2021-08-25

坂元裕二脚本の『スイッチ』をU-NEXTで観た。松たか子のキャラはとても面白いし、松たか子阿部サダヲの関係のありかたも面白いと思ったのだが、二人がそのようにある理由というか原因の説明が、強引過ぎる上にあまり面白いとも思えないもので、これだったら、別に理由などなく、松たか子はもともとそういう人で、阿部サダヲとの因縁もなんとなく匂わせる程度---過去に付き合っている時にいろいろあったというだけ---でもよかったのではないかと思ってしまった。

細かい技法が(ちょっとやり過ぎくらいに)満載なドラマが、二人の回想場面になったとたんに、すーっと面白みが低下するので、えーっと逆に驚いてしまった。

松たか子のような、一途であるが故に職場でパワハラとかしてしまいそうなキャラの横に、岸井ゆきののような、天然で鈍そうにみえるが実は強靱でしたたか、みたいなキャラを配置する、この配置の妙。そういうところはとても面白い。

2021-08-24

●「やまと尼寺 精進日記」に出てくる観音寺は、ふもとの里から山道を40分登っていったところにある。檀家をもたず、墓地もないようなので---いわゆる「葬式仏教」の寺ではないようなので---寺の運営は、基本的に「信者さん(という言い方を寺の人たちはする)」たちによる寄付に依っているのではないかと思われる。人里から離れた場所にある尼寺というのだから、ある意味でアジール的な機能をもつものなのだろうが、しばしば里から人が登ってくるし、寺の人もしばしば里へ降りていっていて、行き来はそれなりに活発にみえる。

(宿坊のようなものがあって観光客も受け入れているらしく、撮影スタッフはそこに滞在しているようだ。)

一番近い感じなのは、ふもとの里の潤子さんという女性で、彼女は、かなり頻繁に自分の畑や山で採れた野菜や山菜などを持って寺に登っていくようだし、寺の人も作物をもらいに頻繁に降りていく。そして、潤子さんのところの作物は、寺の人たちによって調理され、寺の人たちと潤子さんとの会食に供される(この会食は、潤子さんが登って寺でも行われるし、寺の人たちが降りて里でも行われる)。この人は、信者さんというより仲の良いご近所さんという感じで、ただ、近所といっても40分の山道に隔てられている。

(おそらく60歳代くらいの住職、おそらく30歳代くらいの副住職、副住職と年齢は近い感じだがやや若い、僧侶ではなく「手伝い」として寺に住み込んでいる女性、そして、おそらく60歳代くらいのふもとの里に住む女性、という、年齢も地位も出自も各々の事情も、かなり隔たっているように見える女性たちのフラットな「仲良し感」はとてもユートピア的なものにみえる。)

(僧侶になる前に、大学生の頃から頻繁にこの寺へ通っていたという副住職は、若い時からそれなりに「俗世」の生きづらさを感じていたのだろうし、わざわざ山奥の尼寺で---僧侶としてではなく---住み込みの手伝いとして働こうとする人にもまた、なにかしらの事情があるのではないかと邪推してしまうのだが、しかし少なくとも画面の映る彼女たちは驚くほど屈託なくみえて、「事情(を匂わす陰影)」など感じさせない。)

それほど頻繁に行き来があるのではないとしても、恒常的に寺のことを気にかけていて「男手」となっている人が数人いる感じなのと、年に数度とか、一度とか、特定の行事や用事の時に定期的に寺へ登って手伝いをする決まった人たちがいるようだ。

副住職はしばしば軽トラに乗って里へ降りていき、里と寺とのコミュニケーション係のような存在になっている。住職のツテ(カオ)で、里にあるいくつもの旧家にさまざまな季節の作物をその都度もらいに行くのだが、(画面上では明示されないが)これはお布施を集めているということでもあるだろう。住職は華道の先生でもあって、かつては熱心な「信者さん」だったが、年齢のために寺へ登るのが困難になった人たちのために、里で生け花の教室を開いている。

