2021-04-20

●『大豆田とわ子と三人の元夫』、第二話。今回は岡田将生回。このドラマに軽さ(軽やかさ)を生んでいるのはおそらく、松たか子が三人の元夫の誰かと復縁するという(湿った)展開になる可能性がほぼないということを確信させる雰囲気を松たか子が出していることによるだろう。前回は松田龍平と、今回は岡田将生と「いい感じ」になる場面はあっても、それが縒りを戻すきっかけになるとはまったく感じられない。松たか子には鉄壁がある。ただし、その壁に対して、娘(豊嶋花) が呪いを呼び込む重大なセキュリティホールとして存在する(うさぎのヌイグルミ)。

元夫たちは、松たか子に対して未練を抱いてはいるが、もう一方で、恋愛に至る展開に発展しそうな新たな女性との出会いが三人とも既にある。元夫たちにとって松たか子は「良い過去」としてあり、それに対して出会った女性たちは「新たな未来」への可能性としてある。元夫たちは、過去と未来との引っ張り合いとしての「現在」を生きている。松たか子はといえば、過去に対する未練もなく、未来につながる新たな出会いもない(前回は斎藤工、今回は川久保拓司が、未来への可能性として登場するが、発展する前に可能性は潰える)。だから松たか子には、今のところ「現在」しかなく、その現在は主に、会社、家庭(娘)、親友(市川実日子)によって構成される。また、セキュリティホールである娘によって、その「現在」に(既に過去として視界から外れているはずの)元夫たちが入り込んでくることになる。

今回が岡田将生回であるというのは、この回で岡田将生は一応、過去(松たか子)に対する執着を捨てることができたということだろう。終盤、松たか子岡田将生からかけられた言葉を「苺タルト」として受け取る。岡田の言葉が「苺タルト」たり得るのは、松にとって岡田は「元夫」ではなく「会社の顧問弁護士」であるからだろう。だから松は岡田に、夫婦ではなくなっても、共に現在を生きていると思っていると言い、その言葉が今度は岡田にとっての「苺タルト」となり、それが岡田に執着を捨てさせる。

●このドラマのきびきびしたリズム。たとえば、洗濯かごをひっかけてコーヒーをこぼす松たか子に対して、角田晃広が撮影機材でコップを落としそうな時に、さっと手で食い止める松田龍平との対比がさっと示される。あるいは伏線。松田龍平が、自ら口にした「恋の六秒ルール」の呪いに、自らがハマってしまう。そして、小道具としてのノコギリの活躍。

●エンディング曲、毎回ラッパーが変わるシステムなのか。今回はBIMと 岡田将生。BIMはドラマに2カット出ていた。

2021-04-19

保坂和志の「小説的思考塾 配信版 vol.3」の話題で強く興味を感じたのは、卵としての過去という話だった。ドゥルーズは、ニワトリが産むのは卵だが、卵がニワトリになるとは限らない(突然変異で「別のものになる」可能性がある)とし、卵が先かニワトリが先かという議論で、答えは卵が先なのだとする、と。ニワトリは、ニワトリでないものの突然変異した卵から生まれた、と。

同様に、過去というのは卵であって、つまり過去とは、必ずしも「現在」に行き着くとは限らない、様々な可能性が存在する場所だと考えられる、と。過去から、様々な分岐があり得、その様々な分岐のなかのたまたま一つが「現在」であるに過ぎない。同じ過去のなかに、今、我々が属している「現在」とは「別の現在」の可能性が孕まれている。だから、我々がたとえば過去の写真に強く惹かれるのは、そこにノスタルジーを見いだしているのではなく、「別の現在の可能性」がそこには裸のままであるからなのだ、ということになる。

この話から、ぼくはエリー・デューリングの「レトロ未来」という概念を想起した。というか、ぼくは保坂さんの『ハレルヤ』という本の書評に、保坂さんの小説からエリー・デューリングを想起されたということを書いていたのだったと思い出した。以下、「おとぎ話が跳ねる経験とレトロ未来」(「群像」2018年11月号)から。

