2021-03-23

●図書館に、予約しておいた本を取りに行った後、回り道をして川沿いの桜並木を見に行った。しかし、まだあまり咲いてはいなかった。そのまま川沿いの道を上流の方向へ歩いて帰るのだが、しばらく行くと、油圧ショベルが川に入って河川の工事が行われていた。この工事は川底に溜まった泥を掻き出すためだということで、かなり前からやっていて、上流の方から徐々に下ってきているのだが、この工事の都合なのか、河原の雑草がきれいに刈られているだけでなく、数多く生えていた大きな樹木も根元から切り倒されていて、意識しないうちに「えーっ」と声が出ていた。

2021-03-22

●2002年の2月か3月のこと。深夜のトーク番組(ホストは薬丸裕英)にゲストとして安野モヨコが出ていた。安野モヨコは、「今までつき合ってきた男はみんな普通の男ばかりだった。普通の男とは、夏は海、冬はスキー、趣味は車、みたいな男のこと(こういう男が「普通」だったのはもはや過去のことだが)。しかし、今つき合っている男はオタクで、オタクと付き合うのははじめてなのでいろいろ戸惑っている」というような話をしていた。

二十年近く前のなんとなく眺めていただけの深夜のトーク番組のことを今でもはっきり覚えているのは、もちろん、この放送からたいして間もないうちに、安野モヨコ庵野秀明が結婚したというニュースが出たからだ。オタクとつき合っているって、オタクにもほどがあるだろう、と驚いたのだった。

(「プロフェッショナル 仕事の流儀」を観た。「シン・エヴァ」はまだ観てない。)

庵野秀明の「私小説」には興味がないし、作品としての「エヴァ」は、旧劇場版でちゃんと終わっていると思っている。新劇場版は、姿は似ていても魂は別物で、旧エヴァとは別の作品だと考えている。ただ、とてつもない表現力をもった人が、作品の面でも責任者であり、制作体制(お金)の面でも責任者であるから、とことん好き勝手にやれる、という環境で、どれだけすごいものをつくるのかという点で興味がある。

(宮崎駿でさえ、高畑勲鈴木敏夫との関係の中で作品をつくっていたはずだから、まったく好き勝手にやれるわけではなかっただろう。新劇場版で庵野秀明はあらゆる面で自分が責任者だから、どこまでも自分の裁量で決められ、果てしなく自由で制約がなく、よって、果てしなくどこまでも悩むことになるのだろう。『シン・ゴジラ』はいわば雇われ仕事であり、自由に出来る範囲がはじめから狭く、その分、悩むことの範囲も狭かっただろう。制約がないからこそどこまでも悩みつづける庵野秀明において、唯一の制約が「締め切り」だったというのはとても興味深いことだった。この「締め切り」もまた、自分で設定したものだろうが。)

2021-03-21

●昨日からのつづき。引用、メモ。『現実界に向かって ジャック=アラン・ミレール入門』(ニコラ・ルフリー 松本卓也・訳)、第二章「精神分析的臨床」より。

(精神分析はどうしても「神経症者」に関する探求が主となるのだが、ここで書かれている「精神病者」や「普通精神病」の有り様についてもっと知りたいと思った。)

精神病者への分析可能性(狂人も「主体の地位」をもつ)。

《ジャック=アラン・ミレールは、精神病患者の分析を成功させることが可能であると考える者の一人である。》

精神病者においては、言語の獲得に欠陥がある。父性隠喩、言い換えれば(何らかの本源的なシニフィアンを抑圧することによって)主体を言語へとくくりつけることを可能にする機能が、精神病の場合では働いていないのである。このシニフィアンが排除されることによって、シニフィアン連鎖が展開されえなかったのだ。ここには言語への参入の拒絶がある。正確に言えば、スキゾフレニー性の精神病にとっては、象徴界はつねに現実的なものとして知覚されている。つまり、彼らは語を物のように扱い、語をその純粋なみせかけとしての側面において考えることができないのである。(…)それでもミレールにとっては、個人にとっての言語は、いかなる病理的な構造をもっていたにせよ、つねに現前している。つねに言語への最小限のつつくりけがあるのだ。》