生け花教室の生徒たちは、まだ30歳代で若かった住職が荒れた寺に一人でやってきた頃から知っており、家族ぐるみで(たとえば里と行き来するための山道=参道の整備をするなど)住職や寺を支えてきた人たちのようだ。生徒たちは山へ登れなくなっても寺のことを気にかけていて、生け花教室に集まってくる。

住職も副住職も、お経を上げたり儀式をしたりする時以外はまったく「お坊さん」っぽくなくて、(少なくとも画面の映っている範囲では)、ありがたげなことや説教くさいことは一切言わず、まったくフラットに「信者さん」たちと交流している。これは、普通の近所づきあい以上に、年齢や立場による上下感のまったくない、ほんとうにフラットな関係にみえる。

(信者さんたちの間でも、その信者歴の長短や、寺への貢献度の大小などによる上下関係が---あくまで「画面で観る限り」でだが---ないように感じられる。)

とはいえ、「信者さん」たちは、住職や副住職の向こう側に「観音様」をみているわけだし、寺の人々はその観音様を仕える人であるからこそ、彼女たちの生活を(ある人は多く、ある人は僅かに、それぞれに異なるやり方で)支えているのだろう。そのような形で観音様(という概念)は寺の人たちを(「俗世のまっただ中」から)救っているのだし、「信者さん」たちには、寺の人たちの生活を支えることを通じて観音様(崇高性・永続性)に触れているという感覚を得ることができているのだろう。観音様という崇高な(脱・俗的な)概念を媒介とすることによって成立している互恵関係のようにみえる。

(そのような互恵関係の成立が、彼女たちをフラットにしているのかもしれない。)

この番組を観ていると、寺と、それを支える人々の関係が、アイドル(それほど規模の大きくない、いわゆる地下アイドル)と、推しを支えるオタクの関係に近いように感じられてくるのだった。オタクは、さまざまに異なる形で「尊さ」に仕えている「推し」のおかげで、自分も「推しを推す」という間接的な形で「尊い」行為を行うことが可能になっている。アイドルは、オタクに推されることによって、「尊さ」に仕えるための生活(経済)が成り立つ。そこには、資本主義的な経済とはやや違った交換が成立しているのではないか、と。

2021-08-23

●すぐ裏で建物の解体作業をしていて、一日中、騒音と、軽めの地震がつづいているくらいの振動がある。作業は朝八時からはじまる。昼夜逆転している生活なので、朝八時といったら、まだ寝てから二、三時間くらいしか経っていないが、起こされることになる。耳栓をしても振動があるから意味が無い。これがいつまでつづくのか。ただ、午後五時をすぎると作業はピタッととまる。大きな騒音と振動を伴う作業なので、そこらへんは厳しく規制されているのだろう。こんなに暑い時期に作業する人は大変だとも思うが、必ず定時ぴったりで終わる職場というのは、けっこういい仕事なのではないかとも思う。

2021-08-22

●昨日の日記に書いたこととも関係するが、西川アサキさんの「分散化ソクラテス」という問題意識はとても重要なことだと思う。政治的な言説に対する根本的な不信は、その多くが意図的にバイアスがかけられたポジショントークでしかないというところからくる。

https://spotlight.soy/bLb7kPck9DE9BZFy

《結局の所、ソクラテスの問答法で達成されるのは、バイアスの解除だ。バイアスの解除、つまり「自分の共同体や伝統・利益・価値・立場からくるおかしな推論をやめること」を続ける態度を「普遍的立場」と呼んでおこう。

普遍的立場の反対が、ポジショントークフェイクニュースといった現在ネット上を埋め尽くす勢いの意見だ。それらは、知ってか知らずか、自分の利益を守るもしくは権力を拡大するために、バイアスをできるだけ拡散し強化しようとする活動で、ちょうど問答法によるバイアス解除と逆となる。》

