2021-09-03

●お知らせ。VECTIONによる「苦痛トークン」についてのエッセイの第五回をアップしました。苦痛トークンは、《勇気を必要とせずに、嫌なものはイヤだと客観的に伝える》匿名化された仕組みであり、組織によってある生産物が生産される過程で、その組織のメンバーに生じた苦痛の総量を示す指標となります(同じクオリティの生産物であっても苦痛量の少ない方が優れた生産物と言えるし、たとえクオリティが高く安価であったとしても、苦痛量の多い生産物は優れた物とは言えなくなる)。

これだけでも、苦痛量の変化(推移)からパワハラなどの発生を察知するための徴候となり得るでしょう。しかしそれだけでなく、苦痛の正確なトレースを通じて「人の意思(政治)」を介すことのない自動化された組織構造の変化を実現する、というアイデアを含むものです(人にはできるだけ人事権という権力を与えたくないと考えます)。苦痛トークンは、ブロックチェーンという新たな技術によってはじめてその可能性について考えられるようになるものです。

(目標や理念、思想の良し悪しではなく、目標や理念や組織の維持のためにメンバーに強い苦痛を強いる組織やそのあり方を「悪」と考える。)

《パブリックなブロックチェーンを使っているので、トレース結果は外部から参照できる。排出ガスのようなイメージで、組織が活動によって産出した苦痛トークンの総量がわかることになる。これにより、ブラック企業などのガバナンスの不透明性を打ち消すよう試みる。なお、組織がトレース結果を公表しない場合、なぜ公表しないのか、という公衆からの疑問に対峙する必要がでてくるだろう。》

苦痛のトレーサビリティで組織を改善する5: 苦痛トークンによる組織の変化(DAO+苦痛トークン)

https://spotlight.soy/detail?article_id=os1aza2qi

Changing the Organization through Pain Tokens (DAO + Pain Tokens) / Implementing Pain Tracing Blockchain into Organizations (5)

https://vection.medium.com/changing-the-organization-through-pain-tokens-dao-pain-tokens-868ea7b5e748

●(昨日からつづく)ビオイ=カサーレス「パウリーナの思い出に」では、ある男(モンテーロ)の嫉妬からくる強い妄想が別の人物(主人公)にまで作用を及ぼす(『流れよ我が涙、と警官は言った』と同様に)。「わたし」の妄想が他者にまで作用し、主人公がモンテーロの妄想世界に引き込まれ、その妄想の一部分となる。だがそれは、主人公が、モンテーロを通して(モンテーロという鏡に映った)パウリーナを見ることではじめて、パウリーナの別の側面を見ることが出来て、自分が見ていたパウリーナが、自分という鏡に映ったパウリーナであったことを自覚する、ということでもある。

主人公は、《ぼくは自分がパウリーナの不鮮明で粗雑な写し》のようなものであり《パウリーナと似ていることで自分は救われている》と考える。自分の方がパウリーナのコピーであり鏡像であって、自身の内に投影されるパウリーナの像によって自分が高められるのだ、と。しかし、彼女を映し出す鏡(自分)は決して透明でフラットな存在ではなく、偏向があり、鏡にはあらかじめ歪みがある。あるいは、パウリーナ自身が、自らを映している鏡の偏向にあわせた像だけを鏡(主人公)に投げかけていた。というか、互いに互いを映しあう鏡像的な関係にある時、互いにどちらも自分の像を表している鏡(二人称的対象)の偏向や歪みを自覚できない。おそらくパウリーナ自身も、モンテーロという「別の鏡」に出会うことではじめて、自身の別の側面に気づいたのだろう。

主人公から見たモンテーロは、《はじめての訪問にもかかわらず、こちらが時間を割いてでも読むべき作品だと言わんばかりに、分厚い原稿とともに熱弁を振る》うなど押しが強く、一方で《自分の殻に閉じこもり、相手の気持ちを察することができない》ような人物とされる。また、パウリーナは《あの人、とても嫉妬深くてね》と言う。対して、その語りから主人公は冷静で穏やかな人物のようだ。パウリーナを失った失意のなかでも取り乱したりはせず、留学をすることでひとまずは「この地」を離れようという適切な判断ができる。

