●『しんせかい』(FICTION)について、もうちょっと。この作品はぼくにとって、すごく面白いという側面と、受け入れ難いという側面の、肯定的な意味と否定的な意味の両面で、どちらにしろ強烈で、どちらか一方にジャッジして済ませるわけにはいかない困った作品なのだった。前半は確かに強烈に面白いのだが、そのことをもって、後半の受け入れ難さをチャラにすることも出来ない。
●この作品で最も緊張感が漲る、面白い場面は、ミウラとアレクが釣りをしているところから始まり、そこにオオキとコタニがやってきて、オオキがみちこに告白したことをイケタニが怒って「殺してやる」とか言っているという話が出て、そこに顔面に殴られた跡のあるみちこがあらわれ、イケタニが銃をもって暴れ回る場面と、それにつづいて、イケタニにビビって失禁したコタニが、舞台上で全裸になって着替え(設定上はコタニの部屋なので)、そこで寝ていると、最初にオオキが、次に、ミウラ、アレク、イケタニが次々やってくる場面だと思う。
この場面の面白さをどう説明したらよいのか。とにかく、暗転のあとあらわれるミウラとアレクの様子がいきなり異様なのだった。一端暗くなった舞台が明るくなると、俳優の実生活に支障があるのではないかというくらいに気合いの入った剃り込みのあるミウラと、白塗りに金髪のアレクが、あきらかにやばい、妙な姿勢で客席に対している。この、見てはいけないものを見てしまったかのような(説明以前の)視覚的なインパクトが尋常ではない。この異様さは、アレクがロシア人という設定であること、二人が釣りをしているという設定であることが説明されて、ある程度は納得されるのだが、それでも最初に感じたやばいインパクトが消えるわけではない。そこにオオキとコタニがやってきて、作業場の新入りであるコタニを紹介するが、二人は無視してまったく反応しない。一度去りかけたオオキが再び二人の元へもどり、お前らがオレを嫌いのなはかまわないが、不安を抱えて新入りが来てるのだから自己紹介ぐらいしろ、とキレるのだが、それに対しても二人はまったく無反応なのだが、唐突にぽつりとミウラが(半笑いで)、オオキさん、みちこさんに好きだって言ったでしょ、それでイケタニさんがオオキさんを殺すって暴れてますよ、みたいな関係ないことを言う。(ここまで、オオキは作業場の責任者であるような感じだったのだが、ここで、オオキも他の従業員と同格でしかないことが察せられる。)ここでオオキが急にうろたえるのだが、このうろたえぶりもあまりに唐突で過剰であるように感じられる。しかし、そのすぐ後に、みちこが顔を痣だらけにして現れることで、この「殺す」がたんに「ただではすませない」という意味ではなく、本当に「殺し」かねないというニュアンスを含むものだという気配が広がる。一体ここはどんな場所なんだ、イケタニってどんな奴なんだ、という不穏な気配が急速に濃厚になるなか、みるからに凶暴そうな破壊力のある雰囲気をもったイケタニが銃をもって登場し、みちこに向かって発砲さえするので(ここでは、ピナ・バウシュの『パレルモパレルモ』で煉瓦が崩れることに素で驚くように、火薬の炸裂に素で驚く)、場面はさらにとんでもなく混乱することになる(この場面でのイケタニの破壊力は本当に凄かった)。
こんな説明では何も表現できていないのだが、この場面での、それぞれの人物のごろっとした存在感というか、強烈にヤバい感じや、全体の展開の多方向でアナーキーでナンセンスな感じは尋常ではなく(かつ、すごく笑えて)、この、不穏で不条理でとげとげした感じは、行き場も住む場所もない青年コタニから見た世界の感触そのものを表現してもいる(このような世界からの防衛として、彼はマスクをつけているのだろう)。
しかし、この後の、コタニの部屋へ次々と登場人物が押し掛けて来る場面は、その前の、不穏で不条理でとげとげした感じとは世界のトーンが変わる。オオキは、コタニが不安に思っているだろうと気遣って部屋を訪れるのだし、無愛想で何を考えているのかわからないミウラも、不自由な身体の不思議な動きで、コタニに食事をもってきてくれる。ゲイであるアレクはコタニに性的な関心をもつ(部屋のなかに隠れていた !)。つまり、彼らは、強烈にクセのある異様な人物たちではあるが、まったく不条理で関係をもつことが不可能な他者ではなく、それぞれの関心や欲望をもってコタニに配慮し、接触してくるのであって、コタニはネットカフェで宿泊していた時のように孤独ではない(つまりこの「しんせかい」はまったく不穏で不条理な場所ではない)。