ポジショントークにせよ、フェイクニュースにせよ、あからさまに事実に反することが書いてあれば、ファクトチェックで原理的には回避できる。だから、ファクトチェックをうまく自動化する仕組みを作ればいいようにみえる。そして、フェイクレベルやポジション偏向のレベルをサイトやツィートに常に表示するUIをプラットフォームが用意する。実際すでにそうした仕組みは存在するし、今後も発展し続けるはずだ。

だが、この仕組には二つ問題がある。一つは、ポジショントークフェイクニュースは、「虚偽とは限らない」ということだ。むしろ手の混んだポジショントークでは、事実に反することをそのまま書くことは少ない。

解釈の割れそうな事柄に対し自分の支持する立場の扱いを大きくする、反対の立場を意図的に消去する、反対の立場を述べた後突如自説に対するポジティブな意見をつけて終わる、など読み手の印象を操作するレトリカルな操作を行う方法は様々だ。》

ポジショントークに対し、ファクトチェックだけで挑もうとすると、レトリカル操作だけ行っているタイプの記事に対し何もできなくなって行き詰まる。間違ったことを書いているわけではなく、誰もがやるように自説を優位に導いている文章に対し、警告を発するのは、それこそ言論の自由に反すると言われかねない。

しかし、ファクトチェックの挫折は「結局どの意見もポジショントーク」という価値観を導きかねない。どんなひどい説でも誰かはひっかかる。だから、なんでも言っておいた方がいい、もしくは事実や真実はどうでもよく、そもそも論証や証明なんていう手続き自体が詐欺だという反知性主義にまで至りうる。》

《ちなみに、ほぼ今書いたとおりのことが『我が闘争』に書いてある。ヒトラー自身の主張では、彼をそうした態度に駆り立てた背景には、自らが参戦した第一次世界大戦で、後方の政治家たちが議論と駆け引きに明け暮れ、前線の無駄な犠牲を強いたことへの義憤がある。》

《また似たような事例として、コロナウィルスのワクチンに対するものがある。極端な例では「ビル・ゲイツが人体を遠隔操作するウィルスを散布するために作った」というような多数のフェイクニュースがある。様々なバイアスやフェイクニュースに対し、それが科学的に根拠のないものだ、という解説はできる。ただ、その解説自体が陰謀だ、という反論には効果がない。

これが、もう一つのフェイクニュース対策の課題、「レフリー(中立者)の信頼不能性」とでもいうべきものだ。

つまり、ある特定プラットフォームによるバイアス解除は、たとえ主催者の意図が完全な善意で事実に即していたとしても、(他人から見れば)検証行為それ自体が「プラットフォーム運営者のポジショントーク」である可能性を原理的に消せない。》

《問題となっているのは「実際に嘘をつくこと」ではなく「原理的に嘘をつくことができること」で、陰謀論者の攻撃はそこをつく。コロナのワクチンがDNAを意図的に改変するという主張に対し、その可能性は極めて少ない、といくら大手メディアが報道しても無駄だ。なぜなら、その報道が、「フェイクでありうる、特定の少数者が操作可能な情報でること」自体は事実だからだ。陰謀論者が涼しい顔で「自分は陰謀論者だと思われているし、大手メディアの意見全てと矛盾している」と認めた上で、自説を延々と反復できるのはそのせいだ。》

《ゆえに、レトリック検証という作業は、原理的に分散組織でしか実行できない。なぜなら、前回触れた「レフリーの信頼不能性」を克服することが中央集権的組織ではできないからだ。換言すれば、「「特定の誰かの意思によって変更できないこと」が知られていること」を、そもそも必要としている。

これは、最初期のブロックチェーンであるビットコインが、「金融政策方針を誰か(恣意的に・善意で)が決める」ということに対し、「そのようなことができない仕組み」として提案された時に、すでに潜在的していた「分散組織にしかできないこと」の本質だ。

レトリック検証の場合、分散化による正当性保証の対象が「通貨発行量の適切さ」から「情報にかかったバイアスの無さ」まで抽象化している。が、「ある特定の権威に委託することが、そもそも原理的に正当と言えそうにない」ことがらの範囲が新たに発見されていっているだけだとも言える。