主人公が留学から戻ると、不意にパウリーナが部屋を訪れ、二人は結ばれる。しかしその時、主人公は彼女の様子に違和感を覚える。

《そんな高揚感の中でも、ぼくはパウリーナの言葉にモンテーロのくせがうつっていることを感じずにはいられなかった。モンテーロっぽい回りくどい言い方、正確に言おうとして、ただいじくりまわしたいだけの表現、思い出すのも恥ずかしくなるほどのひどい低俗さ。彼女が口を開くたびに恋敵の言葉を聞いているようだった。》

《パウリーナが鏡にうつっている。鏡には花飾りや王冠や黒い天使をあしらった縁どりがあり、ほの暗い水銀の鏡面を見つめていると、パウリーナの姿がいつもと違っている気がした。それまでとは異なる目で見たことで、彼女の知らなかった一面を発見したと思った。》

《「もう行くわ。遅くなるとフリオがうるさいし」

その声には軽蔑と不安がこめられていた。パウリーナの言葉とは思えず、とまどいをおぼえる。ぼくの知っているパウリーナは誰かを裏切る人間ではなかったので、暗い気持ちになる。》

この違和感は、この時のパウリーナが「モンテーロの妄想がつくりあげたパウリーナ」であり、パウリーナ本人(パウリーナの魂そのもの)ではなかったことによって、一応は説明がつく。しかし主人公は必ずしもそうだとは考えない。モンテーロの妄想の「鏡」に映されたものとはいえ、それは《彼女の知らなかった一面》でもあるのだ。主人公は、《ぼくがモンテーロを介して知りえたパウリーナの一面を、あの男は実際に見ていたことになる》と考える。別の鏡に映ったパウリーナが、知っていたのとは別の側面を語っている。

主人公はパウリーナとの再会を思い出しながら、《たとえパウリーナの態度にいつもと違う冷たさがあり違和感をおぼえたとしても、その顔はあいかわらず美し》く、《顔は魂にはない誠実さを持っているのか》と考える。しかしすぐその後に《ぼくは自分の好みをパウリーナに投影して、それを愛していただけで、実は本当のパウリーナを知らないのではないか》と懐疑的になる。このような懐疑は、モンテーロという存在(別の鏡)によってはじめて主人公にもたらされるものだろう。

モンテーロは、ネガティブな意味での典型的な「文学青年」であるかのように描かれている。そして、彼が書いているのは次のような小説だ。

《あるメロディはバイオリンと演奏者の動きが結びついて生まれる。同じように、物質と運動が決まった形で結びつけば、人間の魂が生まれるのではないか。小説の主人公は、魂を生み出す装置(木枠と紐を組みあわせたようなもの)を作っている。やがて主人公は死ぬ。遺体は通夜のあとで埋葬されるが、彼の魂は装置の中でひそかに生きつづける。作品の最後で、ひとりの若い女性の死が語られる。彼女の死んだ部屋には、ステレオスコープと方鉛鉱をとりつけた三脚とともに、その装置が置かれていた。》

鉱石ラジオに使われる方鉛鉱と、視差により幻の立体感を生み出すステレオスコープは、ただ保存されるだけで表現をもたない魂と交信するための装置なのだろう。モンテーロは、死者の魂を保存する装置についての小説を書いているのだが、その装置には魂が自らの存在を表現するための仕組みがない。魂は、ステレオスコープと方鉛鉱を用いて覗き込まなければ(覗き込もうとする女性が存在しなければ)、ただそれ自身として自足してあるだけで、自ら現れることはない。同様に、パウリーナの魂も、自らの力によって現れたのではなく、モンテーロの嫉妬という強く歪んだ妄執を媒介としなければ現れることがなかった。