《「こことよそ」で話者は、過去(二十代の頃)の自分の明るさと暗さに触れている。若くあることそれ自体の圧倒的な明るさと、小説家志望でありながら未だ小説家ではないことによる屈折だ。しかし、未だ小説家ではないという暗さは、既に小説家であるしかない現在時の話者にとって、(ジュネにとってのフェダイーンの少年たちのように)それ自体が輝くような確定されない可能性の放射でもある。現在時にいる話者はそのような過去に触れる出来事を経験し、改めて驚き、跳びはね、喜んでいる。この小説を読むということは、読者が自らの過去ではないそれらの事柄をおとぎ話のように思い出して驚き喜ぶことだ。》

《「こことよそ」の現在時の話者は、過去に触れているだけでなく、過去の自分が現在の自分と出会う場面を想定しもする。しかし可能性の放射としてある過去の自分は、未来(現在)の自分に触れても響くものがない。この非対称性は、現在時の話者が過去の自分の無数の可能性のうちの一つの姿でしかないことを示している。》

《フランスの哲学者エリー・デューリングは「レトロ未来」という概念を提出している。難解な概念だが、乱暴に要約すれば、「未来」は実現されることを待機している出来事、私たちの前に広がる時間の領野といったものではなく、現在と並行して共存し、現在のなかで活動している潜在的なものとしてあるという考えだ。》

《「現在」は、「過去からみた未来」と二重化されている。ならば現在は、過去から伸びた未来の無数の可能性がそのまま潜在的に共存している場だということになる。未来は前にあるのではなく、潜在的な並行世界として横にある。「こことよそ」の二十代の話者のもっていた放射する可能性は、話者が既に小説家となった(小説家であることが確定した)現在において消えてしまったのではなく、過去の時点から複数の可能性のまま進展していて、レトロ未来として、現在と並行し潜在的に共存しているということだ。》

https://note.com/furuyatoshihiro/n/n3aecf4fff09c

●この話との関連で、パラジャーノフという名前が出てきて、その名前を久々に聞いて、おおっと思った。『ゴダールの映画史』(映画ではなく本の方)でゴダールが、映画というものが、今、一般的にそうであるようなものではなく、パラジャーノフのような形式の方が普通であるような現在もあり得たはずだと書いている、と。パラジャーノフは今、ソフトが高騰してしまっているけど、字幕無しでいいならYouTubeで観られるものもある。

ざくろの色

https://www.youtube.com/watch?v=aPtxS1c-fGA

アシク・ケリブ

https://www.youtube.com/watch?v=1E7R_zqgRcI

スラム砦の伝説

https://www.youtube.com/watch?v=wk56xsHKtSM

精神分析の話も多くあった。たしかに、フロイトは直に読んでも大丈夫だと思われるが、ラカンはもとより、ラカン関係の本は、精神分析的な思考法や用語法にある程度慣れていないと、なかなか入っていけないと思う(それに慣れるということが「概念の定義・配置・領域が変わる」ということだが)。たとえば、精神分析で用いられる「解釈」という語は、我々が普通にその語から受け取る意味とはずいぶん違った意味をもつ。以下、『疾風怒濤精神分析入門』(片岡一竹)より、「解釈に意味はない」という節の引用。

《だから解釈は、「ほう」とか「へえ」とかいう頷きでもよいし、話の趣旨と全く関係ない細部を追求するようなものでもよいわけです。

例えば、「私はその日、朝の十時に家を出て……、帽子を被って出たんですけど、……彼と会った時に睨まれているように思って……もう目を見ていられなくて……」というようなことを患者が言ったとします。

そこで普通のカウンセリングならば「それは辛かったですね……他にどういう時に同じような気持ちになりますか」などと、共感しながら聞き返すでしょう。あるいは、一般的にイメージされている精神分析では「あなたの父親に対する恐怖が彼に転移したのです、目とは、あなたに欠けている知性の象徴です」というように意味付けをするでしょう(これもまた、意味不明な解釈ですが)。

しかしラカン精神分析においては、「帽子を被っていたんですか。帽子が好きなんですか。よく被るの?」というような解釈をするものです。言うまでも無く、この話(パロール)において帽子は大した意味を持っていないわけですが、だからこそ分析家はそこに注目するのです。なぜならそのことで、この話をした時には思いもしなかった、帽子に関する問題が発覚するからです。そこから、何か重要なことが出てくるかもしれません。