後で触れるように、分散組織は人工物でありながら、一種の新しい「自然」として振る舞うことができる。》

2021-08-21

●お知らせ。VECTIONによる「苦痛トークン」についてのエッセイの第三回めをアップしました。苦痛トークンというアイデアの元にある思想「PS3(Pain, Scalability, Sustainability, Security)」には、他者への共感と関心が含まれているという話です。。
苦痛のトレーサビリティで組織を改善する 3: 他者への共感・関心を内包するPS3
https://spotlight.soy/detail?article_id=khrvgx76t
Empathy and Concern for Others in the PS3 / Implementing Pain Tracing Blockchain into Organizations (3)
https://vection.medium.com/empathy-and-concern-for-others-in-the-ps3-c52ac91bd934

●あるニュースなり記事なりを読むとする。一読して得られる、感想なり、感情なり、その出来事に対する自分の立ち位置なりが浮かぶ。そしてそれが、自分のこころに少なくない波を立てるものだとしたら、その出来事についてもう少し詳しく追っていこうとする。そうして調べていくと、ほとんどの場合で、最初に自分が感じたこと(感情や態度)がまったく適当ではなかったと思うか、そうでなくても、その感情や思考はあまりに一方的過ぎて、大きな修正が必要だと思うようになってくる。たいていのものごとはすごく複雑で、第一印象(直観)の多くは間違っている(見えてくるものの解像度が上がるほど、簡単に否定も肯定もできないと分かってくる)。こういうことを繰り返し経験すると、なにごとに対しても(いろいろ考えた末に自分なりの結論が出ていると思えることにかんしても)態度を「強く」表明することを躊躇するようになる。そして、(思想的な傾向性とは関係なく)ものごとをきっぱりと断定する人を胡散臭く感じるようになる。その強い言い切りにいったいどの程度の根拠があるというのか、と。

(たとえば、ぼくが何かに反対したり賛成したりする判断は、たんにぼくが持ち得る「情報の偏り」によって生じているのではないかという疑いが常にある。)

そうではあっても、生きている限り、何かを選択したり決断しないわけにはいかない(つまり、何かを排除したり、何かに反対したりしないわけにはいかない)。「許し難い」と感じることがないわけはない。だから、おずおずと何かを提案し、おずおずと何かを批判するのだが、でもそれは結局、それほど大したことのない自分の頭で考えた(というか、選択した)ことに過ぎず、考慮すべき点が抜け落ちていたり、論理的な誤謬があったり、さまざまなバイアスがかかっていたりするのだろうという疑いがありまくっているものでしかない。あらゆることは暫定的な解でしかないのだから、できるだけさまざまな考えを検討し、都度都度、状況(現実)と照らし合わせて、大きくズレがでてはいないか確認しながら、おそるおそる考えを進めるしかない。明らかに間違っていると思われるようなことに対しても、自分は決してそっちには行かないとか、友達がそっちに行こうとしていたら全力で止める、という形での否定しかできない。

2021-08-20

●(昨日からつづく)『流れよわが涙、と警官は言った』で、アリスはある意味でキャシイの投影像のようなものであり、キャシイはアリスの「内容」であるとも言えると思う。ディックは、アリスの混乱を具体的に描くかわりにキャシイという人物を造形したように読める。そして、ルースが語る「愛」を実践し、「嘆く」という《もっとも強烈な感情》を経験するのが、アリスの兄フェリックスだろう。

キャシイが、夫の死を認めないということは、ルースの語る「嘆く」こと「悲しむ」ことを通じて実践される「愛」を拒否するということだ。だからキャシイは、「有名人と寝てもそれを受け入れる夫」を存在させるためにこそ、「有名人(に見立てられた男)」と寝る必要があるのではないか。夫より魅力的な有名人と寝てもなお、愛の対象として選択する宛先として夫が優先されるのだという心の動きが、「夫」への愛(の意識)を活性化し、それが(決して現前することのない)夫の存在感を高めるというメカニズムが機能しているのではないか。存在しない夫を存在させるために、有名人ではない人物を有名人化する。

