2021-03-30

●外に出るときはいつもマスクをつけるようになって一年以上経つのに、時々マスクを忘れることがまだある。外に出て、100メートルくらい行ったところで、他人の視線によってマスクを忘れたことに気づいて、走って取りに戻った。

2021-03-29

●「二人組み」(鴻池留衣)を再読。これはこれでとても良い小説だが、改めて振り返ると、ここから二作目(「ナイス・エイジ」)、三作目(「ジャップ・ン・ロール・ヒーロー)へと飛躍する跳躍力のすごさを感じる。それだけのものがここには潜在されていたということだろう。

逆から言えば、この「二人組み」は、生涯でただ一度だけ書けるという種類の、この作家にとってのベタにド直球な作品といえるのかも。

《本間》という、とても頭が良いがきわめて気の小さい、故に有害な男性性の塊のように行動してしまう、(思春期のやっかいな重さを思いっきり背負っているような)14歳の少年の様を、ここまで追いつめて書き切れたからこそ、この後の、何回転も捻りが加えられた複雑なアイロニーを湛える作品がありえるのかもしれない。

(《坂本ちゃん》がほんとうのところ、どのように考え、どのように感じているのかは誰にも分からない。本人にすらよく分かっていないかもしれない。故に、ラストに《本間》がとった行動の倫理的な評価は---暴力であるという可能性に対して---開かれたままだ。彼の行為は暴力であるかもしれないが、しかしその評価を、外側から、事前に、決定できる安定した指標は存在しないだろう。クラスメイトや教師による評価は恣意的であり、それ自体が暴力であるようなものだ。欲望に促されて他者に向かう行動は、常に暴力である可能性に対して開かれており、暴力となってしまうかもしれないというリスクを負う倫理的な宙づり状態のなかで行われるしかないだろう。わたしとあなたは、どちらも共に悪となりえる倫理的な宙づり状態を共有することによって、かろうじて対等でありうる、のではないか。《坂本ちゃん》に対してはずっと一方的に暴力を行使していたといわざるを得ない《本間》が、ラストにおいて、そのような倫理の宙づり状態において行動するに至るというのがこの小説だ、と言えるかもしれない。)

2021-03-28

●(昨日からつづく)『ジャップ・ン・ロール・ヒーロー』(鴻池留衣)では、「最後の自粛」と同様に陰謀論的な世界が展開される。陰謀論には出来事のスケール感や距離感の失調があり、ごく身近で起るちいさな出来事が、そのまま世界を動かす大きな組織の陰謀(の徴候)と短絡される。さらに、この小説ではフェイクと現実の反転がみられ、虚構的に組み立てられた設定が、反射するように、押印するように、現実世界の側に刻まれて世界の側に影響を与える。どちらがどちらか分からなくなる。もう一つ重要なのが、この小説の本文が、複数の人がそれぞれの思惑で書き込み、書き加え、書き換えることが可能なウィキペディアという場を支持体にしていること。統一された書き手(語り手)は保証されず、全体を通した意図やパースペクティブが存在できないし、いつまでたってもフィックスせず、完成が訪れない。今読んでいるこの「小説」は、どこまでも流動的な時間変化のなかの、ある一地点でのスナップショットでしかない。

一人の男が、存在しないはずのバンドのコピーバンドをはじめる。オリジナルのバンドは架空のものなので、それが存在した痕跡は現実上にはない。しかし、いかに無名だったとはいえ、メジャーなレーベルから複数のアルバムを出し、海外ツアーも行った(という設定の)バンドが存在した痕跡をまったく残していないというのは(フィクションの設定としても)不自然だ。そこで、そのバンドは実はCIAのスパイであり、主に社会主義圏でツアーを行ったのは諜報活動のためで、そして、冷戦終結後に、バンドのメンバーもバンドが存在した痕跡もあわせて組織から抹殺された、という設定が付け加えられる(バンドのリーダーは、オリジナルメンバーの息子で、家にたまたま残っていたテープで演奏を聴き、耳で憶えていた)。バンドの演奏はオリジナルの演奏の再現のみをめざし、活動は、(権力によって無いものとされた)オリジナルのバンドの記憶をもつ人を探す(痕跡を掘り起こす)ために行われる。これらはあくまで設定であり、バンドのメンバーもそのファンも、その嘘を嘘として、信じているフリを共有している。

