2021-09-01

●君島大空、RYUTist、ウ山あまね (sora tob sakana)

君島大空 エイリアンズ

https://www.youtube.com/watch?v=a6hX1phH9dY

君島大空「向こう髪」Official Music Video

https://www.youtube.com/watch?v=HWHz3x_CZAA

君島大空「光暈(halo)」Official Music Video (short edit)

https://www.youtube.com/watch?v=QfA1taW5P5s

sora tob sakana/燃えない呪文(2019.10.23 sora tob sakana presents. ~月面の扉 vol.8~ with 君島大空)

https://www.youtube.com/watch?v=R6H7hTLoiY4

君島大空『散瞳』 Live @ Shibuya WWWX 2020.2.19

https://www.youtube.com/watch?v=63B61zFNucA

【Park Live】君島大空 | Ohzora Kimishima 2020.11.27(fri)19:20~

https://www.youtube.com/watch?v=R3vrNwTGeSA

RYUTist - 水硝子【Official Video】

https://www.youtube.com/watch?v=XcEHpWR__Dc

mizugarasu (ウ山あまねRemix)

https://www.youtube.com/watch?v=uWf3y4qRBAU

ウ山あまね - siriasu

https://www.youtube.com/watch?v=2P8vSVe70nw

ウ山あまね - セロテープデート

https://www.youtube.com/watch?v=qslfHF_mOMA

ウ山あまね - vEvEv

https://www.youtube.com/watch?v=VySsrZQYGeI

いられないこのままじゃ

https://www.youtube.com/watch?v=hfLMkNFe-Mc

【HOMEWORK SESSION PART1】ウ山あまね【Live】

https://www.youtube.com/watch?v=vZiXofvy9Rs

2021-08-31

●『ペドロ・パラモ』の時系列を混乱させている主な原因は、幽霊たちのざわめきであって、母との約束のために余所からコマラへやってくるフアンが経験する出来事は時系列順に並んでいるし、小説の中心人物であるペドロの生い立ちの流れも、一部を除いてほぼ時系列順に並んでいると言えるだろう。

前半は、フアンが聞くことになる幽霊たちの語りが、時系列に沿わずに散発的、断片的に立ち上がるなか、スサナへの思い、生活の貧しさ、祖父の死などのペドロの幼少時代、そして、父の死、借金を帳消しにするための策略としてのフアンの母(ドロレス)との結婚、トリビオという男の土地を略奪した上に拷問死させるなどの、成年となったペドロの悪党ぶりが(ペドロとその父親の代からの部下フルゴルとの関係などを通して)語られ、またペドロの息子ミゲルの死のエピソードを通じて、教会がペドロの支配下にあり彼に従わざるを得ないレンテリア神父の苦悩などが語られる。前半部分のペドロのパートは、幼少期から成年期へという大きな流れとしては時系列に沿っているが、成年となってからのエピソードが時系列通りではない。幽霊たちの散発性とペドロの成年エピソードが前後すること、それに物語世界の情報量がまだ十分でないこと(そして、登場人物の名前の覚えにくさ)もあり、記述が錯綜し(内容が継起的に展開するというよりネットワーク状に広がる)、出来事や人物の関係をなかなか把握しにくくて、たびたびページを前後しながら読み進めることになる。

だが、半分天井の崩れた部屋の兄妹との接触からフアンが死者となり、幽霊たちの声の聞き手となった後の後半では、ペドロやコマラという土地の出来事はほぼ時系列に沿って並べられるようになる。そしてそこで描かれるのが主に、ミゲルの死、スサナのこと、そして武装勢力の台頭によって世の中が不穏になってきたこと(そのような情勢下でのペドロの振る舞い、そして増々深まるレンテリア神父の苦悩)、スサナの死後のコマラの衰退、に絞られてくるので、出来事の推移がかなりつかみやすくなってくる(後半で時系列を乱す要素は、ほぼスサナの記憶と夢による混乱のみであろう)。