そして、彼女の影であるアリスはその逆で、有名人であるジェイスンの「名」を(その存在の痕跡もろとも)消滅させ、はじめから存在していないはずの者とする。「名」を剥奪された有名人であるジェイスンが、兄フェリックスにとって重要な関心の対象(捜査の対象)となった時、兄からそれを奪うことが、兄への加虐的な愛の行為となるのではないか。だがこの兄への愛の加虐は、自分自身の身体(脳)への過剰な加虐を通してのみ可能であり、それは自らの死を招くことになる。ここで、キャシイの影であるアリスは、死によってキャシイの前から立ち去っていった夫(ジャック)への復讐を、キャシイに変わって(アリスにとっての愛の対象である)フェリックスの前から自分が消えることによって、果たそうとしているとは言えないだろうか。

(だとすれば、キャシイはアリスを通じて、ジャックの死を受け入れるということになるのか…。)

それによって、キャシイとアリスとが共に拒否した、「嘆く」こと「悲しむ」こととしての「愛」を、兄のフェリックスが味わうことになる。

(この小説にはもう一人、メリー・アン・ドミニクという重要な女性が登場する。彼女は、自分が良いクリエイターだということを自分で知っており、自足していて、それにおいて他者の評価を必要としていない。そして、彼女ただ一人だけが「愛」を必要としていない。あるいは、彼女自身が(たった一人で充分に)「愛」そのものである。これは「嘆き」としての愛とは異なり、彼女の存在はルース的な「愛」を相対化する。)

●以下、ルースが「愛」について語った部分を引用する。

《「じゃあなぜ愛はすばらしいのかね? 」ジェイスンは成人してこのかたの長い月日、このことを自分自身に関連してあるいはそれを離れてずっと考えてきた。いまもそれを身にしみて考えさせられていた。(…)「だれかを愛し、やがて彼らは去る。ある日家に帰ってきて、身のまわりのものを荷づくりしはじめる。そこできみはきく。“いったいどうしたの? ”って。彼らは“ほかにもっといい話があるんでね”そう言ってきみの生活から永遠にさようならだ。それからあと死ぬまできみは与える者はだれもいないその大きな愛情という塊を抱えてまわるのさ(…)」》

《「愛というのはね、店で見かけた品物を自分のものにしたいと思うように、別の人間をやたら欲しがるのとはちがうわ。それだったら欲望にすぎないもの。それをあんたは、身のまわりに置いていたい、家に持ち帰ってランプみたいにアパートのどこかにすえておきたい。そう思ってるのよ。愛というのは---」ルースはなにかを思い起こすふうに口ごもった---「燃えている家の中からわが子を救いだそうとする父親、子供たちを無事連れ出して自分は死んでしまう父親みたいなものよ。愛しているときはもう自分自身のために生きているんじゃないの、別の人間のために生きているのよ」

「それがすばらしいことかね? 」ジェイスンにはさほどすばらしいこととは思えなかった。

「愛は本能に打ち克つのよ。本能はわたしたちを生存競争に押し込んでしまう(…)」》

《「だがね、自己保存の本能に逆らうことがなぜいいことなんだい? 」

「わたしには説明できないと思ってるのね」

「ああ」

「自己保存本能は最後には負けるのよ。あらゆる生き物について言えることよ、モグラ、コウモリ、人間、カエルもね。(…)結局あんたの努力は失敗に終わり、死に屈服させられて、それで終わりよ。でももし愛があればあんたは消え去っても見守ることが---」

「おれは消え去るのはいやだよ」

「---消え去って、幸福感を抱きながら見守ることができるのよ。(…)あんたの愛する者の生きつづける姿を見守ることができるの」

「でも彼らだって死ぬんだ」》

《「でもその死を嘆くことができるのよ」ルースは不安そうにジェイスンの顔をうかがいながら言った。「ジェイスン! 嘆くのは人間、子供、動物が感じることのできるもっとも強烈な感情なのよ。それはすばらしい感情だわ」