だが後半になると、フェイクであるはずのこの「設定」が現実としてメンバーに襲いかかることになる。オリジナルのバンドの存在の痕跡となりえるものはあらわれてはいけなかったのだ。彼らは、いくつもの巨大な組織間の抗争に巻き込まれ、(その利害により)命をねらわれたり、救われたりする(陰謀論的巨大組織は、まるで「涼宮ハルヒシリーズ」の、超能力者、未来人、宇宙人のようにして彼らの前にあらわれる)。これ以降の展開では「現実らしさ」という意味でのリアリティの尺度はどんどん崩れていく。あまりに非現実的で、ツギハギ的で統一感を欠き、ご都合主義的で、紋切り型ですらあるので、通常「フィクション(物語)」がこんな展開をみせるはずがない、という展開をみせる(失調した世界は、みたこともないほど突飛な世界というより、おどろくほど貧しい想像力によって描かれたような紋切り型過ぎる世界だ)。上手なストーリーテラーは決してこのような展開はつくらない。たんに内容的に非現実的であるだけでなく、その記述や流れは、常識的な意味での世界との適切な距離、世界の連続性、世界の手触り感などが失調している。しかしこの、パースペクティブが崩落し、リアルの底が抜けて平板化していく感覚には、ある否定しがたいリアリティが感じられるし、とても強い面白さが感じられる。

(このリアリティや面白味は、実際に我々が「陰謀論」にやられてしまって常識的パースペクティブを失う時に作動するものと似ているのかもしれない。その意味でとても危険なものだろう。陰謀論は今、我々のあまりに身近に迫ってあり、ウイルスのようなその蔓延により、人の思考や社会のあり様が破壊されてしまうのではないかという恐怖を感じている。この恐怖もまた、この作品のリアリティの裏で作用するだろう。)

たとえば、阿部和重だったら(あるいはピンチョンだったら)、このような陰謀論的世界を精密に設計、構築して、大長編化するのかもしれない。しかしここでは、世界を精密に設計する働きこそが失調しているように思われる。パラノイア的な世界構築の意図が、何度も立ち上がっては、その都度不発に終わって、穴のあいた風船のように、きわめてチャチな着地点にぷしゅーっと墜ちる、という出来事が起っているように感じた。ここには、失調と不発のリアリティがあるのではないか。

●以下、追記。

『ジャップ・ン・ロール・ヒーロー』の後半の展開は「ピザゲート」並みの薄っぺらな想像力だからこそ(破壊的に・恐怖を伴った)リアルなのだ、という感触は、ぼくにとってはかなり強いリアリティなのだが(実際に「ピザゲート」を信じてしまう人が少なからずいるのだ)、どのくらいの人に共有されるものなのかは分からない。思考を内側から瓦解させるかもしれないウイルスとしての陰謀論的リアリティ。

この小説の本文は、たんに一人の狂った人が妄想を書き込んだだけかもしれないし、互いに無関係な複数に人物による共同的な創作なのかもしれないし、複数の(もしかするとかなり多数の)人々によって共有・同調された狂気(妄想)の産物なのかもしれないし、本来隠されるべき世界の秘密(陰謀)の漏洩なのかもしれない。語り手が単数であるのか、複数であるのかさえも確定できないという不安定さが重要で、あからさまに雑多で複数的であるわけではないということがミソだと思う。。

 