《(…)ラカンの排除(…)という考えをもちだす。排除とは、精神病に固有のメカニズムであり、抑圧の失敗である。それはあるシニフィアンの拒絶であり、そのシニフィアンは象徴化へと至らない。この拒絶されたシニフィアン現実界のなかに回帰するが、そのときには幻覚という形式をとる。これが精神病である。》

《精神病の問題については、分析経験によって〈主体〉を生産することが可能かどうか知ることがよりいっそう問題となる。精神分析にとっての主体は、ミレールが理解する限りでは、無意識の主体である。それはフロイトが「それがかつてあったところに到達する(…)」ように呼びかける主体である。この意味において、まるで「人間のなかの小人」のような、主体の無意識といったものは存在しない。無意識は、単にシニフィアンの効果にほかならない。無意識は言語のように構造化されており、それは無意識が言語の法に従属していることを意味している。(…)無意識の主体が本質的に分割(…)されているというのはこの理由による。私たちは自分自身と完全に一致することができず、言語へと疎外されることによって分割され、自分の身体には還元されず、何にもまして言語によって「寄生」されているのだ。(Sと記される)無意識の主体は、与えられた(生得の)ものではなく、生産(…)すべきものであることに注意しておこう。》

《(…)ミレールは、ラカンの「狂人は自由な人間である(…)」という発言を取り上げている。この発言は非常に真剣に受け取らなければならない。狂人が自由な人間であるというのは、狂人においては「父性の欺瞞(…)」の拒絶があるという意味においてである。この拒絶は、ある特定の「主体的立場」を伴っている。》

《狂人は狂気を選択したのであり、妄想は差し迫った何らかの驚異に対するひとつの解決として現れたものである。人間は、あらゆる手段で不安から身を守ろうとするものであり、精神病患者が妄想を形成できないとすれば、彼はひどい不安に襲われてしまう(たとえば、身体寸断化の不安。アントナン・アルトーの著作は、この種の不安によって主体が突き落とされる苦悩を十分に示している)。それゆえ、十全な「主体の地位」をもつものとして精神病者を考えなければならないのである。》

《主体を生産すること、それはフロイトの公式を引用するなら、「それがあったところに主体を到達させること」である。この理由から、無意識の主体を出現させるために、分析経験の装置のすべてが必要なのである。その主体は現れるやいなやすぐに消滅するものであるが、失策行為や言い間違い、語られた夢のすべてのなかに見出すことができるような主体である。》

●普通精神病

《ミレールは、正式の呼び名がなく、「未発病精神病」や「白い精神病」あるいは「冷たい精神病(…)」(あいまいな症候群であり、精神病発見のてがかりとなる強い潜在性をもたない精神病)と呼ばれていたものを形式化したのである。それゆえ、普通精神病は臨床的精神病(発病済みの精神病)とは対立する。普通精神病は、主体がはっきりと精神病構造をとりながらも、妄想を発生させることなしに人生を生きることが可能であるという事実を理解可能にしてくれる。》

《この用語は、ミレールにとって「かつては並外れたもの(…)であった精神病は、私たちにとって普通のものである」と説明される。「普通(…)」という言葉は、いくつもの意味で理解されうる。例えば既成の秩序や習慣に合致するもの、ありふれた、平凡なものなどである。精神病は例外的なものに属しているわけではない。つまり、そもそも精神病者は、自らの身体に対して調和した関係を維持していないという点では神経症者とそれほど変わるわけではない。もし私たちがどちらかはっきりとさせなければならないとすれば、むしろ身体への「正常」な関係をもっているのは精神病者の方である。精神病者は常に身体の「破裂」の脅威にさらされている者であり、彼らは自らの身体への敏感で直接的な関係をもっているのである。》