逆に言えば、妄執こそが歪んだ形だとしても死者を蘇らせる。現実には、主人公とパウリーナは結ばれることはなかった。だからモンテーロの妄想は事実ではない。しかし嫉妬に駆られたモンテーロにとってその妄想は事実以上にリアルな「現実」としてあったし、ありつづけるだろう。その強い「妄想=現実」が、(パウリーナを犠牲するだけでは飽きたらず)主人公の現実をも巻き込んでしまう。だがここで主人公は、モンテーロの妄想に引き込まれながらも、その妄想にとらわれるのではなく、そこから知りたくもない「現実」を認識させられることになる。主人はどこまでも理知的に思索する人であり、《いつも別の視点を用意しておこうと頭を働かせるくせがあるので---昨夜パウリーナがあらわれたことについて、ほかの解釈はできないだろうかと考える》ことによって、《パウリーナは死の世界からもどってきてくれた》という幸福な誤解を思考が打ち砕いてしまう。まさに《モンテーロは自分の幻想とともに苦しんだが、ぼくは拷問のような現実を受け入れなければならない》のだ。主人公とモンテーロとは、どこまでも対比的であり対照的である。

 

2021-09-02

アドルフォ・ビオイ=カサーレス「パウリーナの思い出に」。前に読んだのは『ダブル/ダブル』というアンソロジーに収録されていた菅原克也・訳のものだったが、今回読んだのは、短編集『パウリーナの思い出に』に収録されている高岡麻衣、野村竜仁・訳のもの。この短編小説もまた(ボルヘスのいくつかの小説と同様)、数式のように完璧に組み上げられたもので、これについて語るためにはその前に概要を示す必要があるだろう。つまり、ネタバレなしではこの小説について語れない。

●まず、自分の頭の整理のためにこの短編の概要をまとめる(以下、ネタバレ)。主人公の作家(男性)には、幼い頃からずっと一緒に過ごす、互いに完全に理解し合えていると感じる女性(パウリーナ)がいる。自分は彼女の粗雑な写しであり、彼女の鏡であることによって自分の至らなさが救われる、とさえ思っている。彼女との結婚は当然と感じているが、幼い頃からずっと一緒だったために恋人のように振る舞うことは照れくさくてできないままだ。主人公は、意欲的だが粗野でどこかいけ好かない作家志望の男(モンテーロ)と知り合う。男を自宅に招いた時、男とパウリーナが親しげに話しているのを苦々しく思う。

次にパウリーナに会った時、いつもと様子が違うと感じ、それを告げると「私たちは話さなくても気持ちが通じるのね」と言われる。だがその言葉の意味は、あの日以来、パウリーナとモンテーロは激しく惹かれ会っているということだった。主人公は、生まれて初めてパウリーナを遠く感じ、自分と(あんな男に惹かれる)彼女とはそもそも似てなどいなかったのではないかと疑う。失意の主人公は、留学していったん故郷を離れることにする。出発の前夜、大雨のなかパウリーナが(嫉妬深い)モンテーロに内緒で会いに来てくれる。

二年間の留学から帰る。コーヒーを飲みながら、午後の遅い時間にパウりーナとよくコーヒーを飲んだものだったと穏やかに思い出し、そこではじめて彼女を失った痛みを実感する。ノックの音で扉を開くとパウリーナがいる。彼女は、かつてのあやまちを実際の行為で改めるかのように主人公を導き、二人ははじめて結ばれる(外から雨音が聞こえている)。主人公は幸福な高揚感に包まれるが、パウリーナの言葉にモンテーロの癖がうつっているのを感じ、鏡に映る彼女の姿に違和感を覚えもする。別れ際の言葉も彼女らしくない。彼女を追って外に出るが姿はなく、雨が降った形跡もない。

主人公は、これまで自分が見ていたパウリーナは幻に過ぎず、自分の好みを彼女に投影していただけではないかと疑いながら、鏡に映った彼女への違和感について考えるうち、そこにあるはずのないもの(留学前に彼女にプレゼントした馬の像)が映っていたことに思い至る。

パウリーナの様子が変だったことが気になって、友人にモンテーロと彼女について訪ねると、なんと、主人公が留学のために出発したその日に、パウリーナはモンテーロに殺されていた。モンテーロは、パウリーナが留学前日に自分に内緒で主人公に会っていたことで二人の関係を邪推し、嫉妬して彼女を殺害したのだった。パウリーナは殺される時に、モンテーロとの結婚が間違いで、自分との愛こそが真実だったと気づいて、自分に会いに来てくれたのだ、と主人公は思う。しかし、事実はそうではないことに気づいてしまう。