2021-03-27

●『ジャップ・ン・ロール・ヒーロー』(鴻池留衣)を読んだ。

これはすごい。前半だけを読むと、とても複雑ではあるが、理解可能な知的操作によって組み上げられたコンセプチュアルな小説に見えるが、中盤のある地点で底が抜けて、それ以降は、とりとめもなくリアリティもない与太話が延々とつづくことになる。

とりとめがないというのは、パースペクティブが成り立っていないから(遠近法が歪んでいるというより、遠近法がない、という感じ)、先の展開についての見通しがたたないということだ。そして、与太話のリアリティのなさこそがこの小説のリアリティであり、おもしろくなさ(平板さ)こそがこの小説のおもしろさだ。おもしろくなさのおもしろさとは、ある場面のおもしろくなさと、次の場面のおもしろくなさが「別のおもしろくなさ」なので、決して飽きることがなく、次はどんなおもしろくなさが待っているのかとドキドキするということだ。予測できないおもしろくなさの質的変化による進行が、この小説のリアリティを支えていると思う。「おもしろくない」ということがこんなにおもしろい小説があるのか、という驚き。

小説の図としての展開が変わるのではなく、小説を下支えしていた地がまるっと入れ替わってしまうという瞬間が、鴻池留衣の小説にはある。「最後の自粛」にもあったし、「わがままロマンサー」にもあった。「わがままロマンサー」にはそれが複数回あった。しかしこの小説の後半では、地そのものがなくなってしまう感じになる。道がないところに、1、2メートルごとに、素材も工法も異なる道をその都度つくって、そこを進んでいくような感覚。統一されたパースペクティブ(見通し)を決してつくらないというこの力業を成立させるには、相当な力が投入される必要があったのではないか。

複数の(異なる目的をもつ)編集人たちによって改変されつづけているウィキペディアの記述の、ある瞬間のスナップショットが、そのままこの小説の本文であるという設定、また、登場人物の一人の名が「僕」であることによって、まったく別人が別の目的で書いた文章の寄せ集めを、あたかも「僕」による一人称の小説であるかのようにみせる(そして、「僕」の性別が途中まではっきりしない)という仕掛けは、あくまで知的なレベルで仕組まれた仕掛けのおもしろさであって、それをしたからといって、そのまま、この小説のような「見通しのたたなさ」を実現させられるというものではないだろう。前半の部分だけを読むのなら、おもしろいコンセプト(仕掛け)をもった興味深い作品ということだろうが、後半の、まったくとりとめがなくなってしまった展開の部分が、ちゃんとおもしろく読めるように書かれている(というか、後半こそがおもしろい)という事実が、この作品を「すごい」というべきものにしているのだと思う。

2021-03-26

●「スーパーラヴドゥーイット」(鴻池留衣)を読んだ。「すばる」の二月号に鴻池留衣の新作が載っていると知った時には、既に「すばる」二月号はamazonでも品切れだったので、図書館で借りてきて読んだ。

はじまりから終わりまで緩むところがなく、常に、新鮮さと密度と緊密に組み立てられた構築姓が感じられ、たいへん読み応えがあった。ただ、「最後の自粛」や「わがままロマンサー」と比べるとやや抑え気味でおとなしいというか、「こんなことある?」とか「えーっ」とかいう声が思わず漏れてしまうような決定的な驚きは最後まで訪れなかった。いや、充分に面白いのだが、「わがままロマンサー」のようなすごい小説の次の作品ということで、どうしても期待のハードルが高くなっているので。

それと、この手のメタフィクション的な構造には過去にとても多くの先例があり、読者としてはかなりの耐性がついているので、よほどのすごいことが起らないとなかなか驚けなくなってしまっている、ということはある。逆に考えれば、既に手垢のついたメタフィクション的な構造を用いて、よくぞここまで読ませるものが書けたものだという、その細部や展開の充実に驚くべきなのかもしれない。読み始めた時に、「え、メタフィクションなの…、大丈夫なの…」と危惧したのだが、さすがに鴻池留衣だけあって、最後までちゃんと面白かったので、よかった。