《(…)この臨床は、葛藤の臨床、つまりフロイトの臨床とは対立している。この臨床は「結び目の臨床であって、対立の臨床ではない」。この臨床によって方向付けられた分析は、もはや症状の解釈を目指さず、補填の発明を目指す。あるいは主体によって既に確立されている安定化のモードを支援することを目指す。主として重要なのは、分解をくいとめることである。》

●情動はシニフィエをもつ。

《(…)情動はひとつの意味、シニフィエをもっているのである。》

《情動は感情(…)ではない。感情は人間のなかの動物的な部分に関わっており、環境としての世界への私たちの関係と相関していると考えられるが、情動は、主体により一層関わっており、表象やシニフィアンに対する私たちの関係に関わっている。》

《情動はシニフィアンによって媒介され、ひとつの観念に関連づけられている、と考えてみよう。つまり、この観念、この表象は〔それがもともと結びついていた〕エネルギー量から分離されることが可能なのである。このエネルギー量が情動のもうひとつの側面を構成しており、この量が私たちに情動を感じさせることを可能にしている。それゆえ、情動が結びついた観念を抑圧することはできるが、しかし情動がもつエネルギー量に関しては単に移動され、「離脱され」、「漂流しようとしている。ことになる。》

《情動が移動させられうるものであるとすれば、情動は欺く可能性のあるものだということになる。(…)分析において生じる情動はそのまま受け取るべきではなく、それを実証しなければならない。真理は、事実にはまったく関わっておらず、体系の際深部にその固有の参照点をもつという点で、虚構の構造をもっている。情動は、この後者〔=虚構〕と関係をもちうるものであるが、つねにそうであるわけではない。》

●症状とファンタスム。

精神分析に享楽(…)という用語を導入したのはラカンである。(…)享楽は、快と不快の向こう側にある。快を享楽することが可能であるのと同じように、苦しみを享楽することも可能である。ミレールは、症状とファンタスムは、享楽への関係において結び付いているということを強調する。この二つは、神経症の主体における享楽の二つの源泉、つまり二つの「享楽するモード(…)」となっている。症状は苦しみのなかで、たとえば悲痛な言表行為のなかで、享楽を回復するひとつの手段である。他方、ファンタスムは主体が快く享楽することを可能にする。》

《(…)「ファンタスムの論理(…)」が存在する一方で、症状は「形式的外被(…)」をもっているのである。》

《(…)症状は享楽とメッセージという両方の顔を同時にもっているのである。》

《(…)症状は意味をもつ何かである。それは、そのメッセージを運ぶ主体に対して暗号化されたメッセージである。それはまるで、主体の背中に書かれているために、主体が自分では読むことのできないような何物かである。私たちは、この暗号化されたメッセージを読むことができる。(…)だとすれば、症状が運ぶメッセージの意味を主体に与え、それを解読し、読解し、さらには翻訳すれば、症状が消失すると考えられるであろう。しかし、実際にはまったくそうならない。(…)あらゆる解釈学においてそうであるのと同じように、唯一の可能な意味など存在しない。(…)症状にその究極の意味を与えることは不可能であり、さまざまな意味を、つまり意味それ自体の無限性を与えることしかできない。(…)解釈を行って主体にその症状の意味のひとつを引き渡すだけでは、私たちは終わりなき不明確さの戯れのなかに舞い戻ってしまうだろう。(…)解読の熱情が生まれ、そこではすべての「言うこと」が想定上の意味を孕んでしまう。たとえば、分析家がくしゃみをすれば、主体は分析家がそれによって何を言わんとしていたかと不審に思う…。》