分析家の解釈はたいていの場合突飛で。面食らわせるようなものです。しかしそういう一撃(クー)があるからこそ、全く新しいことが言えるようになるのです。なまじ自分の言ったことが理解され、共感されれば、それに味を占めてしまい、症状が改善されないまま、いつまでも同じような話をし続けるでしょう。それでは人生の転機など訪れません。》

2021-04-18

保坂和志の「小説的思考塾 配信版 vol.3」で、話のマクラとして使うために「人は人に対して、どのように、権力・支配力・優位性を行使するか」という資料が配付されたのだが、これはとても重要なものだと思った。はっきりと分かりやすい立場や力の差があるような場面ではなく、日常的で、フラットな関係にあるようにみえる人々が集まる場において、微妙に優位に立とうとしたり、人を抑圧しようとする人が、それとははっきりみえないような形でとる言動のサンプルが10個書かれている。有料のイベントで話された内容をむやみに外に漏らすのはよくないのだが、これはすごく重要だから(状況の理解という意味でも、自分がそれをしないという自戒のためにも)広めたいという気持ちがあり、例を二つだけここに書きたい。

一つ目は、保坂さんが学生の頃に、自主映画の撮影のための合宿に参加した時の話。10人以上の人が参加した合宿で、プロデューサーのような人もいた。宿での夕食の時、おかずがちょっとだけ残っていた。その時プロデューサーが、「保坂、これ食べちゃえよ」というようなことを言った、と。なんということもないようにみえるが、これははっきりと、自分の立場の優位性を相手に対して示すような言動と言える。こういうちょっとしたことを、折に触れてちょいちょいやることによって、関係の優位性を相手に認識させようとする。公的であれ私的であれ、フラットな関係にあるような集団でさえ、こういう形で軽い支配-被支配関係を作ろうとする人がいる。

もう一つ。「痩せたんじゃないの?」「大丈夫ですか?」など、心配するそぶりをみせることで微妙に優位に立とうとする人がいる、と。心配するそぶりによって、心配する能動的立場と、心配される受動的立場という非対称性を強いる。これは保坂さんが挙げた例ではないのだけど、思いつくのは、幼いきょうだいの、上の子が下の子に対して、こういうやり方で優位性を示すことがよくあるように思う。それを見た大人は、「さすがお兄ちゃん、優しいね、えらいね」みたいなことを言うのだけど、これは明確にマウントをとりにいっている行動だと思われる。

●保坂さんの挙げた例よりも、ずっと強い意味での「支配」だけど、小田原のどかのツイッターでの発言が強く印象に残っている。

《私自身、学生時代付き合っていた相手から、常に点数をつけられていたという経験があります。いつも低い点数をつけられて、「お前の価値を決めるのはお前じゃない」と「わからせる」わけです。「悔しかったら俺を認めさせろ」と。いま思い出しても震えるほど腹立たしい。》

https://twitter.com/odawaranodoka/status/1382508703627108352

以前、ある新人賞の選評で、審査員の一人が、受賞作についてかなり強めの否定的なコメントをして、最後に「悔しかったら俺が認めるような作品をつくれ」ということを書いていた。それを読んで、この審査員がなんでそんなに奢ったことを言うのか理解出来なかった。作品に対して否定的ならば、否定的だということのみを示せばよいはずだ。あなたが認めないのはあなたの勝手だが、この新人作家は、別にあなたに認められることを目的として作品をつくっているわけじゃないでしょう。実際、あなたに認められなくても、ちゃんと他の審査員たちに認められて新人賞を受賞したのだし、と。小田原さんのツイートを読んで分かったのは、この審査員は、「お前のために厳しく言ってやってるんだ」という形で、支配権を自分の側に置いておきたかったのだろうということだ。

●とはいえ、非対称的な関係がいつも必ず悪いとは思わない。たとえば、師匠と弟子、精神分析における分析家と分析主体、あるいは親分と子分といった関係など、非対称的関係であることによってしか作動しないポジティブなものもあると考える。

