2021-08-27

●『ペドロ・バラモ』の最初の語り手であるフアン・プレシアドは、(異母兄弟であり、小説のラストでペドロ・パラモを殺す人物でもある)ロバ追いのアブンディオによってコマラという土地に招き入れられ、エドゥビヘス・ディアダを紹介される。エドゥビヘスはフアンの母ドロレス・プレシアドの友人であり、フアンは彼女から生まれたかもしれなかったのだ(ペドロ・パラモと母ドロレスとの新婚初夜のベッドで、母と彼女は入れ替わっていた)。そしてエドゥビヘスが消えた後にフアンを迎えるのは、彼の乳母の役割をしていたダミアナ・シスネロスだ。つまり、母の死をきっかけにコマラを訪れたファンを迎えるのは、二人の代理的な母(母となったかもしれない女と乳母)なのだ。

次にフアンが出会うのは、近親愛的関係にある兄と妹で、これらのコマラの住人はすべて幽霊だと考えられる。フアンは、兄が不在の時に妹に誘われて彼女のベッドに入り、それがきっかけであるかのように窒息状態になって死んでしまう。そして、気がつくとドロテアという女性とともに棺桶のなかにいる。

ドロテアは、実際には存在しない自分の子供を存在すると思い込んでいたが、天国で天使に腹のなかに手を突っ込まれ、彼女の子宮はなにも産み出さないことを示唆される。つまりフアンは、二人の代理的母に次いで、母になりたいが母となり得ない女性と出会う。

ここでフアンが幽閉される棺桶は、いわば何者もはらむことのないドロテアの空虚な子宮であるとも言えて、死ぬことによってフアンは、ドロテアの「存在しないはずの子供」として、虚の存在として生まれ(死に)変わる。コマラを捨てたドロレスの息子であるフアンは、ドロテアの子供としてその子宮にはらまれることで、改めてコマラという土地に結びつけられる(土地に縛られる)と言えるだろう。生前のドロテアは生きた子供をはらむことができないが、生の世界から反転した死後のドロテアならば、死後の世界の新たな者をはらむことができるということだ。

そしてこれは、フアンという人物が父(ペドロ・パラモ)の子ではなく「母の子」としてコマラに存在している(死ぬことで新たにあらわれた)のだということを示すのではないか。ペドロ・パラモの三人の息子(ミゲル・パラモ、アブンディオ・マルティネス、フアン・プレシアド)のうち、母が誰なのか分かっているのは(作中に明記されているのは)フアン一人だけだ。他方、ミゲル・パラモは「父の息子」であり、父の系統に属し、父の系統として死ぬ。

そもそもフアンは、母の遺言によってコマラへやってくるのだから、彼は複数の「母たち」の連携的な策略によって殺され、幽霊としてコマラに幽閉されたと言えるのだ。フアンは、既に死んだ街であるコマラに今もなお執着しつづけている多数の幽霊たちの声を聴き、幽霊たちの物語を聞く、外部から来た唯一の「観客」として招かれ、観客でありつづけるために閉じこめられる。だからフアンは、「母ドロレスの息子」としてコマラに招かれ、「母ドロテアの息子」として死者たちの世界でコマラの一員として生まれ(現れ)直すのだが、それは、お前もまた「あの父」の息子の一人なのだから、「あの父」の物語を聞く義務があり、コマラの死者たちと無縁に生きることは許されないのだ、という、コマラの死者たちからの呪いに巻き込まれてしまったということだと言えるだろう。

フアンをコマラに導く異母兄弟のアブンディオにも、父を殺した(殺さざるを得なかった)者として、兄弟であるお前が無縁であることは許されないという思いがあるのだろう。

2021-08-26

●『ペドロ・パラモ』を読んだ。これを読むのもずいぶんと久しぶりだ。

●「読書メーター」って、けっこういいものなのだなあと思った。ゼロ年代当初くらいにあった、いい感じのテキストサイトの香りがいまもなお生き残っているというのか。浅すぎないが、深すぎもしない。ガチすぎないが、ユルすぎるわけでもない。感想とレビューの中間くらいの感じ。本をちゃんと読んだ上で、気軽に感想を言い合ったり、薦めたりしている。アマゾンレビューとかによくある、妙にイキッたような感じがあまりないのもよい。