《(…)この袋小路は、症状の「享楽」の側をも考慮にいれなければならないということを教えてくれる。もしひとが治癒しないことに躍起になっているとすれば、つまり自分の症状を守ることに躍起になっているとすれば、それはそのひとがその症状を享楽しているからである。(…)主体は「享楽すること」を続けられることを望み、不平不満と要求の両面において語ることに舞い戻る。ミレールは疎外的なつながり、すなわち苦しむ主体に対して分析家がもちうる真の影響がこのようなものであることを強調する。これが有名な転移、すなわち、自分が苦しんでいることについての知を与えてくれそうな人物を、情熱をもって愛し始めることである。分析の完遂はすべて「自分の転移を精算すること(…)」に到達できるかどうかにかかっている。転移の精算は、非常に様々な方法でなされることができるが、決してなされないこともある。》

《(…)症状は「主体がそれについて不平不満を言う(…)」ものである。他方、ファンタスムは「主体が自らを気に入る場所(…)」である。(…)すなわち、分析に入ることは症状によって生じる。(…)そしてその分析は主体が構成することになるファンタスムによって終わる。つまり、分析の掛け金のひとつであるファンタスムの横断によって分析は終わるのである。》

《(…)精神分析が理解するところのファンタスムはつねに無意識的なものであり、ひとつのフレーズとしての構造をもつものであり、ひとつの文法的モンタージュですらある。(…)主体の基礎的ファンタスム(…)は、論理的かつ文法的な方法で分節化されているような何かである、ということだ。そこでは「主体」が「対象」の位置を占めていることが解ることもるように、受動と能動はいとも簡単に超えられてしまう。ファンタスムは書かれることが可能なものであり、主体にとって固定したものでありつづける。これは、ファンタスムは解釈されないということを意味する。ファンタスムを解釈しないのは、それが多義的なものではなく、固定されたものであるからだ。》

《ファンタスムは、たとえ主体がそれに完全に満足していたとしても主体によって告白されることは決してない。自分が享楽しているファンタスムを表明することには、ある種の羞恥が感じ取られるのである。》

《ここで言われている「〔ファンタスムの〕横断」をどのように理解すればいいのだろうか? 横断するという言葉は、横断されるものを破壊するのではなく、むしろそれを超えて通り過ぎるときに用いられる。横断されるものは、保持されたままで横断される。》

《(…)ひとたびファンタスムが横断されると、ある「進歩」が得られる。それはファンタスムを見出し、位置を割り出し、位置づけることができる状態になるということである。こうして新たな位置が到来することが可能になり、私たちの奴隷状態は軽減される。私たちはこのようにして新たな「主体」のあり方を手に入れる。それはもはや従属しているだけのあり方や、合意の上での犠牲者としての、あるいは無意識の操り人形としてのあり方ではなく、距離をとることのできる主体というあり方である。ファンタスムは消滅せず、変化しない。しかし、ファンタスムは位置を割り出されており、私はもはや無分別に操作されることはない。》

2021-03-20

●引用、メモ。『現実界に向かって ジャック=アラン・ミレール入門』(ニコラ・ルフリー 松本卓也・訳)、第二章「精神分析的臨床」より。

●治療ではなく経験、普遍ではなく特異性。

《まず、ミレールは「治療cure」という用語を「経験experience」という用語に置き換える。》

《(…)分析は治癒を目的とはしない。ラカンは「治癒は副産物としてやってくる」と述べることでそのことを指摘していた。これはシニシズムではなく、まったくその反対である。治癒を目指さないのは、そもそも「メンタル・ヘルス(精神の健康)」など存在しないからである。(…)精神分析は主体を何かしらの基準に当てはめようとすることはなく、反対に主体のなかにあるもっとも特異的なものを目指す。》

《(…)「治療」は、主体の側の〔治療を「受ける」という意味で〕受動的な何ごとかを含意するからである。主体が、自分の真理だと信じていたものの形態から、別の形態へと移行するのは、分析においてであり、過程のなかにおいてである。少なくともこうした考えは分析経験を理解するひとつの方法であり、ラカンはそのことを初期の教えのなかで概念化していた。それは弁証法的過程に入り、主体が固有の歴史を引き受け、「主体の歴史のなかの検閲された章を主体が再び取り戻すこと」に到達することであった。》