●その上で…。場を支配しようとする人は、良い側面をみればリーターシップがある人ということにもなるのだろう。個人的なことだが、ぼくはその場のリーダーシップをとろうとする人が子供の頃から駄目だ。駄目、というのは、嫌い、というより、うまくいかないというか、親分オーラに巻き込まれることができない。親分気質の人は、支配下の人に優しいし、利益を誘導してくれるし、敵から守ってもくれるのだが、そういう人に「懐く」能力が無い。意思の力をもって抵抗しているのではなくて(親分気質の人には好ましい人も多いので出来るなら良い子分になりたいとすら思う)、集団縄跳びに入っていけないみたいな感じで、親分気質の人が好意を示してくれても、ぼくの方もその人に好意を持っていたとしても、噛み合わず、微妙な空気になってしまう。子分の才能がない(もちろん、親分の才能はもっとない)。これはぼくの人格的な欠陥だと思っている。

もっとも顕著なのは、ぼくは今まで、「教師」という立場の人と良い関係になったことが一度もない。力の決定的な非対称性があり、ある明確な人格をもつ「師」という存在からしか学べないことというのがあると思うのだが、そういう意味での師をもつことができない。

(親分の才能がないということは、親分的な抑圧的行動をとらないということではない――権力は個人的な資質によってではなく関係性によって発生する――ので、自分を省みることは常に必要だ。)

これは、精神分析的に言えば、人に対して「転移」が起こりにくい体質だということだと思う。教師(師匠)と生徒(弟子)みたいな関係が、本当に上手くできない。カリスマ性のある人が苦手だ。だからぼくにとっては、転移の対象は人ではなく「作品」であり「テキスト」なのだと思う。というか、「作品」や「テキスト」を介することによってしか人に転移できない。師弟関係になると必ず上手くいかないので(カリスマ性のある人とは必ず噛み合わないので)、尊敬する人とはできるだけ距離をとって、「作品」「テキスト」を介して学ぶということになってしまう。「師」は、「作品」や「テキスト」という形でならば多く存在する。

(芸術というのは基本的に、近い師匠=実際の教育者よりもずっと、遠い師匠=古典的作品から深く多くを学ぶものではないかとも思う。)

2021-04-17

●(昨日の補足) 『はるか、ノスタルジィ』の印象は、とにかく「しつこい」。音楽がしつこいし、ナレーションがしつこい、謎解きがしつこい、のだが、なにより「切り返し」がしつこい。そんなに何度も切り返しする? 、この場面もまた切り返しなの? 、と思ってしまう。驚いたのは、石田ひかり松田洋治が結ばれる場面(というか、そのアクション)で、松田洋治石田ひかりの肩をつかんで「押し倒す」のだが、ここでも、押し倒す松田洋治のアップと、押し倒される石田ひかりのアップとバストショットが、切り返しで示されていた。こういう動作をこんな撮り方をする映画を他にみたことがないと思った。ただ、ここにまで至る様々な場面で、何度も何度も切り返しをみせられていたので、驚きよりも、「ここでもまた!」という気持ちの方が強いのだが。

性交シーンが切り返しで示されるというのは、よくあるやり方だと思うが、その前の段階にも、切り返しが使われる。要するにここでは、二人の身体が直接触れ合ったり重なり合ったりしているところを見せたくないということだと思われる(切り返しは、見つめ合う二人を別のフレームへと分離させる)。意味として性交はしたが、身体として触れ合ってはいない(触れられない)。しかしその後、勝野洋石田ひかりは直接(切り返しではなく、一つのフレームのなかで)、裸で抱き合う。松田洋治は、少年時代の勝野洋(主役)の役なのだから、少年時代の自分は、少女と触れあってはいけないが、中年になった自分は、少女と直接触れ合ってもいいのだ(中年である自分こそがようやく少女と触れ合えるのだ)、という見え方になる。中年男性の欲望の発露としてなまなまし過ぎるなあ、と思った(この映画には、中年おじさんの性的妄想が、オブラートに包んだ風でいて実は全然包んでいない「丸出し」のまま現われている)。『はるか、ノスタルジィ』には、全体に渉ってこのような気持ち悪さがあるということは、付け加えておきたい。

(松田洋治石田ひかりが性交する時、二人の間に行き違いと誤解があるのだが、勝野洋石田ひかりとの性交時には、その誤解は解かれているのだから、「触れ合わない/触れ合う」の違いでその「誤解の解消」が表現されているという言い訳は、一応できる。)

