2021-04-14

大島渚の主要な作品は、今のところそのほとんどをU-NEXTで観られるのだけど、代表作の一つと言えるはずの『絞死刑』がなぜか観られない(DVDソフトは高騰している)。ぼくは『絞死刑』を、高校生の時に「戦メリ」公開記念で行われた大島渚特集上映(確か、巣鴨の三百人ホールというところでやっていた)で一度観ただけなので、なんとかもう一度観られないかと思っていたが、YouTubeにアップされているのを発見した(「Death by Hanging」で検索すれば観られる)。

60年代から70年代頭くらいまでの大島渚は可能性の宝庫というか、決して完成度の高い映画をつくる監督ではないが(安易に「時代にながされちゃってる」表現もみられるが)、そのポテンシャルがとてつもない。というか、映画の面白さと完成度はあまり関係がないということを実例として示している。『絞死刑』には、仲間内の脚本家や評論家が出演していて、見事にたどたどしい素人演技をみせているが、それは、映画には別に名演技などいらないということを実証してもいる。同じ時期に映画をつくっていた独立プロ系の監督のなかではダントツに面白いし興味をひかれる存在だ。では、大島渚が「好き」なのかと言われれば「うーん…」ということになるが。

『絞死刑』は、実際の死刑場の建物を正確に再現したセットで撮影されているが、そのリアルな死刑場は、死刑場であるという意味を保持したまま、同時に抽象化された「ごっこ遊び」の舞台となる。死刑を執行しても死ななかった死刑囚Rは、しかし自分が自分であることを忘れてしまう。彼を再度死刑にするためには、RにRであることを思い出させなければならない。そのために、その場に居合わせた者たちが、彼の犯行や生い立ちなどを演じてみせる。また、RにRの役を演じさせることで、記憶をなくしたRを死刑囚Rに近づけようとする。物語の主人公に観せるために行われる演劇。その「ごっこ遊び」の空間のなかで、死刑場は死刑場であるままに別の時空を表現する媒介となり、人物たちは、現実としての人物像や役割や力関係をある程度保持したままで、虚構の設定のなかでの別の人物、役割、力関係として組み直される。現実と複数の虚構の織り重ねにより、意味や力関係が多重化され錯綜し、都度都度、スイッチが切り替わるように切り替わり(誰の役を誰が演じるのか固定されてなくて、流動的に入れ替わる)、そのような意味や関係の多層化や錯綜のなかで、さらに別の意味や関係が露呈したり、生じたりする。

『絞死刑』は一面で、死刑制度廃止や在日朝鮮人への差別とその貧困、そして犯罪という、明白に政治的で重たい題材を扱う映画であるが、もう一面で、役割、規則、上下関係に縛られる役人たちの姿をおちょくるようなコメディでもある。役割や上下関係に縛られる彼らが、死刑囚に自分の犯行を思い出させるために、現実上の役割や上下関係を逸脱して自分以外の人物や人生を演じるはめになるという逆説。

(最初のうちは、登場人物たちがあまりに「役割通り」の言動しかしないので、戯画的ではあるけどやや平板だと思うのだが、「ごっこ遊び」によってそれが徐々に緩んでいく。)

定年間近の刑務所の教育部長で日本人である渡辺文雄は、貧しい在日朝鮮人であり、犯行当時18歳だったRの役を演じ、彼の想像力のなかでRの欲望をなんとか再現しようと試みる。また、死刑執行現場で二番目に地位が高い刑務所の所長である佐藤慶が、「ごっこ遊び」のなかではR役の部下、渡辺文雄から強姦され殺される女性の役を演じさせわれたりする(一番高い地位にある検事の小松方正は、ほぼ存在するだけで「ごっこ遊び」に参加しないので、常に一番高い地位にある)。Rに理解させるために、またRを巻き込んで、くり返し演じられ演じ直される「ごっこ遊び」のなかで、演じる者は位置を変え、立場や上下関係が何度もシャッフルされる。そのように持続する「ごっこ遊び」により、役割に縛られた役人たちの束縛が少しずつゆるんで、役割の下から別の人間性が顔を出すようになる。その果てに、教育課長という役割上Rと最も近いところにいた渡辺文雄は、Rが女性を殺害する場面に完全にシンクロして、自分が本当に女性を殺してしまって、目の前に殺した女性の死体が見えると言い出すまでになる。

ごっこ遊び」による役割のシャッフルが、十全な相互理解をもたらすことはない。渡辺文雄にしても、熱心に演じるうちにシンクロしてしまったに過ぎず、Rの境遇や感情を我が事のように理解したというわけではないし、彼の言動はすぐに教育課長や「日本人」の立ち位置に戻ってしまう(しかしこのシンクロは、死体の女=小山明子という虚構の存在を実在させるくらいの力があり、それによって「ごっこ遊び」の物語の展開を変えてしまうという影響があった)。「ごっこ遊び」は相互理解のために行われるのではない。「ごっこ遊び」で演じられるRの物語は、その物語に照らされ刺激されることで反応した自らの心の内を浮かび上がらせることを促す。一人の人物の物語は、それを演じた(その場に居合わせた)人物たちの、それぞれ異なる部分を刺激して、それぞれに異なる個別の反応(表現)を引き出す。佐藤慶は、戦争中に敵を銃殺した経験を語り出し、保安課長の足立正生は個人的には死刑廃止論者だと言いだし、医務官の戸浦六宏は死への歪んだ執着を語り、教誨師石堂淑朗は性癖を露わにする。それによって、現実的な役割や上下関係が一時的に緩くなり、別の関係性の可能性が垣間見える。

だが、それはただ「垣間見える」だけで、現実として彼らが縛られている関係性を組み替えるまでには至らない。「ごっこ遊び」に加わらない小松方正は、一番高い位置から動くことはなく、事の次第をただ見ている。彼の言葉により、死刑囚は死刑囚の役割に戻り、死刑は従来通りに執行される。