(ただ、鴻池留衣なので、メタフィクションだと思って読んでいたら実は…、という、とんでもない飛躍---あるいは隠された悪意---があるのではないかと期待してしまったのだ。)

(そうか。他の作品と比べると「曲者度がやや薄め」と感じた、ということなのだと思う。)

2021-03-25

●去年は、数として、生涯で最も多くの小説を読んだ一年だった(「新人小説月評」のほかにも、多量の小説を読む必要があり、それが重なったため)。それは逆に、「それ(必要)以外の小説」がほとんど読めなかった、ということでもある。なので、ちょっとした浦島太郎状態になっているという感じがある。今年に入って、ようやく「読みたい小説」が読める、と思ったのだが、去年の後遺症のようなものが残っていて、なかなか小説を読みたいという気持ちになれなかった。ここにきて、ようやくその呪いが解け始めているようだ。

『坂下あたると、しじょうの宇宙』(町屋良平)を読んだ。『1R1分34秒』を読んだのは今から一年半ちかく前だ。これはたいへんな小説だと感じたが、そのことで、それ相応の覚悟がなければ安易に近寄れない難物という印象になって、余裕のなかった去年は、町屋良平の小説をあえて遠ざけるような感じになってしまった。『坂下あたる…』は、発表媒体からみても軽めの作品であることが予想されたので読んでみることにした。

前半を読んでいて、あー、これは魅了されちゃうやつだ、と思った。もし、十代の頃に読んでいたら、この小説にすっかりハマってしまっただろうというような種類の、ある種の傾向の人たちを魅了せずにはいられないような青春小説だ、と(たとえばぼくが十代の頃は橋本治がそうだったような)。ここには、『1R1分34秒』に原液のような形であった、とても濃厚な二者関係のあり様が、ある程度整理されたマイルドな形となって示されていると思った。

そう思って読んでいると、中盤過ぎくらいにびっくりするような「大ネタ」が導入されて、えっ、これってそういう話だったの、と驚くと共に、この段階でこんな大ネタを出してきて、この大ネタを出した必然性があったと納得できる形で、大ネタの落とし前をきちんとつけられるものだろうかと思い、この話がどこに向かっていくのかという際どさにドキドキした。

とはいえ、これはあくまで青春小説であってハードSFではなく、大ネタと思ったものは実は大ネタとしてあるのではなく、この小説にはじめから一貫してある「とても濃厚な---そして複雑に相互貫入的である---二者関係」のあり様を表現するためにひとつの「装置」として導入されたのだと納得できた。

(自分もどきのAIが書いた小説に、自分は決して届くことができないだろうという自覚によって主人公の友人は「言葉を失う」のだが、これは、真剣に作品をつくっている人なら誰でも突き当たるであろう、自分の能力の絶対的な届かなさの自覚による絶望を分かりやすい形で示したものだと言えよう。また、実際にAIがそのデータ元となった作家以上の「新作」を生み出すことができたとしたら、この小説に書かれているくらいのことで、AIが混乱することはないのではないかとも思う。)

この小説の本当の大ネタは、大ネタとしてのAIではなく「詩」であるだろう。主人公は詩を書く人であり、何人もの詩人の詩が実際に引用され、主人公の書いた詩が友人の危機を救うという物語をもつこの小説では、主人公の書いた(とされるが、実際には「作者」が書く)詩が、本当に友人に響き得ると納得できる質をもっているのかという点がとても重要であろう。ここで実際に「詩作の実践」が行われ、小説とは異なる「詩の説得力」によって、小説の説得力が支えられている。

(『1R1分34秒』で行われているのは、ある意味で「小説のなかで行われる言葉によるボクシングの実践」であるように思われるが、ここで行われているのは、「小説のなかで行われる言葉による詩作の実践=要するにベタに詩作そのもの」なのではないか。)

