2021-08-24

●「やまと尼寺 精進日記」に出てくる観音寺は、ふもとの里から山道を40分登っていったところにある。檀家をもたず、墓地もないようなので---いわゆる「葬式仏教」の寺ではないようなので---寺の運営は、基本的に「信者さん(という言い方を寺の人たちはする)」たちによる寄付に依っているのではないかと思われる。人里から離れた場所にある尼寺というのだから、ある意味でアジール的な機能をもつものなのだろうが、しばしば里から人が登ってくるし、寺の人もしばしば里へ降りていっていて、行き来はそれなりに活発にみえる。

(宿坊のようなものがあって観光客も受け入れているらしく、撮影スタッフはそこに滞在しているようだ。)

一番近い感じなのは、ふもとの里の潤子さんという女性で、彼女は、かなり頻繁に自分の畑や山で採れた野菜や山菜などを持って寺に登っていくようだし、寺の人も作物をもらいに頻繁に降りていく。そして、潤子さんのところの作物は、寺の人たちによって調理され、寺の人たちと潤子さんとの会食に供される(この会食は、潤子さんが登って寺でも行われるし、寺の人たちが降りて里でも行われる)。この人は、信者さんというより仲の良いご近所さんという感じで、ただ、近所といっても40分の山道に隔てられている。

(おそらく60歳代くらいの住職、おそらく30歳代くらいの副住職、副住職と年齢は近い感じだがやや若い、僧侶ではなく「手伝い」として寺に住み込んでいる女性、そして、おそらく60歳代くらいのふもとの里に住む女性、という、年齢も地位も出自も各々の事情も、かなり隔たっているように見える女性たちのフラットな「仲良し感」はとてもユートピア的なものにみえる。)

(僧侶になる前に、大学生の頃から頻繁にこの寺へ通っていたという副住職は、若い時からそれなりに「俗世」の生きづらさを感じていたのだろうし、わざわざ山奥の尼寺で---僧侶としてではなく---住み込みの手伝いとして働こうとする人にもまた、なにかしらの事情があるのではないかと邪推してしまうのだが、しかし少なくとも画面の映る彼女たちは驚くほど屈託なくみえて、「事情(を匂わす陰影)」など感じさせない。)

それほど頻繁に行き来があるのではないとしても、恒常的に寺のことを気にかけていて「男手」となっている人が数人いる感じなのと、年に数度とか、一度とか、特定の行事や用事の時に定期的に寺へ登って手伝いをする決まった人たちがいるようだ。

副住職はしばしば軽トラに乗って里へ降りていき、里と寺とのコミュニケーション係のような存在になっている。住職のツテ(カオ)で、里にあるいくつもの旧家にさまざまな季節の作物をその都度もらいに行くのだが、(画面上では明示されないが)これはお布施を集めているということでもあるだろう。住職は華道の先生でもあって、かつては熱心な「信者さん」だったが、年齢のために寺へ登るのが困難になった人たちのために、里で生け花の教室を開いている。

生け花教室の生徒たちは、まだ30歳代で若かった住職が荒れた寺に一人でやってきた頃から知っており、家族ぐるみで(たとえば里と行き来するための山道=参道の整備をするなど)住職や寺を支えてきた人たちのようだ。生徒たちは山へ登れなくなっても寺のことを気にかけていて、生け花教室に集まってくる。

住職も副住職も、お経を上げたり儀式をしたりする時以外はまったく「お坊さん」っぽくなくて、(少なくとも画面の映っている範囲では)、ありがたげなことや説教くさいことは一切言わず、まったくフラットに「信者さん」たちと交流している。これは、普通の近所づきあい以上に、年齢や立場による上下感のまったくない、ほんとうにフラットな関係にみえる。

(信者さんたちの間でも、その信者歴の長短や、寺への貢献度の大小などによる上下関係が---あくまで「画面で観る限り」でだが---ないように感じられる。)

とはいえ、「信者さん」たちは、住職や副住職の向こう側に「観音様」をみているわけだし、寺の人々はその観音様を仕える人であるからこそ、彼女たちの生活を(ある人は多く、ある人は僅かに、それぞれに異なるやり方で)支えているのだろう。そのような形で観音様(という概念)は寺の人たちを(「俗世のまっただ中」から)救っているのだし、「信者さん」たちには、寺の人たちの生活を支えることを通じて観音様(崇高性・永続性)に触れているという感覚を得ることができているのだろう。観音様という崇高な(脱・俗的な)概念を媒介とすることによって成立している互恵関係のようにみえる。

(そのような互恵関係の成立が、彼女たちをフラットにしているのかもしれない。)

この番組を観ていると、寺と、それを支える人々の関係が、アイドル(それほど規模の大きくない、いわゆる地下アイドル)と、推しを支えるオタクの関係に近いように感じられてくるのだった。オタクは、さまざまに異なる形で「尊さ」に仕えている「推し」のおかげで、自分も「推しを推す」という間接的な形で「尊い」行為を行うことが可能になっている。アイドルは、オタクに推されることによって、「尊さ」に仕えるための生活(経済)が成り立つ。そこには、資本主義的な経済とはやや違った交換が成立しているのではないか、と。