あれだけ凶暴だったイケタニでさえ、オオキの腕の骨を折ってしまったことを(独特の強烈にしつこいやり方でではあるが)後悔し、謝っている(銃は本物ではなかった)。とはいえここではまだ、それぞれの人物にごろっとした異物感があり、ミウラやアレクが気味の悪い存在であることにはかわりなく、イケタニが強烈にしつこくて破壊力のある困った人であることにも変わりはない(だから面白い)。コタニのマスクについて、オオキが「暑くないか」と聞く以外は誰も特に触れることがなく、ミウラの身体の不自由さについても、特に誰も触れることはなく、それはそういうものとして放置される感じとかも、この作品の独自の調子が感じられて面白い。
この二つの場面のトーンの変化は、作品全体のトーンの変化でもある。それまでは、世界の不穏で不条理でとげとげしい感触こそが(しかもそれが「笑える」ようなかたちで)描かれていたのが、一転、クセのある登場人物たちの人間的な交流の話になってゆく。それはそれで理解出来るし、というか、この、コタニにとっての世界の感触の変化をこそ示したかったのだと思うのだが(距離が離れ、よく知らない時は不条理に見えた世界が、そこに近付き、ある程度親しくなると、必ずしもそうではないことが分かる)、しかしそこで、世界の不穏で不条理でとげとげした感触が一気に後退してしまい、人間的な交流の話が、通俗的な人情話の方向へと急速に流れていってしまうようにぼくには思われた(急に、みんないい人になってしまう、というか)。そこで、人間的な交流の話も描きつつ、世界の不穏で不条理な感触も同時に残すような、拮抗というか、踏みとどまりのようなものがないと、作品がするっと流れてしまうように感じられる。
この作品でぼくがもっとも納得出来ないのは、オオキが余命一ヶ月であるという設定だった。このことが、イケタニの言葉を借りれば、この作品の後半を「なんか面倒くさい」ものにしている。なんなら、オオキはすぐに死んでしまい、幽霊となって戻ってきて、みちこにつきまとい、みちこはみちこで、幽霊につきまとわれることがまんざらでもない様子で、それにイケタニがキレる、といいう話(全然違った作品になってしまうし、あまり面白い話ではないけど)の方が、まだ、すっきりするようにさえ思われる。ぼくには、死を前にした猶予の一ヶ月みたいな時間の設定が、この作品の後半を曇らせているような気がしてならない。死を前にすると、オオキやイケタニのような人物でさえ内省的にならざるを得ない、というのは分かるし、それを通じてコタニに何かしらの「変化」を与えたかったというのも分かるのだが、こういう形で「死」を持ち出してくるのは、通俗的過ぎるのではないだろうか、と思った。
●上記の二つの場面の間にある、コタニが全裸になって着替える場面は、この作品の独自のリアリティのあり様をあらわしているように思った。俳優の鍛えられた身体は、その裸を見ることに対し、観客に、気まずさや恥ずかしさといった抵抗感を生じさせない。それは安心して(距離をもって)みられるフィクションのような「形」をもっている。しかし、ここで俳優は、おそらく観客から性器が見えないように配慮した動きで、客に背中をむけて着替える。ここで隠すという仕草(隠すという演技ではなく、実際に「隠して」いる)が、絶妙なサスペンスというか、妙な生々しさを生む。これは、見えそうで見えないのがエロい(それが結果として誘惑の仕草となる)といったせこい話ではなく、身体そのものはフィクションとして成立するような「形」をもっているが、「隠す」という行為は現実である、というようなことだ。(設定としてはコタニが部屋で一人でいるはずなのだから、隠すような動きで着替えるのは変なのだが、設定としてのリアリズムとは別のリアルさが問題となっている。)
あと、冒頭近くのヘリコプターを、音だけで処理するのではなく、ちゃちな模型を実際に見せるというのも、フィクションと現実との微妙な距離感を示していて面白いと思った。(開演前に楽屋の様子をスクリーンで見せたりとかも。あの白塗りの男は一体何の役なんだ、というかどんな話なんだ、子供がいるけどあの子の出るのか、とかいろいろ思う。)
●関係ないけど、コタニがネットカフェの個室で、パソコンの脇に両親の位牌を置く場面で、荒川修作が「仏壇のなかに住む」と言っていてることを思い出した。