●「《》」内に直接的に書かれる内言や、フアンを介した又聞き(それらの部分も「一人称的な語り」なのだが)ではない、スサナによる自律した一人称の語りのパートは一カ所だけだ。そこでは「母の死」についての記憶が語られる。いま、自分が横たわっているベッドで母は死んだと言い、いやそれは嘘で、自分はいま、棺桶(死んだ人を埋める黒い箱のなか)にいると言う。そして、母の葬儀に参列者が一人もいなかったことや(後にドロテオによって、病気がうつることを恐れて誰も近づかなかったのだと理由が語られる)、母が死んだ時に唯一近くにいてくれた---子供の頃から死ぬまで一貫してスサナの世話係である---フスティナについて語る。

母の死はどうやら、スサナがまだコマラにいた頃の出来事のようで、ならば母の死がコマラを離れる原因(きっかけ?)だったとも考えられる。しかし不思議なのは、この母の死の場面に父(バルトロメ)の影がまったくみられないことだ。この時にバルトロメは不在であり、スサナがコマラを離れた後に合流したとも考えられる。しかし、バルトロメにはコマラを強く嫌っている独白があり、強く嫌悪するからにはそこに住んでいたはずだろう。だから、この内的な語りにおいて、スサナは意図的に(あるいは意図しなううちに)父の存在を排除して、いないものとして語っているとも考えられる。

スサナは、父をバルトロメとファーストネームで呼ぶ。なぜ、父をバルトロメと呼ぶのか、おまえは娘ではないか、と問う父に、スサナは《そんなことない》と娘であることを否定する。どうして自分を父親と認めないのだ、気でも狂ったのかと続けて問う父に、《(気が狂っているということに)気づかなかったの?》と答える。この部分を読んで最初は、スサナは父を嫌悪して、拒絶しているのかと思った。しかし、スサナが寝室を真っ暗にしているのに乗じて、ペドロが部屋に忍び込んでスサナに夜這いをかける場面で、彼女はペドロをまずは猫と勘違いし、ついで《バルトロメなの?》と口にする。さらに、父の死を聞かされた時にスサナは、(ペドロの夜這いを)バルトロメがお別れにきたのだと解釈して納得する。これを読むと、スサナはバルトロメを避けていたというより、性的なパートナーとして受け入れていて、だからこそ「父」であるという事実の方を拒否していたのではないかとも考えられる。

(とはいえ、父が酷く嫌っているペドロとの結婚をスサナがあっさり受け入れたのは、バルトロメとの関係から逃れたいという気持ちがあったからだろう。)

この後もスサナは、見舞いに来た神父(パドレ)を父(パドレ)と勘違いするのだが、興味深いのは、ペドロが来た時には「バルトロメなの」と言うのに、神父が来た時には「父さんなの」と呼びかけるのだ。スサナのなかで、バトルロメと父とが分離していることのあらわれだろう。

●だが、(生前だけでなく死後においてもなお)スサナを苦しめつづけているのは、父との関係ではなく、夫(フロレンシオ)との性交における官能の記憶と、そのかけがえのない夫を失ってしまった悲しみの記憶の、両者の耐え難い程の強さと、その強すぎるコントラストなのだった。

ペドロは、《スサナは、自分のこれまでの記憶をことごとく消し去り、これからの人生を照らしてくれる灯明になってくれるはずだったのだ》と思う。ペドロにとってスサナは、自分のしてきた悪辣な行為によって背負った重たいカルマを落としてくれると期待された人物だったが、そのスサナ自身が、誰よりも重く過去に苦しむ人であった。そしてペドロは、《これまでの記憶》を消すどころか、過去から復讐されるかのように、愛する人の苦しむ姿をただ見続ける以外手だてがないという無力さに苦しみ、スサナの死後もさらに、その苦しみを苦しみつづける。

2021-08-30

●『ペドロ・パラモ』には、三人称で書かれる「ペドロ・パラモが支配するコマラに生きる人々」の部分と、一人称で書かれる「幽霊たたちのさざめき」の部分があると言えるが、《天井の半分が落ちた》部屋に住む男女のパートは、そのどちらにも属さない特殊な部分だと思われる。この部分は、フアン視点の一人称で書かれていて(フアンが寝ている時の男女の会話が書かれていたりもするが)、「幽霊たち」のパートに属すると一応は言えるが、この男女が幽霊であるのかはいまひとつはっきりしないし、幽霊だとしても「ペドロ・パラモが支配するコマラ」に生きた他の幽霊たちとは異なって、ペドロのことを口にしない(過去を生きる人ではない)。さらにこの男女は、「このあたりは生者よりも幽霊の方が数が多く、自分たちは少数の生者である」ということを言う。

