●新宿シアタートップスで『しんせかい』(FICTION)。何と言ったらよいのか...。一つの作品を観て、前半と後半とで、観ているこちらの感情として、こんなにも大きな落差を経験したのはほとんどはじめてではないかと思う。前半は衝撃的なまでに面白くて、新たな登場人物が一人加わるたびに、うわーっ、すげーっ、と思い、その展開の突飛さと凄まじさに興奮して、同時に笑い転げ、こんなに面白いものがあるのかと驚いた。しかし、あるところから、えっ、と疑問が生じて、後半は、前半にあれだけ盛り上がった気持ちがすっかりしぼんでしまい、「ぼくにはこれは受け入れられない」という拒絶の気持ちばかりが湧き上がってくるという感じだった。
具体的に言えば、前半の主人公と行ってよいであろう覆面少年コタニが、訳がわからないまま、訳の分からない現場に紛れ込んでしまい、訳の分からない人物たちに出会って行く展開は本当に面白くて、中学生の時にはじめて蛭子能収を読んだ時のような衝撃だったのだが、そこで出会ったオオキさんという人物が病気で病院に運ばれるあたりから、(藤山寛美とかみたいな)ベタな人情喜劇っぽいウエットな感触が混じりはじめ、あれっ、と、それまで有無を言わせぬ強力な展開だったのに少し疑問が生じはじめて、でもその時点では、人情喜劇になっても、基本的な基底が壊れているところがやっぱ凄いと思っていたのだけど、その後、オオキさんが病院を抜け出して仕事場に戻って来るあたりになると、演出としても演技としても台詞としても、完全に、ああ、これはぼくには受け入れられないものだ、と感じるようになってしまった(後半は全然笑えなかった)。言いたいことというか、主題の次元では凄く分かると言うか、壊れた人たちの壊れた話としてだけ終わらせたくないというのは理解出来るし、言葉のレベルというか、意味のレベルでは、ここで語られる「死」について、ぐっとくるものさえあるのだが、しかし、表現のレベルで、これをやられてしまったら、「現代芸術家」として、ぼくにはそれは受け入れ難い(これでは、昔風のプロレタリア物になってしまうのではないだろうか)、となってしまう。
最近では、チェルフィッチュとかフランケンズとかを観るようになって、自分が基本的には演劇が嫌いだということをほとんど忘れかけていたのだが、この作品の後半で、そのことを久しぶりに思い出してしまった。舞台の最も重要な場面で、俳優たちが観客に向けて見栄を切るような感じで長ゼリフを喋ったり、俳優たちみんなで歌をうたって感情を盛り上げたりするというのは、まさに括弧つきの「演劇」そのもので、ぼくはこれがダメで演劇が嫌いになったのだった。前半、ほとんど加工されていないナマの存在がでろっと現れてしまったようなそれぞれの登場人物たちが、後半にになると、あるフレームのなかの役割(キャラ)にしか見えなくなってしまう。最初の登場があまりにも衝撃的で素晴らしかったみちこさえも(最初だけでなく、「またブログに悪口書かれた !」の突拍子もなさとかも素晴らしい)、後半では何故かあまりにも分りやすい類型的キャラにしか見えなくなってしまう。
例えば、既に印象派が存在し、セザンヌやマティスが存在する以上、古典的でベタな明暗法でモデリングされた絵画を、(既にある古典は別だけど)現代絵画として受け入れることは、ぼくには出来ない。それがいかに上手なものであっても、というか、上手であればあるほど、それを受け入れることは困難になってくる。(これはぼくの「歴史」に囚われた偏狭さでしかないかもしれないし、あるいは、もともと歴史などとは無関係に、たんに資質として明暗法が嫌いなだけかもしれないのだが。)この作品で、オオキやイケタニを演じた俳優は、相当な力量があるように思われるのだが、だからこそいっそう、後半のベタに「演劇」的な展開はぼくには受け入れ難いものになる(前半は、様々な人物たちが並立的でアナーキーに入り乱れることで成立していたのに、後半はイケタニとオオキの「名演」によって舞台を支えようとし過ぎている、というのか。オオキの、最初の登場場面での胡散臭さと正体不明具合は素晴らしいし、イケタニも、「デジャブだ」とか言っている場面とかの前半は破壊力があって本当に素晴らしいのだが、後半のオオキの長ゼリフやイケタニの演技は、受け入れ難い)。
否定的なことばかり書いてしまっているけど、それでも、この作品の前半部分が突拍子もなく面白いことにかわりはない。前半があまにり面白過ぎるので、後半を観てのしょんぼり感がいっそう強調されてしまうのだけど(本当に凄い落差で、後半は客席に座っているのさえ辛かった)、とはいえ、それによって前半の面白さそのものまで否定されるわけでも、消えてしまうわけでもない。この作品の前半部分の面白さの感触に触れてしまったことはぼくにとって大きな事件で、それを観る前と観た後とでは、世界の見え方がかわってしまうくらいのものだ。(ぼくはここで、この作品の前半について、ただ「面白い」と言っているだけで、その面白さの質にはまったく触れられていないのだが、そのことが「衝撃」の大きさをあらわしてもいると思う。冒頭近くのヘリコプターやウサギ親子で、既にやられてしまっていたのだった。こうやって少しずつ思い出してゆくと、後半のしょんぼり感が少しずつ晴れて、前半のウキウキ感が徐々に甦ってくるのだが。)