「ペドロ・パラモ」感想・レビュー-読書メーター

https://bookmeter.com/books/407536

●映画化された『ペドロ・パラモ』がYouTubeで観られる。自動翻訳の日本語字幕で、ザッピング的にとばし観しただけだが、この小説の最大の特徴である、断片性と、その断片を語る多数の声の主(話者)たちがすべて死んでいること(多数の幽霊たちの行き場のない嘆きの声が縒り集められて編まれていること)を反映させるような映画的な工夫は特になくて、物語をべたっと撮っているような感じだ。唯一、生きている話者だと思われたフアン・プレシアドもまた、実は死んでいたのだと分かる場面や、それに続くフアン・プレシアドとドロテアが棺桶の中から語り続ける場面、そこに至るきっかけとなる近親愛的な関係にある兄妹の場面は割愛されているようだ。ただ、物語の舞台となった当時のメキシコの感じがビジュアルとして観られるのはよい。

Pedro Paramo (1967) Full Movie

https://www.youtube.com/watch?v=-9j45h78JeI

●『ペドロ・パラモ』朗読(スペイン語)。

Pedro Páramo - Juan Rulfo |AUDIOLIBRO COMPLETO| "El Hijo que Reclama el Lugar de su Padre"

https://www.youtube.com/watch?v=hBrzT2JpYPE

●『ペドロ・パラモ』は1955年に出版された。この年と現在との距離感はどんな感じなのかと調べてみたら、ガルシア=マルケスが最初の本(『落葉』)を出版し、カール・ドライヤーの『奇跡』やチャールズ・ロートンの『狩人の夜』が製作された年で、日本では成瀬巳喜男が『浮雲』を撮り、石原慎太郎が『太陽の季節』で芥川賞を受賞している(小津の『東京物語』が53年で、三島の『金閣寺』が56年だ)。

(エリア・カザンの『エデンの東』、ニコラス・レイの『理由亡き反抗』もこの年で、ジェームズ・ディーンの没年でもある。)

 

2021-08-25

坂元裕二脚本の『スイッチ』をU-NEXTで観た。松たか子のキャラはとても面白いし、松たか子阿部サダヲの関係のありかたも面白いと思ったのだが、二人がそのようにある理由というか原因の説明が、強引過ぎる上にあまり面白いとも思えないもので、これだったら、別に理由などなく、松たか子はもともとそういう人で、阿部サダヲとの因縁もなんとなく匂わせる程度---過去に付き合っている時にいろいろあったというだけ---でもよかったのではないかと思ってしまった。

細かい技法が(ちょっとやり過ぎくらいに)満載なドラマが、二人の回想場面になったとたんに、すーっと面白みが低下するので、えーっと逆に驚いてしまった。

松たか子のような、一途であるが故に職場でパワハラとかしてしまいそうなキャラの横に、岸井ゆきののような、天然で鈍そうにみえるが実は強靱でしたたか、みたいなキャラを配置する、この配置の妙。そういうところはとても面白い。

2021-08-24

●「やまと尼寺 精進日記」に出てくる観音寺は、ふもとの里から山道を40分登っていったところにある。檀家をもたず、墓地もないようなので---いわゆる「葬式仏教」の寺ではないようなので---寺の運営は、基本的に「信者さん(という言い方を寺の人たちはする)」たちによる寄付に依っているのではないかと思われる。人里から離れた場所にある尼寺というのだから、ある意味でアジール的な機能をもつものなのだろうが、しばしば里から人が登ってくるし、寺の人もしばしば里へ降りていっていて、行き来はそれなりに活発にみえる。

(宿坊のようなものがあって観光客も受け入れているらしく、撮影スタッフはそこに滞在しているようだ。)

一番近い感じなのは、ふもとの里の潤子さんという女性で、彼女は、かなり頻繁に自分の畑や山で採れた野菜や山菜などを持って寺に登っていくようだし、寺の人も作物をもらいに頻繁に降りていく。そして、潤子さんのところの作物は、寺の人たちによって調理され、寺の人たちと潤子さんとの会食に供される(この会食は、潤子さんが登って寺でも行われるし、寺の人たちが降りて里でも行われる)。この人は、信者さんというより仲の良いご近所さんという感じで、ただ、近所といっても40分の山道に隔てられている。