この男女は兄と妹であり(兄の名はドニスで妹には名前がない)、男女の関係にある。妹はそのことについて強い後悔と恥の意識をもち、その罪のために紫色の染みが顔中にできていると思いこんでいる(フアンには「ありふれた顔」に見える)。そのために妹は外に出ることはせず、一日中部屋のなかで暮らしている。兄は《野生の子牛》を捜すために日中は外に出る。妹は、フアンにコーヒーやトルティージャ・パン、乾肉を与え、それはフアンにとってコマラでの最初の食物だと思われる(コマラでの最初の接触者であるエドゥビヘスは、フアンに《寝る前に何か食べにおいで》と言うが、フアンが何かを食べている描写はない)。妹は、貧しい暮らしのなかで無理をしてフアンに食事を与え(姉に頼んで《母さんが生きていたころからとっておいたきれいなシーツ》を食べ物に替える)、兄のいない夜にフアンをベッドに誘う。そしておそらく、フアンはそのことが原因で死んで、コマラという土地に閉じこめられる。

だから、この兄と妹は、「ペドロが支配したコマラに生きた人々」の幽霊ではないとしても、生者とも言えず、生と死を媒介する中間的で抽象的な存在と言えるだろう。フアンは、この二人とかかわることで、生の世界から死の世界へと移行していく。《母さんが生きていたころからとっておいたきれいなシーツ》と交換した食物を口にし、罪のために幽閉されているとも言える妹と寝ることで、一線を越え、生者の世界に戻ることが許されなくなる。この、生から死への移行部分を通過し、フアンが死者(=幽霊たちの声の聞き手)としてコマラで新たに目覚める(生まれ直す)ところで小説はちょうど中間くらいになり、ここから後半、本格的にコマラの物語とスサナの苦しみが描かれることになる(スサナ視点の一人称は、小説の後半になってはじめてあらわれる)。

(ここで、妹にとっての「姉」や「母」は、当然、兄のドニスにとっても「姉」であり「母」であるはずなのに、あたかも、妹にとってだけ「姉」や「母」が存在するかのような書き方がされているところがおもしろい。妹にだけ名前がないことも含めて、この兄と妹との非対称性は、「妹」に他のどの登場人物とも異なる、存在としての独自の位置を与えているように思われる。)

2021-08-29

●『ペドロ・パラモ』は、コマラという土地の死者たちの声が響く小説だ。だから、余所からコマラを訪れたフアン・プレシアドの出来ることは、ただ死者たちの声に耳を傾けることだけとなる。ただし、この小説にはもう一人、余所からコマラへやってくる人物がいる。スサナ・サン・ファンだ。スサナは三十年前にはコマラに住んでいて、幼少時のペドロ・パラモの憧憬の対象だった。だが程なくコマラを去り、その後も彼女に執着するペドロが、三十年も彼女の行方を探し続けて、ついに発見し、スサナの父(バルトロメ)に働きかけることでコマラに呼び戻すことになる。つまり、フアンは母(たち)に導かれてコマラに幽閉されるのだが、スサナは(この小説において象徴的な)「父」によってコマラに連れてこられる。

そして、フアンと同様にスサナもまた、コマラでは何もしない。ただ、フアンがひたすらコマラの死者たちの声を聞くのに対して、スサナは誰の声も聞こうとしない。彼女は、他者の過去・記憶(幽霊)に縛られるのではなく、自身の過去・記憶に縛られている。スサナは、今ここではなく、過去からやってくる回想や夢のなかで生きているという意味で、生前から既に幽霊であり、(むごいことに)死後もそのまま、同じ過去や夢に苦しめられる。コマラに住み、死後はコマラに埋葬されるが、スサナはコマラにはいないと言ってもいいだろう。ファンが、中身が空洞であることで他者たちの声を響かせる装置=人物だとしたら、スサナは、中身が充実しすぎているが故に「外」への関心を失った、ただ自身の内側の密度を生きる人物と言える。