(勝野洋石田ひかりに名前を聞く時、「名前をいいなさい」という言い方をする。えーっ、と思う。相手がうんと年下だとはいえ、初対面の人の名前を聞く時にナチュラルに命令口調の人ってどうなの?、警察なの?、教師なの?、と。この映画にはそういうところ---中年男性の上から目線の偉そう素振り---も沢山ある。若い時だったら、そのひとつひとつにいちいち腹を立てていたと思うが、今となっては、これはかえって、歴史的資料として、分析対象として、貴重なものではないかと思いながら観ていた。これはあくまで、ノスタルジックなイメージとしての「中年男性」像であり「作家」像なのだと思う。)

2021-04-16

●『はるか、ノスタルジィ』(大林宣彦)を観た。80年代の大林宣彦はリアルタイムでけっこう観ている。2000年以降の作品も、(『この空の花 -長岡花火物語』以降の作を観てから遡行するという形でだが)かなり多くを観ている。だが、90年代の大林作品をまったく観ていなかった。93年公開のこの映画を観て、90年代の大林がぼくの関心からすっかり外れてしまっていたのも仕方がないと納得した。もし、リアルタイムで観ていたら散々悪く言っていたと思う。いや、悪く言うもなにも、途中で耐えられなくなって、最後まで観られなかっただろう。今回、最後まで観ていられたのは、『この空の花』以降の作品への興味があるからであり、『この空の花』以降の作品へとつながるなにものかを探しながら観ていたからだ。

この映画に対してポジティブに言えることは数少ないが、一つ言えるのは、この時期の大林には、自分の映画のスタイルを変えようという意思があったのだろうということが読み取れる点だ。80年代の大林は、売れっ子として多くの作品をつくることを通して、(きわめてオーソドックスな意味で)映画の演出が急速に上手になっていく。「おもちゃ箱をひっくり返したような」という紋切り型表現で語られた商業初期作がら、みるみる普通のスタイルになっていく。おそらく、オーソドックスな意味での演出の巧さのピークが『さびしんぼう』ではないか。しかし『はるか、ノスタルジィ』ではそのようなスタイルをかなり強い意志で壊そうとしているようにみえた。だらだらといつまでもつづく冗長なカットに、だらだらと音楽がかかりつづけ、その上にさらに感傷的で説明的なナレーションがだらだらとかぶさる。上手くいっているとは思えないが、これは意図された弛緩だろう。なにか別のスタイルを探っているからこうなるのだと思う。それは、不連続な短いカットを繋げる初期作品とは逆向きのベクトルをもつ探求のようにみえる。

『この空の花』以降の作品のスタイルを初期や自主映画時代への回帰だとするのは間違いだとぼくは思う。そこには断層があり、別の様相の現われがあると考える。その根拠のひとつに主題の変化が挙げられる。ある時期までの大林にとってもっとも大きな問題は「ノスタルジー」であったのだが、ある時期から(90年代からゼロ年代初めの作品をかなり観ていないので明確に線は引けないが)、「死」への関心がノスタルジー以上に大きなものになっていく。というか、ある時期までの死は、ロマンチックでノスタルジックなものだったが、ある時期から「自分が死ぬ」ものとしての「死」の問題(あるいは、「自分の死」について考えざるを得なくなるような「他人の死」という問題)が前面に出てくるようになった。戦争という主題の前面化も、死への関心の強まりと連動してでてきたもののように思われる(『野ゆき山ゆき海べゆき』にも「戦争」と「死」があるが、基調としての「ノスタルジー」がより強くある)。初期作品の形式はノスタルジーの表現にかかわり、晩年の作品の形式は「死への関心の高まり」にかかわるように感じている。

だが、主題や関心の変化の徴候と、作品の形式の変化の徴候とは、必ずしも重ならないかもしれない。まず、作品の形式の変化が先行し、事後的に、それが関心の変化と上手くシンクロしたということではないかという気がする(「気がする」という程度の確信しかないが)。『はるか、ノスタルジィ』における、意識的に間延びさせられた時間(空間)は、現実的な三+一次元の時空の、再現、表象、フレーミングモンタージュの放棄であり、(初期の作品とは違う形で)それとは別の時空のあり様を模索するものなのではないか。鳴りつづけて耳が麻痺してしまうような劇伴、しつこいほど繰り返される切り返し、くどくてうっとうしいナレーション、だらだらつづくカットやシーン、などは、現実的な時空間の感覚を麻痺させ、そこから離脱させようという狙いをもったものだったのではないか。この作品では、そのような時空感覚の消失は、あくまで---初期作品とは別の手触りをもつ---ノスタルジーの喚起のために仕組まれているのだが(初期作品のノスタルジーが、あくまで映画や文学というメディアを介したイメージへのノスタルジーだったのに対して、ここにあるのは『さびしんぼう』に通じる、直接的に私小説的なノスタルジーであるようにみえる)。ここにみられる「くどさ」「しつこさ」は、最晩年の作品から得られる感触に近いものだとも言える。だとすれば、この作品から二十年後に現われる、晩年の爆発的なスタイルへ至るもののかすかな端緒が(というか、前スタイルからの切断面が)、ここにみられるとも考えられる。