《パウリーナは、ぼくらの不幸な愛の力で墓からよみがえったわけではなかった。パウリーナの亡霊など存在しない。ぼくが抱きしめたのは、恋敵の嫉妬が生んだ、怪物じみた幻影だったのだ。》

《ぼくは刑務所のモンテーロを想像する。あの男は、ぼくとパウリーナが会った場面を、ひたすら考え、嫉妬心に駆られながら、すさまじい執念で思い描いたのだろう。》

《ぼくが鏡の中の自分に気づかなかったのは、モンテーロがきちんと想像しなかったからだ。寝室の様子も正確さを欠いていた。パウリーナのことさえあいまいだった。モンテーロの幻想が生んだパウリーナは、本人とは似ても似つかず、話し方などもまるでモンテーロのようだった。》

モンテーロは自分の幻想とともに苦しんだが、ぼくは拷問のような現実を受け入れなければならない。パウリーナは、自分自身の愛に幻滅して戻ってきたわけではなかった。ぼくは彼女に愛されたことなどなかった。それだけではない。ぼくがモンテーロを介して知りえたパウリーナの一面を、あの男は実際に見ていたことになる。あのとき---二人の魂がむすばれたと思った瞬間---ぼくはパウリーナが求めるままに愛を誓った。しかし彼女の言葉は、ぼくに向けられたものではなかった。あれはモンテーロが何度も聞いていた言葉だった。》

●最後から二番目の引用部分では、主人公にまだモンテーロへの軽蔑を表現する余裕があるが、最後の引用部分では完全に打ちのめされている。

2021-09-01

●君島大空、RYUTist、ウ山あまね (sora tob sakana)

君島大空 エイリアンズ

https://www.youtube.com/watch?v=a6hX1phH9dY

君島大空「向こう髪」Official Music Video

https://www.youtube.com/watch?v=HWHz3x_CZAA

君島大空「光暈(halo)」Official Music Video (short edit)

https://www.youtube.com/watch?v=QfA1taW5P5s

sora tob sakana/燃えない呪文(2019.10.23 sora tob sakana presents. ~月面の扉 vol.8~ with 君島大空)

https://www.youtube.com/watch?v=R6H7hTLoiY4

君島大空『散瞳』 Live @ Shibuya WWWX 2020.2.19

https://www.youtube.com/watch?v=63B61zFNucA

【Park Live】君島大空 | Ohzora Kimishima 2020.11.27(fri)19:20~

https://www.youtube.com/watch?v=R3vrNwTGeSA

RYUTist - 水硝子【Official Video】

https://www.youtube.com/watch?v=XcEHpWR__Dc

mizugarasu (ウ山あまねRemix)

https://www.youtube.com/watch?v=uWf3y4qRBAU

ウ山あまね - siriasu

https://www.youtube.com/watch?v=2P8vSVe70nw

ウ山あまね - セロテープデート

https://www.youtube.com/watch?v=qslfHF_mOMA

ウ山あまね - vEvEv

https://www.youtube.com/watch?v=VySsrZQYGeI

いられないこのままじゃ

https://www.youtube.com/watch?v=hfLMkNFe-Mc

【HOMEWORK SESSION PART1】ウ山あまね【Live】

https://www.youtube.com/watch?v=vZiXofvy9Rs

2021-08-31

●『ペドロ・パラモ』の時系列を混乱させている主な原因は、幽霊たちのざわめきであって、母との約束のために余所からコマラへやってくるフアンが経験する出来事は時系列順に並んでいるし、小説の中心人物であるペドロの生い立ちの流れも、一部を除いてほぼ時系列順に並んでいると言えるだろう。