(おそらく60歳代くらいの住職、おそらく30歳代くらいの副住職、副住職と年齢は近い感じだがやや若い、僧侶ではなく「手伝い」として寺に住み込んでいる女性、そして、おそらく60歳代くらいのふもとの里に住む女性、という、年齢も地位も出自も各々の事情も、かなり隔たっているように見える女性たちのフラットな「仲良し感」はとてもユートピア的なものにみえる。)

(僧侶になる前に、大学生の頃から頻繁にこの寺へ通っていたという副住職は、若い時からそれなりに「俗世」の生きづらさを感じていたのだろうし、わざわざ山奥の尼寺で---僧侶としてではなく---住み込みの手伝いとして働こうとする人にもまた、なにかしらの事情があるのではないかと邪推してしまうのだが、しかし少なくとも画面の映る彼女たちは驚くほど屈託なくみえて、「事情(を匂わす陰影)」など感じさせない。)

それほど頻繁に行き来があるのではないとしても、恒常的に寺のことを気にかけていて「男手」となっている人が数人いる感じなのと、年に数度とか、一度とか、特定の行事や用事の時に定期的に寺へ登って手伝いをする決まった人たちがいるようだ。

副住職はしばしば軽トラに乗って里へ降りていき、里と寺とのコミュニケーション係のような存在になっている。住職のツテ(カオ)で、里にあるいくつもの旧家にさまざまな季節の作物をその都度もらいに行くのだが、(画面上では明示されないが)これはお布施を集めているということでもあるだろう。住職は華道の先生でもあって、かつては熱心な「信者さん」だったが、年齢のために寺へ登るのが困難になった人たちのために、里で生け花の教室を開いている。

生け花教室の生徒たちは、まだ30歳代で若かった住職が荒れた寺に一人でやってきた頃から知っており、家族ぐるみで(たとえば里と行き来するための山道=参道の整備をするなど)住職や寺を支えてきた人たちのようだ。生徒たちは山へ登れなくなっても寺のことを気にかけていて、生け花教室に集まってくる。

住職も副住職も、お経を上げたり儀式をしたりする時以外はまったく「お坊さん」っぽくなくて、(少なくとも画面の映っている範囲では)、ありがたげなことや説教くさいことは一切言わず、まったくフラットに「信者さん」たちと交流している。これは、普通の近所づきあい以上に、年齢や立場による上下感のまったくない、ほんとうにフラットな関係にみえる。

(信者さんたちの間でも、その信者歴の長短や、寺への貢献度の大小などによる上下関係が---あくまで「画面で観る限り」でだが---ないように感じられる。)

とはいえ、「信者さん」たちは、住職や副住職の向こう側に「観音様」をみているわけだし、寺の人々はその観音様を仕える人であるからこそ、彼女たちの生活を(ある人は多く、ある人は僅かに、それぞれに異なるやり方で)支えているのだろう。そのような形で観音様(という概念)は寺の人たちを(「俗世のまっただ中」から)救っているのだし、「信者さん」たちには、寺の人たちの生活を支えることを通じて観音様(崇高性・永続性)に触れているという感覚を得ることができているのだろう。観音様という崇高な(脱・俗的な)概念を媒介とすることによって成立している互恵関係のようにみえる。

(そのような互恵関係の成立が、彼女たちをフラットにしているのかもしれない。)

この番組を観ていると、寺と、それを支える人々の関係が、アイドル(それほど規模の大きくない、いわゆる地下アイドル)と、推しを支えるオタクの関係に近いように感じられてくるのだった。オタクは、さまざまに異なる形で「尊さ」に仕えている「推し」のおかげで、自分も「推しを推す」という間接的な形で「尊い」行為を行うことが可能になっている。アイドルは、オタクに推されることによって、「尊さ」に仕えるための生活(経済)が成り立つ。そこには、資本主義的な経済とはやや違った交換が成立しているのではないか、と。