友人は小説を書く人だが、友人の書いた小説はその一部ですら示されない(「この小説」そのものがそれを表しているとも考えられるが)、しかし、主人公の書く詩は、ちゃんと示される。才能に恵まれ、本気で文学に取り組んでいる、小説を書く友人と、その友人の傍らにいることで(そのことの効果によって)、友人からこぼれ落ちた(言葉にならなかった)言葉を拾って詩を書く主人公。主人公の詩の言葉もまた、友人に由来するとしたら、その大本である友人が言葉を失った時に、今度は主人公の書いた詩が友人に言葉を取り戻させる。小説と詩とが相互貫入していて、循環的な構造とも言えるが、単純な循環ではないあり様にリアリティを感じた。

(以下の引用は、ある意味でこの小説の「ネタバレ」ですらあると思われるので、未読の人は注意されたい。ラストの場面で語り手が移動していて、下の引用部分では主人公ではなく、友人の語りになっている。)

《『現代詩編 四月号』に掲載された毅の詩、『言語領域ノスタルジー』をよんで、オレは自分のことばみたいだとおもった。まるで、オレがかいたみたいだと。だけど、何回もよんでいくうちに、くり返しおぼえてしまうぐらいよんでいくうちに、自分のことばとの齟齬がすこしずつあらわれた。ここにかいてあるのは、オレがかいたみたいだけど、確実にオレがかいたのじゃないことばたちだ。事実や経験を越えて、オレの肉体がそう確信した。

α(AI・引用者註)のかいた『ほしにつもるこえ』をよんでいるときの感覚と似ていた。なのに、かいた相手が友だちだっただけで、本来文学とは関係ないようなそんな事実だけで、とても安心してしまった。ほんのわずかのことばのズレが、圧倒的に心地よかった。きづけば涙がこぼれていて、オレは毅の詩を何度も何度も音読することで、じょじょに自分のこえをとり戻していった。》

(上に書いた「AIは二者関係を表現するための装置にすぎない」という言葉と矛盾することを書く。AIは自分から言葉を奪い、友人(主人公)は自分に言葉を再びもたらす、という構図になっているのだが、とはいえ、友人にとって、自分を---書き換え、乗り越えるという形であるとしても---反復しているという意味で、AIも主人公もほぼ同位置にあることになる。考えてみるとこれは奇妙な感覚で、この小説では、友人と主人公の濃厚な二者関係ど同等なものとして、友人とAIとの二者関係が置かれていることになる。)

2021-03-24

●「ナイス・エイジ」(鴻池留衣)を読んだ。

去年、一年間「新人小説月評」をやっていて、もっとも興味をひかれた作家が鴻池留衣だった。「最後の自粛」(新潮)は上半期の五作に入り、「わがままロマンサー」(文學界)は下半期の五作に入った。「わがままロマンサー」は年間ベストだと思った。ただ、それ以前の作品はデビュー作の「二人組み」しか読んでなかったから、二作目の「ナイス・エイジ」を読んでみた。

面白かったが、「最後の自粛」や「わがままロマンサー」が、アイロニーを複雑骨折させたみたいな圧倒的な感じだったのに比べれば、そこまで捻れてはいなくて、案外素直だと思ってしまった。とはいえ、SFではあるが、あらゆるSF的道具立てが不発に終わるSFという感じで、この、「不発感」の徹底がこの作家の特異性だと思え、とても興味深く読んだ。一作目(「二人組み」)とはかなり作風を変えていて、この二作目がこれ以降のこの作家の小説の基本的なスタイルを決めているように思う(とはいえ、一作目からも既に相当濃厚な曲者感が匂うが)。お話は、『シュタインズゲート』の世界観のなかで演じられる『御先祖様万々歳!』みたいな感じで、オチは「量子自殺」的な感じか。