前半は、フアンが聞くことになる幽霊たちの語りが、時系列に沿わずに散発的、断片的に立ち上がるなか、スサナへの思い、生活の貧しさ、祖父の死などのペドロの幼少時代、そして、父の死、借金を帳消しにするための策略としてのフアンの母(ドロレス)との結婚、トリビオという男の土地を略奪した上に拷問死させるなどの、成年となったペドロの悪党ぶりが(ペドロとその父親の代からの部下フルゴルとの関係などを通して)語られ、またペドロの息子ミゲルの死のエピソードを通じて、教会がペドロの支配下にあり彼に従わざるを得ないレンテリア神父の苦悩などが語られる。前半部分のペドロのパートは、幼少期から成年期へという大きな流れとしては時系列に沿っているが、成年となってからのエピソードが時系列通りではない。幽霊たちの散発性とペドロの成年エピソードが前後すること、それに物語世界の情報量がまだ十分でないこと(そして、登場人物の名前の覚えにくさ)もあり、記述が錯綜し(内容が継起的に展開するというよりネットワーク状に広がる)、出来事や人物の関係をなかなか把握しにくくて、たびたびページを前後しながら読み進めることになる。

だが、半分天井の崩れた部屋の兄妹との接触からフアンが死者となり、幽霊たちの声の聞き手となった後の後半では、ペドロやコマラという土地の出来事はほぼ時系列に沿って並べられるようになる。そしてそこで描かれるのが主に、ミゲルの死、スサナのこと、そして武装勢力の台頭によって世の中が不穏になってきたこと(そのような情勢下でのペドロの振る舞い、そして増々深まるレンテリア神父の苦悩)、スサナの死後のコマラの衰退、に絞られてくるので、出来事の推移がかなりつかみやすくなってくる(後半で時系列を乱す要素は、ほぼスサナの記憶と夢による混乱のみであろう)。

●「《》」内に直接的に書かれる内言や、フアンを介した又聞き(それらの部分も「一人称的な語り」なのだが)ではない、スサナによる自律した一人称の語りのパートは一カ所だけだ。そこでは「母の死」についての記憶が語られる。いま、自分が横たわっているベッドで母は死んだと言い、いやそれは嘘で、自分はいま、棺桶(死んだ人を埋める黒い箱のなか)にいると言う。そして、母の葬儀に参列者が一人もいなかったことや(後にドロテオによって、病気がうつることを恐れて誰も近づかなかったのだと理由が語られる)、母が死んだ時に唯一近くにいてくれた---子供の頃から死ぬまで一貫してスサナの世話係である---フスティナについて語る。

母の死はどうやら、スサナがまだコマラにいた頃の出来事のようで、ならば母の死がコマラを離れる原因(きっかけ?)だったとも考えられる。しかし不思議なのは、この母の死の場面に父(バルトロメ)の影がまったくみられないことだ。この時にバルトロメは不在であり、スサナがコマラを離れた後に合流したとも考えられる。しかし、バルトロメにはコマラを強く嫌っている独白があり、強く嫌悪するからにはそこに住んでいたはずだろう。だから、この内的な語りにおいて、スサナは意図的に(あるいは意図しなううちに)父の存在を排除して、いないものとして語っているとも考えられる。

スサナは、父をバルトロメとファーストネームで呼ぶ。なぜ、父をバルトロメと呼ぶのか、おまえは娘ではないか、と問う父に、スサナは《そんなことない》と娘であることを否定する。どうして自分を父親と認めないのだ、気でも狂ったのかと続けて問う父に、《(気が狂っているということに)気づかなかったの?》と答える。この部分を読んで最初は、スサナは父を嫌悪して、拒絶しているのかと思った。しかし、スサナが寝室を真っ暗にしているのに乗じて、ペドロが部屋に忍び込んでスサナに夜這いをかける場面で、彼女はペドロをまずは猫と勘違いし、ついで《バルトロメなの?》と口にする。さらに、父の死を聞かされた時にスサナは、(ペドロの夜這いを)バルトロメがお別れにきたのだと解釈して納得する。これを読むと、スサナはバルトロメを避けていたというより、性的なパートナーとして受け入れていて、だからこそ「父」であるという事実の方を拒否していたのではないかとも考えられる。

(とはいえ、父が酷く嫌っているペドロとの結婚をスサナがあっさり受け入れたのは、バルトロメとの関係から逃れたいという気持ちがあったからだろう。)

この後もスサナは、見舞いに来た神父(パドレ)を父(パドレ)と勘違いするのだが、興味深いのは、ペドロが来た時には「バルトロメなの」と言うのに、神父が来た時には「父さんなの」と呼びかけるのだ。スサナのなかで、バトルロメと父とが分離していることのあらわれだろう。