《こうして、精神分析にとって普遍的なものがはじめから放棄されているのはどうしてなのかが理解できる。それは、人は「他者が望んでいること」、特に私たちの家族が望んでいることほどには、「自分が望むこと」について自発的に語らないからである。無意識が「大他者〔=大文字の他者〕のディスクール(…)」(母親、あるいは家族的布置のなかにある人物のディスクール)であるなら、このディスクールは主体を袋小路へと導くことになる。人は自分に関する〔他者の〕ディスクール、ときにはおのれの誕生以前からすでに存在したディスクールを携えて分析にやってきてそれに不平を言うである。人は自分が望むものを知らず、自分が真に欲望しているものを知らない。ゆえに、分析に賭けられているのは、私たちに固有の欲望を取り戻すことができるかどうかである。》

《私たちは自らに固有の言語を発明したわけではないのだから、言語は大他者によって伝えられたものである。しかし、私たちは自分自身を特異的なものにするひとつの「語られた言葉」を常にもっている。》

《常に特異的なケースを扱う精神分析家は、ケースを前にして、「自分はただひとつのことしか知らない、それは、自分は何も知らないということだ」という態度を引き受けなければならないのだ。概念や理論、症例の構成は後からやって来るものであり、それらは常に生きた実践の外部にある。実践においては、固有のケースの構成〔=構築〕(…)という作業は分析主体の側に任されてすらいる。ある意味では、普遍的なものを目指さなければならないのは分析主体の方なのである。辛抱強く蓄積されたおのれの諸々の真理をいかにしてひとつの知にするのかを探るのは、分析経験に参加する主体の役目である。》

●特異的なものを診断するという矛盾。

《診断について問われるとき、この問題は臨床にとりつき、臨床を悩ませるばかりである。この患者は精神病なのか、神経症なのか? 強迫の主体なのかヒステリー者なのか? という問題である。というのも、精神分析が取り扱う特異的なものという視点に立てば、「それぞれが他の誰にも似ておらず、それぞれがお互いに比較不能」だからである。だとすれば分析は、それぞれにおける特異的なものの出現を受け入れる実践になる。つまり、分析は特異的なものへと方向づけられた経験そのものなのである。すると、分析において診断は、除外されることはないとはいえ、目標とされるものではないことになる。》

《(…)たしかに、フロイトラカンも、無視することができないものとして構造を参照していた(それは、臨床家はたとえば症例が強迫神経症なのかパラノイア精神病なのかを知らねばならないからである)。しかし、それは単に分析的ディスクールのなかで症例の議論ができるように症例を構築するためでしかない、ということを彼らは明確に述べていた。ミレールにとって、症例を構築することは、症例に論理的座標軸を与えることを意味する。論理的座標軸とは、症例の形式的外被とファンタスムの論理のことである。症例の構築は、分析的ディスクールの進展に寄与するために、そして、精神分析家の共同体が歴史的区分に応じた臨床の変化を掴むために必要不可欠である。実際、様々な症状は同じ形式をまとっているわけではなく、ある時代の社会的政治的な文脈に従った形をとるということが知られている。いまだにヒステリー性神経症は存在するのではあるが(それはある種の主体にとっての取りうる方策として常に存在している)、精神病院に収容された、シャルコーの意味でのヒステリーはほとんど見られなくなっている。》

《分析臨床〔でいうところ〕の症状は精神医学臨床の症状とは異なる、という点に注意しておく必要があるだろう。「分析的症状は患者によって語られた症状であり、なによりも語る症状〔=語るものとしての症状〕(…)である。分析的症状に与えられた最初の定義は、症状と中断されたメッセージを同じものとみなしている。症状は、宛て先や対話の相手を見つけられていないメッセージなのである」。》