「いったいどうすばらしいんだ? 」ジェイスンは声を荒らげて言った。

「悲しみは自分自身を解き放つことができるの。自分の窮屈な皮膚の外に踏み出すのよ。愛していなければ悲しみを感じることはできないわ---悲しみは愛の終局よ、失われた愛だものね。あんたはわかってるのよ、わかってると思うわ。でもあんたはそのことを考えたくないだけなの。それで愛のサイクルが完結するのよ。愛して、失って、悲しみを味わって、去って、そしてまた愛するの。ジェイスン、悲しみとはあんたがひとりきりでいなければならないと身をもって知ることよ。そしてひとりきりでいることは、生きているものそれぞれの最終的な運命だから、その先にはなにもないってことなの。死というのはそういうことなの、大いなる寂寥ってことよ。》

《「(…)でも悲しむというのは、死んでいると同時に生きていることなのよ。だからわたしたちの味わうことのできるもっとも完璧で圧倒的な体験なの。でもときどきね、わたしたちはそんなことに耐えられるようには作られていないのにと、悪態をつくことがあるわ。あんまりだって---そんな波やうねりを受ければ人間の体なんてガタガタになってしまうもの。それでもわたしは悲しみを味わいたいのよ。涙を流したいの」

「なぜだい? 」ジェイスンにはその気持ちははかりかねた。彼からすればそれは避けるべきことだった。そんなものは味わうにしても、さっさとすませてしまうことだ。

「悲しみはあんたと失ったものをもう一度結びつけるの。同化するのよ。離れ去ろうとする愛するものや人とともに行くのね。なんらかの方法で自分自身を分裂させて、その相手と同行して、その旅の道連れなにる。行けるところまでついていくの。(…)」》

《「でも結局」ルースは咳ばらいをして言った。「悲しみは消え去って、この世界でもう一度うまく折りあっていくのよ。ハンクがいなくてもね」

「で、きみはそれを受けとめられるんだね」「ほかにどうしようがあるの? 泣いて、泣きつづけるのよ、ハンクといっしょに行ったところから完全に戻ってこられなくてね---鼓動して血液を送り出している心臓からちぎり取られた破片がまだそこにあるの。心臓のかけら。癒えることのない傷口。そしてもし、一生のうちに何度も何度もそういうことが起きれば、心臓はたまらなくなってついには逃げ出すわ。するともう悲しみを感じることができなくなる。そして自分自身もいつ死んでもいいと思うようになるの。あの傾斜した梯子を登り、そしてだれか別の人が残ってあなたのことを思って悲しむのよ」》

2021-08-19

●ディックの『流れよわが涙、と警官は言った』を久しぶりに読み直した。この小説は、前半では、遺伝子操作によってスペックが強化された(過剰な性的魅力をもつ)人気番組の司会者であり歌手であるジェイスン・タヴァナーが、自分という存在の痕跡の一切が消えてしまった世界で、何人かの女性との関係によってサヴァイブしていく展開が描かれ、それが後半になるにつれて、警察組織のなかで非常に高い地位にあるフェリックス・バックマンと、その双子の妹であるアリス・バックマンとの近親愛的な関係が前面に出てくる。そもそも、この小説の世界を歪ませている(ジェイスンの存在をないもとにしている)原因はアリスにあり、この小説の世界そのものが「アリスの世界」だと言ってもいいものだ。しかし、今回読み直して、このアリスの存在が意外にもあまり強くないという感じがした。兄の職場(警察署! )に入り浸り、普段からボンテージファッションで、性的な対象は兄だけだと言いつつ同性愛者でもあり、ドラッグを常用し、兄のフェリックスは「彼女にはルールがない」と評するし、兄との間に子供までいる。外からみると確かに強烈なキャラなのだが、彼女のもつ狂気の固有性はそこまで詳細には描かれない。彼女がなぜジェイスンという存在に固執しているのか(ここはすごく重要だと思うのだが)もよくわからない。