●だが、(生前だけでなく死後においてもなお)スサナを苦しめつづけているのは、父との関係ではなく、夫(フロレンシオ)との性交における官能の記憶と、そのかけがえのない夫を失ってしまった悲しみの記憶の、両者の耐え難い程の強さと、その強すぎるコントラストなのだった。

ペドロは、《スサナは、自分のこれまでの記憶をことごとく消し去り、これからの人生を照らしてくれる灯明になってくれるはずだったのだ》と思う。ペドロにとってスサナは、自分のしてきた悪辣な行為によって背負った重たいカルマを落としてくれると期待された人物だったが、そのスサナ自身が、誰よりも重く過去に苦しむ人であった。そしてペドロは、《これまでの記憶》を消すどころか、過去から復讐されるかのように、愛する人の苦しむ姿をただ見続ける以外手だてがないという無力さに苦しみ、スサナの死後もさらに、その苦しみを苦しみつづける。

2021-08-30

●『ペドロ・パラモ』には、三人称で書かれる「ペドロ・パラモが支配するコマラに生きる人々」の部分と、一人称で書かれる「幽霊たたちのさざめき」の部分があると言えるが、《天井の半分が落ちた》部屋に住む男女のパートは、そのどちらにも属さない特殊な部分だと思われる。この部分は、フアン視点の一人称で書かれていて(フアンが寝ている時の男女の会話が書かれていたりもするが)、「幽霊たち」のパートに属すると一応は言えるが、この男女が幽霊であるのかはいまひとつはっきりしないし、幽霊だとしても「ペドロ・パラモが支配するコマラ」に生きた他の幽霊たちとは異なって、ペドロのことを口にしない(過去を生きる人ではない)。さらにこの男女は、「このあたりは生者よりも幽霊の方が数が多く、自分たちは少数の生者である」ということを言う。

この男女は兄と妹であり(兄の名はドニスで妹には名前がない)、男女の関係にある。妹はそのことについて強い後悔と恥の意識をもち、その罪のために紫色の染みが顔中にできていると思いこんでいる(フアンには「ありふれた顔」に見える)。そのために妹は外に出ることはせず、一日中部屋のなかで暮らしている。兄は《野生の子牛》を捜すために日中は外に出る。妹は、フアンにコーヒーやトルティージャ・パン、乾肉を与え、それはフアンにとってコマラでの最初の食物だと思われる(コマラでの最初の接触者であるエドゥビヘスは、フアンに《寝る前に何か食べにおいで》と言うが、フアンが何かを食べている描写はない)。妹は、貧しい暮らしのなかで無理をしてフアンに食事を与え(姉に頼んで《母さんが生きていたころからとっておいたきれいなシーツ》を食べ物に替える)、兄のいない夜にフアンをベッドに誘う。そしておそらく、フアンはそのことが原因で死んで、コマラという土地に閉じこめられる。

だから、この兄と妹は、「ペドロが支配したコマラに生きた人々」の幽霊ではないとしても、生者とも言えず、生と死を媒介する中間的で抽象的な存在と言えるだろう。フアンは、この二人とかかわることで、生の世界から死の世界へと移行していく。《母さんが生きていたころからとっておいたきれいなシーツ》と交換した食物を口にし、罪のために幽閉されているとも言える妹と寝ることで、一線を越え、生者の世界に戻ることが許されなくなる。この、生から死への移行部分を通過し、フアンが死者(=幽霊たちの声の聞き手)としてコマラで新たに目覚める(生まれ直す)ところで小説はちょうど中間くらいになり、ここから後半、本格的にコマラの物語とスサナの苦しみが描かれることになる(スサナ視点の一人称は、小説の後半になってはじめてあらわれる)。

(ここで、妹にとっての「姉」や「母」は、当然、兄のドニスにとっても「姉」であり「母」であるはずなのに、あたかも、妹にとってだけ「姉」や「母」が存在するかのような書き方がされているところがおもしろい。妹にだけ名前がないことも含めて、この兄と妹との非対称性は、「妹」に他のどの登場人物とも異なる、存在としての独自の位置を与えているように思われる。)