●転移の下での臨床(お互いに現前していなければならない)。

《ミレールは、適切にも次のように述べている。「精神分析臨床は、症状の種類によって分類された諸々の事実の収集---あるいは症例の叙述---に終わるものではない。[…]精神分析臨床とはむしろ、精神分析経験そのものを構造化させている主体の構成に従って変化する構築の総体である」。実際、分析経験は構築〔=構成〕という間接的な手段からなる。つまり、分析経験では、症状もファンタスムも構築されるものなのである。しかし、このことはなによりも、精神分析臨床が転移の下でも臨床であるということを意味している。もろもろの真理の出現を可能にするために、分析家と分析主体はお互いに現前していなければならず、無意識は単に分析主体の側にあるのでも分析家の側にあるのでもない。無意識は二人それぞれの中にあるのでさえない。というのも、主体の無意識というものは存在せず、存在するのは無意識の主体だからである。》

2021-03-19

●社会的な出来事にまったく無関心でいることはできないので(どうしても気持ちが引っ張られてしまうので)、その点から、『全体主義の起源』(ハンナ・アーレント)と『愛と幻想のファシズム』(村上龍)が気になっているのだが、どちらもごつくて分厚いので、なかなかそのなかに入っていく余裕がない。

(『愛と幻想のファシズム』は、持っていたはずだが見当たらないので最近買い直した、が、読み始められない。)

全体主義の起源』にかんしては、新書の入門書みたいな本は何冊か読んだ。そして、NHKの「100分de名著」の仲正昌樹の解説が、分かりやすくまとまっていてとても参考になった。今の日本やアメリカの状況は、『全体主義の起源』(の、特に一巻「反ユダヤ主義」)に書かれているナチス政権誕生前のドイツの状況とほとんど---本当にびっくりするくらい---重なっているように思われる。

●ちなみに、VECTIONによる下のテキストは、西川アサキさんが『全体主義の起源』を読んだ時のインパクトについて話したことと、それにかんするメンバー四人の議論が元になって書かれたとも言えるもの。

「r/place的主体とガバナンス 革命へと誘うブロックチェーンインターフェイス

https://ekrits.jp/2019/03/3046/

(VECTIONの活動目的は、《社会的チートの撲滅&死の恐怖からの非宗教的解放について、「それは無理」と確信しつつ、どうにかならないものかとあがく》こと、モットーは《可能な限り共同分散的に作業し、恫喝しない》。)

https://vection.world/

●「100分de名著」は、当然だけど、指南役となる解説者によってクオリティのばらつきが大きいのだが---すべて観ているわけではないけど---ぼくが観たなかでよいと思ったのは『全体主義の起源』の他には、『共同幻想論』(指南役・先崎彰容)、『純粋理性批判』(指南役、西研)、『ディスタンクシオン』(指南役、岸政彦)、『野生の思考』(指南役、中沢新一)、『相対性理論』(指南役、佐藤勝彦)。これらは、分かりやすくまとめてあってとても助かるのだった(全体的に文学系はちょっと弱めな気がする)。

 

2021-03-18

●(一昨日の日記のつづき)下の動画で菊地成孔は、二つのタイムラインが同時に進行するアフリカ的なポリリズムのレクチャーを行っている。一つの小節を十二に分割するパルスがあるとして、それを、キクチ、キクチ、キクチ、キクチという刻み方で四拍として感じるタイムラインと、ナルヨシ、ナルヨシ、ナルヨシという刻み方で三拍として感じるタイムラインを同時に感じること。たとえば、踊りながら、下半身で四拍を、上半身で三拍を刻む、などして。

とはいえ、世界中で流通しているポピュラー音楽のほとんどからは、アフリカ的ポリリズムが聞こえてくることはないという。しかし、四拍と三拍の二つのタイムラインが同時に進行するアフリカ的ポリリズムの感覚を体得すれば、実際にリズム楽器がポリリズムを刻んではいない演奏から、聴き手の身体的な関与によってポリリズムを聞き取ることができるようになるという。これによって、(同じ演奏を聴いたとしても)音楽の聞こえ方がまるで変わってくる、と。