スサナを支配する過去や夢は、まず、亡くなった夫(フロレンシオ)との激しい性愛の官能と、その夫を失ったことの苦しみだ。彼女は絶大な強度をもって回帰してくる過去の官能と苦痛に刺し貫かれていて、現在に対する興味のいっさいを失っている。また、現在への嫌悪の理由として、父(バルトロメ)への嫌悪もあるだろう(父からの性的な行為の強要がほのめかされている)。

コマラの支配者であり、膨大な力をもつペドロでも、事実上「コマラ」にも「現在」にも存在しないスサナに対しては、何の助けも与えられない。記憶や夢の回帰に耐えるようにベッドでのたうっているスサナを見守るだけだ。そして、しばらくするとスサナは死んでしまう。コマラや、近隣の街に大きな影響力をもつペドロも、「コマラ(現在)の内に持ち込まれたコマラ(現在)の外」に対して何も力を及ぼせない。

また、欲しいものは何でも手に入るようにみえるペドロが、スサナというたった一人の女性への執着を捨てきれないのもまた、彼女と過ごした幼少期の記憶(幸福)があまりに強くなまなましいからだろう。ペドロもまた、強すぎる過去の回帰によって、「(もはや、今、ここ、にはいない)現在ではなく過去に生きる女性」への執着から逃れられない。

過去への執着にとらわれ、コマラという土地にとらわれて、嘆きつづける幽霊たちと同様に、スサナもまた死後も嘆きつづける。そして、血も涙もないようにみえる暴君のペドロでさえ、過去からは自由ではなく、過去(=スサナ)を前にして自らの「無力」を味わう。

●だが、ペドロは、あたかも彼が解脱したかのように、死後の嘆きがない。死ぬと、《石ころのように崩れ》て消えるのだ。それは彼が、死後の準備として、自らの所有物とみなし、あるいは自分自身の分身とみなしたコマラの繁栄を、自らの意志で滅ぼしたからではないか。

あるいは逆に、暴君であった彼が、幽霊たちのコミュニティから排除されているのかもしれないが。いや、主に一人称で語られる幽霊たちのコミュニティは、そもそも母たち(母であり得たかもしれない者、母であり得なかった者も含む)の場であって、父のため場ではないということかもしれない。だからそこでフアンは「母の息子」として、一方的に聞き役にまわらなければならないのか(「母」ではないスサナの声を聞くために、フアンという媒介が必要だったのかもしれない)。

●あらゆる人物が自らの無力を噛みしめるようなこの小説で、もっとも強く苦く「無力」を表現している人物が、レンテリア神父ではないか。登場人物のなかで最も内省的であり、悪党に支配された地区の神父として死者に許しを与えるという自分の存在の欺瞞に自覚的であり、それをニヒリスティックに受け流すことも出来ず、繰り返し回帰する強い自責と無力感に苛まれつづけることになる。そしてその末に、銃をとってゲリラ軍に参加する。

 

2021-08-28

●お知らせ。VECTIONによる「苦痛トークン」についてのエッセイの第四回めをアップしました。「苦痛トークン」の具体的なイメージが示されます。

苦痛のトレーサビリティで組織を改善する 4: 苦痛トークンとはどんなものか

https://spotlight.soy/detail?article_id=zh7koz2xc

What is Pain Token? / Implementing Pain Tracing Blockchain into Organizations (4)

https://vection.medium.com/what-is-pain-token-c46bba1cad85

●『ペドロ・バラモ』を構成するたくさんの断片(自分で数えたわけではないが69あるという)は、一人称で記述されているものもあれば、三人称で記述されているものもある。ぼくの見逃しがなければ、フアン・ブレシアドが登場する場面はすべて彼の一人称で語られ、その他、スサナ・サン・ファンには一人称で語るパートがある(スサナの棺桶は、フアンとドロテアの棺桶に近く、スサナによる一人称は、スサナの語りをフアンが聞いているので、フアンの一人称だと解釈することも可能だが)。子供時代のペドロ・バラモが語られるパートで、限りなく一人称に近い記述がなされるものがあるが、そこでペドロは《彼》と呼ばれている(だが、これらのパートは成人したペドロを語る三人称の記述とは明らかにトーンが異なって彼の内心にとても近く、「彼」を「わたし」と書き直しても違和感はない)。レンテリア神父のパートのいくつかは、きわめて内省性が高く、三人称記述だが(ペドロの子供時代に次いで)一人称性が強いと言える。一方、インディオたちが山から下りてくる場面など、誰の視点か分からず、三人称性の高い場面も存在する。また、ドロレス・プレシアド、ペドロ・パラモ、スサナ・サン・ファンには、「《》」で括られて、内心が直接露出する部分がある。幽霊たちが長々と「語る」場面は、そこだけ取り出せば一人称的記述ともいえる。