2021-08-29

●『ペドロ・パラモ』は、コマラという土地の死者たちの声が響く小説だ。だから、余所からコマラを訪れたフアン・プレシアドの出来ることは、ただ死者たちの声に耳を傾けることだけとなる。ただし、この小説にはもう一人、余所からコマラへやってくる人物がいる。スサナ・サン・ファンだ。スサナは三十年前にはコマラに住んでいて、幼少時のペドロ・パラモの憧憬の対象だった。だが程なくコマラを去り、その後も彼女に執着するペドロが、三十年も彼女の行方を探し続けて、ついに発見し、スサナの父(バルトロメ)に働きかけることでコマラに呼び戻すことになる。つまり、フアンは母(たち)に導かれてコマラに幽閉されるのだが、スサナは(この小説において象徴的な)「父」によってコマラに連れてこられる。

そして、フアンと同様にスサナもまた、コマラでは何もしない。ただ、フアンがひたすらコマラの死者たちの声を聞くのに対して、スサナは誰の声も聞こうとしない。彼女は、他者の過去・記憶(幽霊)に縛られるのではなく、自身の過去・記憶に縛られている。スサナは、今ここではなく、過去からやってくる回想や夢のなかで生きているという意味で、生前から既に幽霊であり、(むごいことに)死後もそのまま、同じ過去や夢に苦しめられる。コマラに住み、死後はコマラに埋葬されるが、スサナはコマラにはいないと言ってもいいだろう。ファンが、中身が空洞であることで他者たちの声を響かせる装置=人物だとしたら、スサナは、中身が充実しすぎているが故に「外」への関心を失った、ただ自身の内側の密度を生きる人物と言える。

スサナを支配する過去や夢は、まず、亡くなった夫(フロレンシオ)との激しい性愛の官能と、その夫を失ったことの苦しみだ。彼女は絶大な強度をもって回帰してくる過去の官能と苦痛に刺し貫かれていて、現在に対する興味のいっさいを失っている。また、現在への嫌悪の理由として、父(バルトロメ)への嫌悪もあるだろう(父からの性的な行為の強要がほのめかされている)。

コマラの支配者であり、膨大な力をもつペドロでも、事実上「コマラ」にも「現在」にも存在しないスサナに対しては、何の助けも与えられない。記憶や夢の回帰に耐えるようにベッドでのたうっているスサナを見守るだけだ。そして、しばらくするとスサナは死んでしまう。コマラや、近隣の街に大きな影響力をもつペドロも、「コマラ(現在)の内に持ち込まれたコマラ(現在)の外」に対して何も力を及ぼせない。

また、欲しいものは何でも手に入るようにみえるペドロが、スサナというたった一人の女性への執着を捨てきれないのもまた、彼女と過ごした幼少期の記憶(幸福)があまりに強くなまなましいからだろう。ペドロもまた、強すぎる過去の回帰によって、「(もはや、今、ここ、にはいない)現在ではなく過去に生きる女性」への執着から逃れられない。

過去への執着にとらわれ、コマラという土地にとらわれて、嘆きつづける幽霊たちと同様に、スサナもまた死後も嘆きつづける。そして、血も涙もないようにみえる暴君のペドロでさえ、過去からは自由ではなく、過去(=スサナ)を前にして自らの「無力」を味わう。

●だが、ペドロは、あたかも彼が解脱したかのように、死後の嘆きがない。死ぬと、《石ころのように崩れ》て消えるのだ。それは彼が、死後の準備として、自らの所有物とみなし、あるいは自分自身の分身とみなしたコマラの繁栄を、自らの意志で滅ぼしたからではないか。

あるいは逆に、暴君であった彼が、幽霊たちのコミュニティから排除されているのかもしれないが。いや、主に一人称で語られる幽霊たちのコミュニティは、そもそも母たち(母であり得たかもしれない者、母であり得なかった者も含む)の場であって、父のため場ではないということかもしれない。だからそこでフアンは「母の息子」として、一方的に聞き役にまわらなければならないのか(「母」ではないスサナの声を聞くために、フアンという媒介が必要だったのかもしれない)。