ここで、演奏をごっこ遊びにおける小道具とみなし、演奏によってつくりだされる(だけでなく、演奏から聴取される)「リズム(ループする時間とその分割法)」を、ごっこ的な真理だと考えることができるのではないか。つまりこれは、同じ「ごっこ遊びの小道具」から、受け手の積極的な関与によって別の側面を引き出すことができる、ということの例ではないだろうか。

菊地成孔 "ビュロー菊地チャンネル「モダンポリリズム講義 第11回モダンポリリズム 第11回

https://www.youtube.com/watch?v=SsUZErmf0Xw

●改めて「フィクションを怖がる」(ケンダル・ウォルトン 森功次・訳)を読み返したのだが、書かれていることの半分以上に同意(納得)できなかった。なにより、挙げている具体例が適切とは思えない。しかし、それでもなお、ここにはとても重要なことが書かれていると思う。

《わたしの理論によれば、われわれが「距離の縮減」を達成するのは、虚構をわれわれのレベルに持ち上げることによってではなく、われわれが虚構のレベルに降りていくことによってである(より正確にいえば、われわれは虚構のレベルにまで自分自身を拡張する(extend)。というのも、われわれは実在するということが虚構的になるときでも、われわれは現実に存在することを止めないからである)。ごっこ上でわれわれは、ハック・フィンがミシシッピ川を下ったということを信じているし、知っている。そしてごっこ上でわれわれは、彼や彼の冒険について様々に感じ、様々な態度をとる。自分をどうにか騙して虚構を現実と思わせるというよりは、われわれ自身が虚構的になるのである。こうしてわれわれは結局、虚構と「同じレベル」に立つ。そしてわれわれのそこへの出現(presence)は、わたしが先に記述したような尋常ならざるリアルさで果たされる。以上のような考え方によって、われわれは自分自身に明らかに偽の信念を帰属することなく、虚構に対してわれわれがもつ近さの感覚を理解できるようになる。》

《(…)泥でパイを作るままごと遊びに参加する者は、泥の塊がみかん箱の中にあるときはいつでも、オーブンの中にパイがあるというのが「そのごっこ遊びにおいて真」である---すなわち、それは虚構的である---、という原則を受け入れようとするだろう。その虚構的真理は、ごっこ的真理である。あるごっこ遊び内で有効な原則とは、もちろん、まさにそのゲームの参加者が有効と認め、受け入れ、理解している原則である。》

《オーブンの中にパイがあるというのは、誰もそのように想像していなくても、ごっこ的でありうる。もしそのみかん箱の中に誰も気づいていない泥の塊があっても、それはごっこ的であるだろう(子供は、後でその泥の塊を発見したときに、「オーブンの中にパイがずっとあったんだ、でも知らなかったよ」と言うかもしれない)。》

《あるゲームにおいて有効となっているごっこの諸原則は、明示的に定式化されている必要はないし、意識的に採用されていなくてもよい。子供たちが泥をパイ「である」とすることに同意するとき、彼らは実際には、パイのごっこ上の性質と泥の性質とを結びつける、明文化されないとても多くの原則を打ち立てているのだ。泥の塊のサイズがごっこ上のパイの大きさ・形を決定するということは、暗黙のうちに理解されている。たとえば、泥の塊のサイズが手のひらのサイズであれば、ごっこの中でのパイもその大きさになるということ、(…)こうしたことが暗黙のうちに理解されているのである(…)。》

《あるごっこ遊びとそれを構成する原則は、公に共有される必要はない。人は、他の誰も認識していない原則を採用しながら、自分の個人的な遊びを作ることができる。そして個人的なごっこ遊びを構成するその原則のうち、少なくともいくつかは暗黙裡のものでもありうる。つまりそのとき彼は、ただその原則を当然なこととして、とくに意識しないでいる。》