2021-04-15

●『大豆田とわ子と三人の元夫』、第一話をU-NEXTで観た。別れた三人の元夫が三人とも、別れた後もなお元妻に対して執着をもっているという、普通に考えればかなり気持ち悪い構図を、あたかもライトなコメディであるかのように仕立ててしまうという超絶技巧的にひねられたドラマだった。傑作の予感。最近のテレビドラマのクオリティの高さに驚かされる。30年代、40年代ハリウッドのスクリューボールコメディを思わせる。

元妻が家に帰ると家の中に元夫がいるとか、元妻が最初の元夫の家にいるのではないかと疑って、いてもたってもいられない第二、第三の元夫が第一の元夫の家におしかけるとか、普通に怖いしヤバい。しかも、最初は互いに対立していた元夫たちが、次第に仲良くなって共謀しはじめるという展開など、元妻にとっては恐怖でしかないと思う。本来これは笑いにしちゃいけない(サイコスリラーとかにすべき)題材なのに、それをあたかもハーレムものであるかのようにみせかけるというねじれた綱渡りに果たしてどのような意図(狙い)が仕込まれているのか、という点が今後のみどころではないかと思った。このひねりには、明確な意図があると思われる。

(松田龍平が、誰にも分け隔て無く優しくしてしまうタイプの人で、この人だけは松たか子に執着していないようにみえることによって、気持ち悪さがかなり弱毒化されているということはあると思う。)

(角田晃広は、出来るなら近寄らない方がいいような種類のやっかいな人であるはずなのに、なぜか「おもしろいおじさん」みたいな見え方になっている。)

(娘が、どうやら三人の元夫のことを気に入っているみたいなので、ここに松たか子にとっての大きなセキュリティホールがあるのではないか。)

(主題曲で、松たか子、STUTS、KID FRESINOという座組みを成立させることが出来るというだけでも、テレビの力がまだ死んではいないことの証明だろう。ドラマ本編にもKID FRESINOは一瞬だけ出ていた。)

2021-04-14

大島渚の主要な作品は、今のところそのほとんどをU-NEXTで観られるのだけど、代表作の一つと言えるはずの『絞死刑』がなぜか観られない(DVDソフトは高騰している)。ぼくは『絞死刑』を、高校生の時に「戦メリ」公開記念で行われた大島渚特集上映(確か、巣鴨の三百人ホールというところでやっていた)で一度観ただけなので、なんとかもう一度観られないかと思っていたが、YouTubeにアップされているのを発見した(「Death by Hanging」で検索すれば観られる)。

60年代から70年代頭くらいまでの大島渚は可能性の宝庫というか、決して完成度の高い映画をつくる監督ではないが(安易に「時代にながされちゃってる」表現もみられるが)、そのポテンシャルがとてつもない。というか、映画の面白さと完成度はあまり関係がないということを実例として示している。『絞死刑』には、仲間内の脚本家や評論家が出演していて、見事にたどたどしい素人演技をみせているが、それは、映画には別に名演技などいらないということを実証してもいる。同じ時期に映画をつくっていた独立プロ系の監督のなかではダントツに面白いし興味をひかれる存在だ。では、大島渚が「好き」なのかと言われれば「うーん…」ということになるが。