2021-08-23

●すぐ裏で建物の解体作業をしていて、一日中、騒音と、軽めの地震がつづいているくらいの振動がある。作業は朝八時からはじまる。昼夜逆転している生活なので、朝八時といったら、まだ寝てから二、三時間くらいしか経っていないが、起こされることになる。耳栓をしても振動があるから意味が無い。これがいつまでつづくのか。ただ、午後五時をすぎると作業はピタッととまる。大きな騒音と振動を伴う作業なので、そこらへんは厳しく規制されているのだろう。こんなに暑い時期に作業する人は大変だとも思うが、必ず定時ぴったりで終わる職場というのは、けっこういい仕事なのではないかとも思う。

2021-08-22

●昨日の日記に書いたこととも関係するが、西川アサキさんの「分散化ソクラテス」という問題意識はとても重要なことだと思う。政治的な言説に対する根本的な不信は、その多くが意図的にバイアスがかけられたポジショントークでしかないというところからくる。

https://spotlight.soy/bLb7kPck9DE9BZFy

《結局の所、ソクラテスの問答法で達成されるのは、バイアスの解除だ。バイアスの解除、つまり「自分の共同体や伝統・利益・価値・立場からくるおかしな推論をやめること」を続ける態度を「普遍的立場」と呼んでおこう。

普遍的立場の反対が、ポジショントークフェイクニュースといった現在ネット上を埋め尽くす勢いの意見だ。それらは、知ってか知らずか、自分の利益を守るもしくは権力を拡大するために、バイアスをできるだけ拡散し強化しようとする活動で、ちょうど問答法によるバイアス解除と逆となる。》

ポジショントークにせよ、フェイクニュースにせよ、あからさまに事実に反することが書いてあれば、ファクトチェックで原理的には回避できる。だから、ファクトチェックをうまく自動化する仕組みを作ればいいようにみえる。そして、フェイクレベルやポジション偏向のレベルをサイトやツィートに常に表示するUIをプラットフォームが用意する。実際すでにそうした仕組みは存在するし、今後も発展し続けるはずだ。

だが、この仕組には二つ問題がある。一つは、ポジショントークフェイクニュースは、「虚偽とは限らない」ということだ。むしろ手の混んだポジショントークでは、事実に反することをそのまま書くことは少ない。

解釈の割れそうな事柄に対し自分の支持する立場の扱いを大きくする、反対の立場を意図的に消去する、反対の立場を述べた後突如自説に対するポジティブな意見をつけて終わる、など読み手の印象を操作するレトリカルな操作を行う方法は様々だ。》

ポジショントークに対し、ファクトチェックだけで挑もうとすると、レトリカル操作だけ行っているタイプの記事に対し何もできなくなって行き詰まる。間違ったことを書いているわけではなく、誰もがやるように自説を優位に導いている文章に対し、警告を発するのは、それこそ言論の自由に反すると言われかねない。

しかし、ファクトチェックの挫折は「結局どの意見もポジショントーク」という価値観を導きかねない。どんなひどい説でも誰かはひっかかる。だから、なんでも言っておいた方がいい、もしくは事実や真実はどうでもよく、そもそも論証や証明なんていう手続き自体が詐欺だという反知性主義にまで至りうる。》

《ちなみに、ほぼ今書いたとおりのことが『我が闘争』に書いてある。ヒトラー自身の主張では、彼をそうした態度に駆り立てた背景には、自らが参戦した第一次世界大戦で、後方の政治家たちが議論と駆け引きに明け暮れ、前線の無駄な犠牲を強いたことへの義憤がある。》

《また似たような事例として、コロナウィルスのワクチンに対するものがある。極端な例では「ビル・ゲイツが人体を遠隔操作するウィルスを散布するために作った」というような多数のフェイクニュースがある。様々なバイアスやフェイクニュースに対し、それが科学的に根拠のないものだ、という解説はできる。ただ、その解説自体が陰謀だ、という反論には効果がない。

これが、もう一つのフェイクニュース対策の課題、「レフリー(中立者)の信頼不能性」とでもいうべきものだ。

つまり、ある特定プラットフォームによるバイアス解除は、たとえ主催者の意図が完全な善意で事実に即していたとしても、(他人から見れば)検証行為それ自体が「プラットフォーム運営者のポジショントーク」である可能性を原理的に消せない。》