たとえば、ジェイスンが「自分のいない世界」で最初に出会う女性であるキャシイ・ネルソンの狂気と混乱、次に利用しようとした女性ルース・レイの語る「愛」についての独自の考えなどは、圧倒されるような強い印象と内的充実があると感じるのだが、それに比べて、アリスには「出オチ」的な強さしかないように感じられる。あるいは、兄のフェリックスは、警察官らしくない趣味と教養をもち、反体制的な学生や思想犯などを強く弾圧している現状を変えようと努力していて、そのためには警察内で高い地位が必要で、だが権力闘争にあたって妹との関係という大きなネックをもっていて、だから、アリスの死後すぐに悲しむ余裕もなくタヴァナーを陥れることを考えなくてはならないというように、複雑で厚みのある人物像として描かれるが、それに比べて、妹アリスは紋切り型の「ヤバい奴」に収まってしまっているように感じられる。

とはいえ、小説の「構成」としては、アリスの狂気はキャシイの狂気として表現され、アリスのジェイスンへの執着も、キャシイによるジャック(夫)への依存として表現されているとも言える。さらに、ルースが語る「愛」を体現(実践)するものとして、フェリックスによるアリスへの愛があるとも言える。小説に説得力を与える具体性を担当するのがジェイスンと女性たちのパートで、そしてその具体性を受肉し、感情として発現させ、表現しているのがフェリックスという人物だ、と言えるのかもしれない。故に、フェリックスの愛の対象であるアリスは、イメージとして派手ではあるが、存在としてはやや抽象的なものとなっているのかもしれない。

今回読んで最もおもしろく、かつ圧倒されたのは、キャシイという人物とその狂気だった。キャシイはまったく混乱していて、その混乱によってジェイスンを支配する(アリスはキャラとして強烈だが、キャシイは決してキャラとして像を結ばないことによって強い存在感を示す)。混乱によって(結果として)男性を支配する女性という像は、ディックの小説に多く登場するが、そのなかでもキャシイは混乱の度合いと充実度が特にすごい。

また、存在しないのに(キャシイにとっては)「存在する者」として機能するジャックという人物と、存在しているのに(アリスによって)存在しないことになってしまっているジェイスンは、そのありようとして反転的対称性があると言える。またキャシイは、有名人ではない人物を有名人と思いこんで、その相手と寝るのだが、実際に有名人であるジェイスンを有名人とは思えない(有名人ではない相手として寝ようとする)。

●以下、引用。引用する場面では、キャシイがジェイスンに向かってしゃべっている。キャシイの混乱のこの複雑さ!

( 「ジャック」はキャシイの夫で、キャシイは彼が強制労働収容所にいると信じて、彼の釈放のために警察への密告者となっている。しかし、キャシイの密告を受ける警察官マクナルティは、ジャックは強制労働収容所にいるのではなく、事故で亡くなったのだと言う。)

《「あなたはジャックより魅力的よ。ジャックにも魅力があるけど、あなたはもっと、もっと魅力があるわ。あなたに会ってからは、もう二度とジャックを本気で愛せなくなったのじゃないかしら。それとも、人間はふたりの相手を平等に、でもちがった愛し方で愛することができると、思ってるの? わたしの治療グループは、だめだ、どちらかを選ばなくてはいけない、そう言うの。それが人生の基本的な一面だと言うのよ。前にもあったことなの。ジャックより魅力のある男性には何人か出会ったの……(…)もしあなたのような人のほうがジャックより好きだとしたら、そのときはわたしはその気持ちを行動に移すほかないの、わたしたちの治療グループのように、わたしが八週間精神病院に入ってたのは知ってる? アサトンにあるモーニングサイド精神衛生院。(…)友だちもうんとできたわ、わたしほんとうによく知っている人というのは、モーニングサイドで知り合った人がほとんどなの。もちろん、あのころ初めてあの人たちに会ったときには、みんなのことをミッキー・クインとかアーリーン・ハウのような有名人だという、妄想にかられたんだけど。(…)」》