《ある種の人形を見る者は、その人形が、ごっこ上で金髪の少女がいるという真理を引き起こしているのを認めるだろう。その人形が単に一定の距離から観察されるべき一体の彫像として見られるとき、それがもたらすごっこ的真理はこのようなものである。だが、その人形で遊んでいる子供は、より個人的なごっこ遊びをしている。その遊びの中では、その子は自らを演じる役者であり、人形は一種の小道具としての機能を果たしている。子供が人形を用いて行っていることは、ごっこ的真理(たとえば、ごっこ上でその子は街へお出かけするために少女に服を着せているという真理)を引き起こす。》

《スライムが向かってきていると主張するふりをすることと、ごっこ上でスライムが迫ってきていると実際に主張することとは、両立しないわけではない。チャールズはその二つを同時に行いうる》。

●ここに書かれていることを、次のように言い換えることができるのではないか。フィクションを立ち上げるということは、見立て(比喩)を用いて現実に似たものを表現するということではなく、我々が、自分の身体を「見立て-比喩が真である(見立て-比喩が現実である)」世界にまで拡張させる、ということだ、と。

2021-03-17

●U-NEXTのラインナップに入っていたので、おそらく十数年ぶりくらい(いや、もっとかもしれない)で『雪の断章 情熱』(相米慎二)を観た。生涯に長編映画を13本つくった相米慎二のちょうど真ん中、7本目の監督作品(1985年)。ここらへんまでがイケイケの超売れっ子期だろう。

ぼくのなかでのこの映画の印象は、どうやっても面白くなりようのないお話を、飛び道具的な無茶な演出を多用することで強引に映画として成り立たせたという、イケイケだった初期の相米だからこそあり得た一種の珍品という感じだったのだが、この認識は完全に間違っていて、改めて観てあまりに素晴らしいので驚いてしまった。

お話がどうしようもなく面白くないというのはその通りなのだが、一方で、どう考えても退屈にしかならない場面や、話のつじつまが合っていない展開などを、突飛で大胆な演出で乗り切っているのだが、もう一方で、話はつまらないとしても、そのシチュエーションのなかにいる斉藤由貴という人物の存在や揺らぎの描写を充実させることで、説得力のある時間の持続を成立させている。これは斉藤由貴という俳優の特性にもよるのだろうが、相米慎二としては珍しく、一人の人物を中心において、そこにぐっと寄っていく感じの演出になっている。

(斉藤由貴は、それまで相米慎二が仕事をしてきた俳優たちとはかなり違った感じなので、相米も、てこずったというか、戸惑いのようなものはあったのではないか。薬師丸ひろ子が、弾むゴムボールのように運動を外に向けて拡散させていく感じなのに対して、斉藤由貴は、ブラックホールのように視線を吸い寄せる感じ。)

それによって、初期の相米のもつイケイケで攻め込んでいく---唖然とするしかない---勢いと、晩年の相米の、じっくりと人物を描写していく感じとの両方が共存し、しかもその両者がしっかり噛み合っているという、相米としても希有な作品になっているのではないかと思った。北海道の風景の撮り方も素晴らしく、クラシックの香りさえするような、堂々とした作品にみえた。

ハンプティダンプティのようなレオナルド熊とか、宙づりにされる斉藤由貴とか、買い物ブギとか、この映画には初期相米ならではの驚くべき場面がたくさんあるのだが、なかでもとりわけ素晴らしいのが、桜のある公園で、斉藤由貴榎木孝明世良公則の三人がキャッチボールをする場面だろう。この場面は、映画というメディウムによってこの世界に出現し得た奇跡の一つだと思う。今回観て改めてすごいと思うのと同時に、若い頃の自分がこの場面が大好きで、この場面がすごいのはどうしてなのか、どうやったらこんなにことが出来るのかと、VHSのテープで何度も繰り返し観ていたことを思い出した。