●あらゆる人物が自らの無力を噛みしめるようなこの小説で、もっとも強く苦く「無力」を表現している人物が、レンテリア神父ではないか。登場人物のなかで最も内省的であり、悪党に支配された地区の神父として死者に許しを与えるという自分の存在の欺瞞に自覚的であり、それをニヒリスティックに受け流すことも出来ず、繰り返し回帰する強い自責と無力感に苛まれつづけることになる。そしてその末に、銃をとってゲリラ軍に参加する。

 

2021-08-28

●お知らせ。VECTIONによる「苦痛トークン」についてのエッセイの第四回めをアップしました。「苦痛トークン」の具体的なイメージが示されます。

苦痛のトレーサビリティで組織を改善する 4: 苦痛トークンとはどんなものか

https://spotlight.soy/detail?article_id=zh7koz2xc

What is Pain Token? / Implementing Pain Tracing Blockchain into Organizations (4)

https://vection.medium.com/what-is-pain-token-c46bba1cad85

●『ペドロ・バラモ』を構成するたくさんの断片(自分で数えたわけではないが69あるという)は、一人称で記述されているものもあれば、三人称で記述されているものもある。ぼくの見逃しがなければ、フアン・ブレシアドが登場する場面はすべて彼の一人称で語られ、その他、スサナ・サン・ファンには一人称で語るパートがある(スサナの棺桶は、フアンとドロテアの棺桶に近く、スサナによる一人称は、スサナの語りをフアンが聞いているので、フアンの一人称だと解釈することも可能だが)。子供時代のペドロ・バラモが語られるパートで、限りなく一人称に近い記述がなされるものがあるが、そこでペドロは《彼》と呼ばれている(だが、これらのパートは成人したペドロを語る三人称の記述とは明らかにトーンが異なって彼の内心にとても近く、「彼」を「わたし」と書き直しても違和感はない)。レンテリア神父のパートのいくつかは、きわめて内省性が高く、三人称記述だが(ペドロの子供時代に次いで)一人称性が強いと言える。一方、インディオたちが山から下りてくる場面など、誰の視点か分からず、三人称性の高い場面も存在する。また、ドロレス・プレシアド、ペドロ・パラモ、スサナ・サン・ファンには、「《》」で括られて、内心が直接露出する部分がある。幽霊たちが長々と「語る」場面は、そこだけ取り出せば一人称的記述ともいえる。

無理矢理に整理すれば、(様々な幽霊と出会う)フアンの語る一人称部分と、死後のスサナの語りをフアンが聞いているというスサナの間接的一人称部分、そして、いわゆる(過去となった)現実を示している三人称の部分という、三つくらいに語りの層を分けることはできそうだ。しかし実際に読んでいる感触としては、断片ごとに語りと対象とのさまざまな距離や関係があり、それが入り交じって、小説全体として自由間接話法に近いという方がよいと思われる。

●余所の土地からコマラへやってきて、様々な幽霊に出会い、自分が死んだ後にも幽霊たちの声を聞きつづけるフアンのパートは、時系列順に並べられている。だが、彼に語りかける幽霊たちの話や、三人称で語られる「現実」部分がたちあがってくる順番が、時系列通りではない。ネットワーク状にひろがる幽霊たちのさざめきに、継起性を与えているのがフアンという存在であり、その意味でも彼は観客であり、読者の代理であろう。たとえば、一人の人間が、自分が存在するより前の歴史を知ろうとする時、出来事の記憶-記録を追いかけ、それを経験する順番は、歴史的な順序とは異なることになるだろう。まず十年前の事件を知り、それが五年前の出来事に発展していくことを知る。しかしその源流には十五年前の出来事があったことを、後になって知る、ということがあるとすれば、それは、最初から整理された、十五年前→十年前→五年前という流れを知ることとは、まったく別の経験となるだろう。歴史的な順序と経験的な順序の「異なり」こそが、あらすじに還元できない作品に固有の経験をつくりだす。つながり方がよく分からない断片にひとつひとつぶつかっていきながら、その都度、描かれる像や先の展開の予測のありかたが変化していく。