《「たぶんあなたも有名人じゃないのね。わたし、あの妄想を抱いたころに逆戻りしたのかもしれないわ。いつか逆戻りするだろうって言われたけど。遅かれ早かれね。(…)」》

《「それじゃわたしはきみの幻影のひとつになってしまうよ。もっとしっかりしてくれよ。生きてる気がしない」

キャシイは笑いだした。しかし憂鬱な気分は変わらなかった。「あなたがいま言ったように、もしわたしがあなたを作り上げたとしたら変じゃない? もしわたしが完全に回復したら、あなたは消えてしまうの? 」》

《「(…)わたしはあなたのように有名でもなければ力もないのよ。ジャックをほかのだれよりも愛しているからといって、そのために他人を投獄するような恐ろしい、おぞましい仕事をしている人間にすぎないのよ。ねえ、聞いて」しっかりした、きびきびした口調になっていた。「わたしを正気に引き戻したのは、わたしがミッキー・クインよりもジャックを愛していた、ただそのことだけだったの。ねえ、このデイヴィッドという男性は本当はミッキー・クインなのだ、そうわたしは思ったの。そしてね、ミッキー・クインは気がおかしくなって、健康を取り戻すためにこの病院に来てるけど、それは重大な秘密になっていて、彼のイメージを台なしにしてしまうからだれも知らされていないんだって。(…)スコット先生は、ジャックかデイヴィッドのどちらかを選ばなくちゃいけないと言ったの。というより、ジャックかミッキー・クインとわたしが思っている男と言ったほうがいいかな。わたしはジャックを選んだの。そしてわたしは退院したのよ。たぶん」》

《「あなたもかなりわかってきたわね? わたしとジャックのこと、なぜジャックを裏切らずにあなたと寝られるかってこともね? モーニングサイドではデイヴィッドと寝たけど、ジャックはわかってくれたわ。わたしがそうせざるを得なかったのを知っていたのよ。あなたはわかってくれたかしら? 」

「もしきみが精神異常だったとすれば---」

「ちがうわ、そのせいじゃないの。ミッキー・クインと寝るのはわたしの宿命だったのよ。当然のことだったの。わたしは自分の全宇宙的な役割を成就しようとしたのよ。わかるかしら? 」》

《「ジャックはわかってたわ。とにかくわかったと言ったわ。彼、嘘をついたのかしら? わたしを失いたくないから? 彼とミッキー・クインのどっちかを選べということになったら」---キャシイは一息ついた---「わたしはジャックを選んだわ。いつだってそうするわ。それでもわたしはデイヴィッドと寝なくちゃいけないの。ミッキー・クインという意味よ」》

《「ジャックのことをしゃべったんだな」マクナルティはジェイスンに向かって言った。「ジャックはいない。彼女はジャックがいると思っているがね、それは精神異常からくる妄想だ。この女の亭主は飛行艇の事故で三年前に死んでいる。彼は強制労働収容所になど入ったことはない」

「ジャックは生きているわ」とキャシイは言った。

「わかったかね? 」マクナルティはジェイスンに言った。「彼女はかなりうまく世間に順応しているが、この固定観念だけは別だ。これは消えないんだな。生活のバランスを保つためにずっと手放さないだろう。」マクナルティは肩をすくめた。》

(存在しないのに存在するジャック、本当はミッキー・クインであるデイヴィッド、有名人のミッキー・クインよりジャックを愛していたから正気に戻れた、しかし、ジャックを選んだにもかかわらず、ミッキー・クインであるデイヴィッドと寝ることは避けられない、同様に、ジャックを愛しているにもかかわらず、ジャックを裏切らずにジェイスンと寝なければならない、そして、ジェイスンは有名人なのに無名だし、存在するのに存在しない…。これだけ密度ある混乱を描き出せるディックはすごい。)