無理矢理に似ている作家を探すとすれば、七十年代の筒井康隆が、現在のような社会・文化・情報技術のもとで生きていたとしたら、このような感じの小説を書くのかもしれない、とは思う。ただ、やはり違うと思うのは、不発感そのものが主題とも言える「ナイス・エイジ」をみても、この作家にはマッチョイズムへの強い忌避があるように思われるところだ。

とはいえ、それも単純ではない。「最後の自粛」などはまさに、お話としては、ホモソーシャル的なボーイズクラブのなかで、ひ弱な青年(たち)がカルトを率いるマッチョなカリスマに育っていってしまう話なのだが(つまり、お話自体はよくある話なのだが)、その様がたんにアイロニカルに批判的に捉えられているということでもない。積極的にミイラ取りがミイラになりにいっているかのような感覚もあり、だがそれは、ミイラになりにいくことによってこそミイラを逃れうるという感覚でもあって、そこに仕込まれた、ミームに対する独自の距離感、複雑骨折して乱反射するアイロニーと露悪と偽悪の感触は、他ではちょっと感じることの出来ない質をもつもので、この感じをどのように受け止めればいいのか困惑させられる(正直、ほんとうにこれを肯定的に受け止めていいものかどうかよく分からない)。

●以下は、去年の「新人小説月評」で鴻池留衣について書いた部分。特に「最後の自粛」にかんして、「捉え切れていない感」が自分でもあるが。

鴻池留衣「最後の自粛」(新潮)。本作はアイロニーを描き出す。男子校的ホモソーシャル空間、疑似科学陰謀論、集団のカルト化、テロリズム…が、胡散臭げに演じられる。これらを発動、発展させる燃料は、死を恐れず(隠蔽せず)に「生の実感」を重んじるヒロイズムだ。郊外の歴史ある男子校はその温床であり格好の舞台となる。主人公《村瀬》は自らの行動の自由を抑制する《抑圧者》と闘う。彼には、マイノリティという認識と、力と操作の拡大を望むマッチョな欲望が同居する。だが、このような主題には既視感があるとも言える。一方で、異常気象、東京オリンピック、COVID-19という現在進行する出来事とリンクしてもいる。本作は「陰謀する側」から見られた裏返しの陰謀論である。気象=自然を操作することで世界(他者)を操作しようとする《地球温暖化研究会》にとって、自分たちの操作の外で生じたコロナが世界を変えることは敗北である(操作不能な現実=コロナによる陰謀論の綻び)。東京オリンピック延期の「原因」は自分たちでなければならないのにコロナとなってしまった。ここで《抑圧者》への闘争が「陰謀論の主体」の座を巡る(コロナとの)競争へと変質してしまう。彼らをテロに向かわせるこの転倒が描かれる点が重要だ。

鴻池留衣「わがままロマンサー」(文學界)。展開も落とし所も先が読めず「やられた」という読了感。ゲイでもありノンケでもあり、タチでもありネコでもあり、BL絵師でもありゲイビデオ俳優でもありと、局面により属性がころころひっくり返る志村というヤヌス的青年を媒介とすることで、腐女子のBL漫画家の妻と、ロリコン(+熟女好き)の小説家の夫が、相容れない異質な欲望を互いに映し合うように交錯させることが可能になる。男として男と性交したいという妻の欲望、ノンケでありながらゲイとして性交したいという夫の欲望、これら不可能な欲望は志村を介すことによって(仮想的に)実現される。人物たちは皆欲望のモンスターで、その欲望は人ではなく属性に向かい、他者を欲望の対象としてしか扱わず、ただ利己的に消費する。にもかかわらず、人物たちは他者の欲望に巻き込まれることでいつの間にか自己から逸脱しはじめ、他者の欲望を自己の内に入れ子的に巻き込むことで相互変化する。他者を手段としてしか扱わないことを徹底することで結果としてコミュニケーションと変身が出来するという逆説。この、人が悪いアイロニーの感触や、疑似的私小説の話者に信用ならないロクデナシを置く露悪的やり方などから、作者の曲者性が強く匂う。