無理矢理に整理すれば、(様々な幽霊と出会う)フアンの語る一人称部分と、死後のスサナの語りをフアンが聞いているというスサナの間接的一人称部分、そして、いわゆる(過去となった)現実を示している三人称の部分という、三つくらいに語りの層を分けることはできそうだ。しかし実際に読んでいる感触としては、断片ごとに語りと対象とのさまざまな距離や関係があり、それが入り交じって、小説全体として自由間接話法に近いという方がよいと思われる。

●余所の土地からコマラへやってきて、様々な幽霊に出会い、自分が死んだ後にも幽霊たちの声を聞きつづけるフアンのパートは、時系列順に並べられている。だが、彼に語りかける幽霊たちの話や、三人称で語られる「現実」部分がたちあがってくる順番が、時系列通りではない。ネットワーク状にひろがる幽霊たちのさざめきに、継起性を与えているのがフアンという存在であり、その意味でも彼は観客であり、読者の代理であろう。たとえば、一人の人間が、自分が存在するより前の歴史を知ろうとする時、出来事の記憶-記録を追いかけ、それを経験する順番は、歴史的な順序とは異なることになるだろう。まず十年前の事件を知り、それが五年前の出来事に発展していくことを知る。しかしその源流には十五年前の出来事があったことを、後になって知る、ということがあるとすれば、それは、最初から整理された、十五年前→十年前→五年前という流れを知ることとは、まったく別の経験となるだろう。歴史的な順序と経験的な順序の「異なり」こそが、あらすじに還元できない作品に固有の経験をつくりだす。つながり方がよく分からない断片にひとつひとつぶつかっていきながら、その都度、描かれる像や先の展開の予測のありかたが変化していく。

2021-08-27

●『ペドロ・バラモ』の最初の語り手であるフアン・プレシアドは、(異母兄弟であり、小説のラストでペドロ・パラモを殺す人物でもある)ロバ追いのアブンディオによってコマラという土地に招き入れられ、エドゥビヘス・ディアダを紹介される。エドゥビヘスはフアンの母ドロレス・プレシアドの友人であり、フアンは彼女から生まれたかもしれなかったのだ(ペドロ・パラモと母ドロレスとの新婚初夜のベッドで、母と彼女は入れ替わっていた)。そしてエドゥビヘスが消えた後にフアンを迎えるのは、彼の乳母の役割をしていたダミアナ・シスネロスだ。つまり、母の死をきっかけにコマラを訪れたファンを迎えるのは、二人の代理的な母(母となったかもしれない女と乳母)なのだ。

次にフアンが出会うのは、近親愛的関係にある兄と妹で、これらのコマラの住人はすべて幽霊だと考えられる。フアンは、兄が不在の時に妹に誘われて彼女のベッドに入り、それがきっかけであるかのように窒息状態になって死んでしまう。そして、気がつくとドロテアという女性とともに棺桶のなかにいる。

ドロテアは、実際には存在しない自分の子供を存在すると思い込んでいたが、天国で天使に腹のなかに手を突っ込まれ、彼女の子宮はなにも産み出さないことを示唆される。つまりフアンは、二人の代理的母に次いで、母になりたいが母となり得ない女性と出会う。

ここでフアンが幽閉される棺桶は、いわば何者もはらむことのないドロテアの空虚な子宮であるとも言えて、死ぬことによってフアンは、ドロテアの「存在しないはずの子供」として、虚の存在として生まれ(死に)変わる。コマラを捨てたドロレスの息子であるフアンは、ドロテアの子供としてその子宮にはらまれることで、改めてコマラという土地に結びつけられる(土地に縛られる)と言えるだろう。生前のドロテアは生きた子供をはらむことができないが、生の世界から反転した死後のドロテアならば、死後の世界の新たな者をはらむことができるということだ。

