午前中、洗濯のあいだに食事をしながらテレビを見ていたら、坂井真紀が、「 アマゾンの奥地に取材に行った番組 」の宣伝のために、バラエティ番組に出ていた。そこで、アマゾンで大変だったこと、というのを幾つか挙げていて、その一つに、移動に100時間以上かかった、という項目があって、それを聞いた出演者一同が、えーっ、そんなにかかるの、という大きなリアクションをしていた。でも、そういう時間感覚って、どうなんだろうか。
むしろ、たった100時間、まる5日もかからずに行けてしまうことの方に、驚くべきなのではないか。彼女は、アマゾンの奥の、現代文明から隔絶したような生活をしている人たちの集落へ取材に行った訳で、「 全く人手の入ってない自然 」や「 現代文明とは隔絶した人たちの住む場所 」まで、東京からたった100時間で行けるというのは、誰でもがその気になればすぐに行けてしまい、それらを簡単に壊すことが出来てしまう、ということだ。おそらく100年前だったら、その場所へ行くだけでも一生の仕事だっただろうし、わざわざそんな場所へ行こうとするのは、人類学者か宣教師くらいのものだったろうけど、今では、ちょっとしたテレビ番組のクルーが芸能人を連れて行くことが出来てしまうのだ。(他人の領域を侵しているという意識もなく。)そこで誰でもがたやすく、「 自分が見失ってしまった何か」や「 自分という存在のちっぽけさ 」なんかを感じてしまったりする。これってすごく恐いことだ。
あ、なんかいつの間にか言いたいことがズレてしまっている。ぼくが言いたかったのは、時間の感覚が変容してしまっている、ということの方だったのに。たとえば、こういう時間感覚の変容によって、ヴェンダースは、もうロードムービーを作ることが出来なくなった。それは、「 映画作家 」個人の問題ではないのだった。
午後、ビデオを返却してから、アトリエで制作。夜、今まで撮影したテープを見ながら、友人のDJのためのビデオの構想を練る。
中原俊の「 コキーユ」。昨日は見終わったばかりで感想を書けなかったけど、こういう、とても地味だけど佳い作品が、きちんと評価されてないのは何か間違っているように思う。映画の観客ってそんなバカばっかりなのか。別に何か難しいことをやっている訳でもないのに。「 コキーユ」は、映画において繊細な描写の積み重ねがいかに大事かを教えてくれる。一見なんでもないような物事の繊細な配置の仕方に注目。終盤、ちょっと成瀬を思わせるような「日本映画的な情感」のようなものがいきなりせりあがってくるのは、個人的な趣味としては、どうかと思うけど。(あの温泉 ! )回想シーンの処理も、ちょっと安易か。でも、見てない人はビデオを探して是非見て下さい。損はしないと思う。終わり方にも、ちょっと疑問があるけど・・・。主演、小林薫風吹ジュン。発売元、松竹ホームビデオ。たしか97分。