《問題となっているのは「実際に嘘をつくこと」ではなく「原理的に嘘をつくことができること」で、陰謀論者の攻撃はそこをつく。コロナのワクチンがDNAを意図的に改変するという主張に対し、その可能性は極めて少ない、といくら大手メディアが報道しても無駄だ。なぜなら、その報道が、「フェイクでありうる、特定の少数者が操作可能な情報でること」自体は事実だからだ。陰謀論者が涼しい顔で「自分は陰謀論者だと思われているし、大手メディアの意見全てと矛盾している」と認めた上で、自説を延々と反復できるのはそのせいだ。》

《ゆえに、レトリック検証という作業は、原理的に分散組織でしか実行できない。なぜなら、前回触れた「レフリーの信頼不能性」を克服することが中央集権的組織ではできないからだ。換言すれば、「「特定の誰かの意思によって変更できないこと」が知られていること」を、そもそも必要としている。

これは、最初期のブロックチェーンであるビットコインが、「金融政策方針を誰か(恣意的に・善意で)が決める」ということに対し、「そのようなことができない仕組み」として提案された時に、すでに潜在的していた「分散組織にしかできないこと」の本質だ。

レトリック検証の場合、分散化による正当性保証の対象が「通貨発行量の適切さ」から「情報にかかったバイアスの無さ」まで抽象化している。が、「ある特定の権威に委託することが、そもそも原理的に正当と言えそうにない」ことがらの範囲が新たに発見されていっているだけだとも言える。

後で触れるように、分散組織は人工物でありながら、一種の新しい「自然」として振る舞うことができる。》

2021-08-21

●お知らせ。VECTIONによる「苦痛トークン」についてのエッセイの第三回めをアップしました。苦痛トークンというアイデアの元にある思想「PS3(Pain, Scalability, Sustainability, Security)」には、他者への共感と関心が含まれているという話です。。
苦痛のトレーサビリティで組織を改善する 3: 他者への共感・関心を内包するPS3
https://spotlight.soy/detail?article_id=khrvgx76t
Empathy and Concern for Others in the PS3 / Implementing Pain Tracing Blockchain into Organizations (3)
https://vection.medium.com/empathy-and-concern-for-others-in-the-ps3-c52ac91bd934

●あるニュースなり記事なりを読むとする。一読して得られる、感想なり、感情なり、その出来事に対する自分の立ち位置なりが浮かぶ。そしてそれが、自分のこころに少なくない波を立てるものだとしたら、その出来事についてもう少し詳しく追っていこうとする。そうして調べていくと、ほとんどの場合で、最初に自分が感じたこと(感情や態度)がまったく適当ではなかったと思うか、そうでなくても、その感情や思考はあまりに一方的過ぎて、大きな修正が必要だと思うようになってくる。たいていのものごとはすごく複雑で、第一印象(直観)の多くは間違っている(見えてくるものの解像度が上がるほど、簡単に否定も肯定もできないと分かってくる)。こういうことを繰り返し経験すると、なにごとに対しても(いろいろ考えた末に自分なりの結論が出ていると思えることにかんしても)態度を「強く」表明することを躊躇するようになる。そして、(思想的な傾向性とは関係なく)ものごとをきっぱりと断定する人を胡散臭く感じるようになる。その強い言い切りにいったいどの程度の根拠があるというのか、と。

(たとえば、ぼくが何かに反対したり賛成したりする判断は、たんにぼくが持ち得る「情報の偏り」によって生じているのではないかという疑いが常にある。)

そうではあっても、生きている限り、何かを選択したり決断しないわけにはいかない(つまり、何かを排除したり、何かに反対したりしないわけにはいかない)。「許し難い」と感じることがないわけはない。だから、おずおずと何かを提案し、おずおずと何かを批判するのだが、でもそれは結局、それほど大したことのない自分の頭で考えた(というか、選択した)ことに過ぎず、考慮すべき点が抜け落ちていたり、論理的な誤謬があったり、さまざまなバイアスがかかっていたりするのだろうという疑いがありまくっているものでしかない。あらゆることは暫定的な解でしかないのだから、できるだけさまざまな考えを検討し、都度都度、状況(現実)と照らし合わせて、大きくズレがでてはいないか確認しながら、おそるおそる考えを進めるしかない。明らかに間違っていると思われるようなことに対しても、自分は決してそっちには行かないとか、友達がそっちに行こうとしていたら全力で止める、という形での否定しかできない。