そしてこれは、フアンという人物が父(ペドロ・パラモ)の子ではなく「母の子」としてコマラに存在している(死ぬことで新たにあらわれた)のだということを示すのではないか。ペドロ・パラモの三人の息子(ミゲル・パラモ、アブンディオ・マルティネス、フアン・プレシアド)のうち、母が誰なのか分かっているのは(作中に明記されているのは)フアン一人だけだ。他方、ミゲル・パラモは「父の息子」であり、父の系統に属し、父の系統として死ぬ。

そもそもフアンは、母の遺言によってコマラへやってくるのだから、彼は複数の「母たち」の連携的な策略によって殺され、幽霊としてコマラに幽閉されたと言えるのだ。フアンは、既に死んだ街であるコマラに今もなお執着しつづけている多数の幽霊たちの声を聴き、幽霊たちの物語を聞く、外部から来た唯一の「観客」として招かれ、観客でありつづけるために閉じこめられる。だからフアンは、「母ドロレスの息子」としてコマラに招かれ、「母ドロテアの息子」として死者たちの世界でコマラの一員として生まれ(現れ)直すのだが、それは、お前もまた「あの父」の息子の一人なのだから、「あの父」の物語を聞く義務があり、コマラの死者たちと無縁に生きることは許されないのだ、という、コマラの死者たちからの呪いに巻き込まれてしまったということだと言えるだろう。

フアンをコマラに導く異母兄弟のアブンディオにも、父を殺した(殺さざるを得なかった)者として、兄弟であるお前が無縁であることは許されないという思いがあるのだろう。

2021-08-26

●『ペドロ・パラモ』を読んだ。これを読むのもずいぶんと久しぶりだ。

●「読書メーター」って、けっこういいものなのだなあと思った。ゼロ年代当初くらいにあった、いい感じのテキストサイトの香りがいまもなお生き残っているというのか。浅すぎないが、深すぎもしない。ガチすぎないが、ユルすぎるわけでもない。感想とレビューの中間くらいの感じ。本をちゃんと読んだ上で、気軽に感想を言い合ったり、薦めたりしている。アマゾンレビューとかによくある、妙にイキッたような感じがあまりないのもよい。

「ペドロ・パラモ」感想・レビュー-読書メーター

https://bookmeter.com/books/407536

●映画化された『ペドロ・パラモ』がYouTubeで観られる。自動翻訳の日本語字幕で、ザッピング的にとばし観しただけだが、この小説の最大の特徴である、断片性と、その断片を語る多数の声の主(話者)たちがすべて死んでいること(多数の幽霊たちの行き場のない嘆きの声が縒り集められて編まれていること)を反映させるような映画的な工夫は特になくて、物語をべたっと撮っているような感じだ。唯一、生きている話者だと思われたフアン・プレシアドもまた、実は死んでいたのだと分かる場面や、それに続くフアン・プレシアドとドロテアが棺桶の中から語り続ける場面、そこに至るきっかけとなる近親愛的な関係にある兄妹の場面は割愛されているようだ。ただ、物語の舞台となった当時のメキシコの感じがビジュアルとして観られるのはよい。

Pedro Paramo (1967) Full Movie

https://www.youtube.com/watch?v=-9j45h78JeI

●『ペドロ・パラモ』朗読(スペイン語)。

Pedro Páramo - Juan Rulfo |AUDIOLIBRO COMPLETO| "El Hijo que Reclama el Lugar de su Padre"

https://www.youtube.com/watch?v=hBrzT2JpYPE

●『ペドロ・パラモ』は1955年に出版された。この年と現在との距離感はどんな感じなのかと調べてみたら、ガルシア=マルケスが最初の本(『落葉』)を出版し、カール・ドライヤーの『奇跡』やチャールズ・ロートンの『狩人の夜』が製作された年で、日本では成瀬巳喜男が『浮雲』を撮り、石原慎太郎が『太陽の季節』で芥川賞を受賞している(小津の『東京物語』が53年で、三島の『金閣寺』が56年だ)。

(エリア・カザンの『エデンの東』、ニコラス・レイの『理由亡き反抗』もこの年で、ジェームズ・ディーンの没年でもある。)