヴァーを聴くだけでアメリカ音楽の歴史が分かるようになっている。

(ジョン・レノンは40年生まれなので「ハートブレイクホテル」の時には16歳だった。)

ブリティッシュロックを聴いてブリティッシュロックのような音楽を作ろうとした日本のバンドとは違って、ビートルズストーンズやクラプトンやベックは、エルヴィスに衝撃を受けて、エルヴィス以前(エルヴィスの原料となったもの)に戻って、そこに学ぶことからブリティッシュロックをつくったのだ、と。だから、アメリカンロックの源流を探らないと日本のロックはつくれないというのが我々(はっぴいえんど)のテーマだった、と。

(話の軸がずれてしまったか…。それに保坂さんは「はっぴいえんど」をきっとあまり好きではないだろう。)

出典は下の動画から。

'03 Special Musician Series 坂本龍一 講師 大瀧詠一さん

https://www.youtube.com/watch?v=S4cg9x74vX8

●驚くべきことに、「死とは無である、というときの死はただの記号にすぎない」という保坂さんのエッセイの部分が、中学入試の試験問題に出題されたという。小学六年の子供に、この文から何を読み取らせようとしているのか。逆に言えば、この問題に適切に答えられるような子供は、たんに試験問題(出題意図)に対して忖度しているだけということになる。この問題が解答者に求める読解力は忖度でしかない。「忖度としての読解力」から解放されなければならない。

 

2021-02-28

●あるサブカル系の有料配信イベントで能町みね子が、「画家が本業じゃないけど個展とかやる有名人(芸能人、業界人、スポーツ選手など)で絵がひどいと思う人ランキング」というのを発表していて、ぼくがこの言葉を聞いたとたんに真っ先に思い浮かべた人がぶっちぎりのワースト一位にランキングされていたので、絵を描く人にはこの認識がちゃんと共有されているのだなと思って少し安心した。

(ひどい絵を描く人が個展をするということ自体は別によいと思うのだけど、明らかにひどい絵なのに誰もそれを指摘せずあたかも才人であるかのように扱われているのが不可解だとずっと思っていた。ぼくは変にもったいぶらずにその固有名をここに書き込むべきなのだが、クローズドであることが前提となる有料イベントで話された---ここだけの話として話された---内容を勝手に外に漏らすのはルール違反なので、この場ではそれをしない。それに、上の文で言いたいことは、「ひどい絵を描く人」への批判ではなく、「認識が共有されていた(文脈や背景を共有しない人とでも「ひどい」という価値判断が共有され得る)」ということに対する安心と喜びの方なのだ。)

あと、かなり大物の芸能人の絵をかなり悪く言っていたが、それも同意出来た。他の業績が素晴らしい人なのだけど、そうだからといって、あの「絵」を持ち上げてしまう人を信用しちゃいけないと、ぼくも思う。

(この文章の目的はあくまで「共感を示す」ことだから、匿名となっているところにどんな固有名が入るかは大した問題ではないのだが、とはいえ、共感は、その固有名が「まさにそれ」であることによって起るので、その固有名が欠けていると妙にすっきりしない感じにどうしてもなってしまう。)

2021-02-27

●「古文訳J-POPの世界」で有名な「有隣堂しか知らない世界」の動画を観ていて、有隣堂に「飲食事業推進課」というのがあるのだということを知った。いまや、本だけ売って商売を成り立たせるのは、無理があるのだろう。本屋さんにカフェがあるのは普通だけど、レストランや居酒屋もやっているようだ。

下の動画では、「吾輩は猫である」に登場する(いや、登場しない)架空の料理「トチメンボー」を再現している。

【美味かった】本に出てくる料理のレシピの世界 ~有隣堂しか知らない世界028~

https://www.youtube.com/watch?v=tnj5MmPzOGc

【うまい】小池さんのラーメンを再現!本に出てくる料理のレシピの世界~有隣堂しか知らない世界031~

https://www.youtube.com/watch?v=G31AejV_bH0

●ハイトーンボイス清少納言による「古文訳J-POPの世界」。

【Pretenderを”古文”で歌ってみた】古文訳J-POPの世界 ~有隣堂しか知らない世界008~

https://www.youtube.com/watch?v=EfA41mmsdGQ&t=289s

星野源「恋」を”古文”で歌ってみた】古文訳J-POPの世界 ~有隣堂しか知らない世界011~

https://www.youtube.com/watch?v=kfy7_eD8MLw

●岡崎さんによる文房具シリーズもよい。

【飾りじゃないのよ】物理の力で文字を書く!ガラスペンの世界 ~有隣堂しか知らない世界002~

https://www.youtube.com/watch?v=BanYVWRVZ90

インスタ映え】超アナログアート!クラフトパンチの世界 ~有隣堂しか知らない世界015~

https://www.youtube.com/watch?v=ipD4x8oMw30

●味わい深い。

【脱ハンコに物申す!】シヤチハタの世界~有隣堂しか知らない世界022~

https://www.youtube.com/watch?v=-r_gWAYdflk