『絞死刑』は、実際の死刑場の建物を正確に再現したセットで撮影されているが、そのリアルな死刑場は、死刑場であるという意味を保持したまま、同時に抽象化された「ごっこ遊び」の舞台となる。死刑を執行しても死ななかった死刑囚Rは、しかし自分が自分であることを忘れてしまう。彼を再度死刑にするためには、RにRであることを思い出させなければならない。そのために、その場に居合わせた者たちが、彼の犯行や生い立ちなどを演じてみせる。また、RにRの役を演じさせることで、記憶をなくしたRを死刑囚Rに近づけようとする。物語の主人公に観せるために行われる演劇。その「ごっこ遊び」の空間のなかで、死刑場は死刑場であるままに別の時空を表現する媒介となり、人物たちは、現実としての人物像や役割や力関係をある程度保持したままで、虚構の設定のなかでの別の人物、役割、力関係として組み直される。現実と複数の虚構の織り重ねにより、意味や力関係が多重化され錯綜し、都度都度、スイッチが切り替わるように切り替わり(誰の役を誰が演じるのか固定されてなくて、流動的に入れ替わる)、そのような意味や関係の多層化や錯綜のなかで、さらに別の意味や関係が露呈したり、生じたりする。

『絞死刑』は一面で、死刑制度廃止や在日朝鮮人への差別とその貧困、そして犯罪という、明白に政治的で重たい題材を扱う映画であるが、もう一面で、役割、規則、上下関係に縛られる役人たちの姿をおちょくるようなコメディでもある。役割や上下関係に縛られる彼らが、死刑囚に自分の犯行を思い出させるために、現実上の役割や上下関係を逸脱して自分以外の人物や人生を演じるはめになるという逆説。

(最初のうちは、登場人物たちがあまりに「役割通り」の言動しかしないので、戯画的ではあるけどやや平板だと思うのだが、「ごっこ遊び」によってそれが徐々に緩んでいく。)

定年間近の刑務所の教育部長で日本人である渡辺文雄は、貧しい在日朝鮮人であり、犯行当時18歳だったRの役を演じ、彼の想像力のなかでRの欲望をなんとか再現しようと試みる。また、死刑執行現場で二番目に地位が高い刑務所の所長である佐藤慶が、「ごっこ遊び」のなかではR役の部下、渡辺文雄から強姦され殺される女性の役を演じさせわれたりする(一番高い地位にある検事の小松方正は、ほぼ存在するだけで「ごっこ遊び」に参加しないので、常に一番高い地位にある)。Rに理解させるために、またRを巻き込んで、くり返し演じられ演じ直される「ごっこ遊び」のなかで、演じる者は位置を変え、立場や上下関係が何度もシャッフルされる。そのように持続する「ごっこ遊び」により、役割に縛られた役人たちの束縛が少しずつゆるんで、役割の下から別の人間性が顔を出すようになる。その果てに、教育課長という役割上Rと最も近いところにいた渡辺文雄は、Rが女性を殺害する場面に完全にシンクロして、自分が本当に女性を殺してしまって、目の前に殺した女性の死体が見えると言い出すまでになる。

ごっこ遊び」による役割のシャッフルが、十全な相互理解をもたらすことはない。渡辺文雄にしても、熱心に演じるうちにシンクロしてしまったに過ぎず、Rの境遇や感情を我が事のように理解したというわけではないし、彼の言動はすぐに教育課長や「日本人」の立ち位置に戻ってしまう(しかしこのシンクロは、死体の女=小山明子という虚構の存在を実在させるくらいの力があり、それによって「ごっこ遊び」の物語の展開を変えてしまうという影響があった)。「ごっこ遊び」は相互理解のために行われるのではない。「ごっこ遊び」で演じられるRの物語は、その物語に照らされ刺激されることで反応した自らの心の内を浮かび上がらせることを促す。一人の人物の物語は、それを演じた(その場に居合わせた)人物たちの、それぞれ異なる部分を刺激して、それぞれに異なる個別の反応(表現)を引き出す。佐藤慶は、戦争中に敵を銃殺した経験を語り出し、保安課長の足立正生は個人的には死刑廃止論者だと言いだし、医務官の戸浦六宏は死への歪んだ執着を語り、教誨師石堂淑朗は性癖を露わにする。それによって、現実的な役割や上下関係が一時的に緩くなり、別の関係性の可能性が垣間見える。

だが、それはただ「垣間見える」だけで、現実として彼らが縛られている関係性を組み替えるまでには至らない。「ごっこ遊び」に加わらない小松方正は、一番高い位置から動くことはなく、事の次第をただ見ている。彼の言葉により、死刑囚は死刑囚の役割に戻り、死刑は従来通りに執行される。