しつこいようだけど「下品」について。
ぼくが下品という言葉を使う時は、大抵、半分くらいは肯定的な意味を含んでしまう。半分くらいは肯定的、とはどういう意味か。
それは、前にも書いたけど、ぼくの「趣味」には合わないにもかかわらず、ぼくに対して何かしらの力をもって働きかけてくるもののことを、下品と言うとしたら、趣味を超えてまでもぼくに働きかけてくるその「力」の存在の方を肯定的にとらえるなら、肯定であるし、そんな「下品」なものに力を感じてしまう「ぼく自身」の側(の判断力)を否定的なものとして捕らえるなら、否定である、ということ。
単に無視しておけばよいものなら無視していればよいのに、それをわざわざ、下品、と名指してしまうということは、ぼく自身がその下品なものに何かしらの作用を受けてしまっている、ということだ。何かしらの力を感じているにもかかわらず、その力をどうしてもすんなり肯定できない、という際どい感覚をどのように処理してよいか途方に暮れそうなときに、ぼくはしばしば、ぶっきらぼうに、下品だ、といって、とりあえずの安定を得ようとしてしまうみたいだ。
だから本当は下品なものについてはきちんと考えなければいけないのだ。それに力を感じてしまうのが自分の「甘さ」なのか、それともその、下品なもの、に本当に何かしらの「価値(意味)」があるのかを。
もっと分りやすく言ってしまうと、ぼくにとって、肯定し難いけど確かに強い力で作用してくるもの、とは、どうも「通俗的な甘さ」とか「退廃的な毒」のようなものと結びついているらしい。「通俗的な甘さ」とか「退廃的な毒」に対する<媚び>のような表情に接して反応する時、どうしてもぼくは、下品だ ! 、と言ってしまいたくなるみたい。
2、3日前、バイトの勤務先の近くの団地で、非常階段の手すりに布団が2枚干してあった。こんなところに干すのか ! と、思っていた。今日もまた、同じ場所に、同じ布団が、全く同じようにして干してあった。まさかそのままってことはないだろうなあ。雨も降ったし。まあ、どうでもいいけど。干してある布団が、強い陽の光を反射して輝いてたりすると、ああ、これって、絵画だなあ、なんて思ってしまう。