近代芸術のひとつの典型的なあり方として、特定の場所に作品が展示=公開され、それを観客=公衆がそこまで出かけて行って見る=受容する、という形がある。何もこれは美術に限ったことではなく、音楽、演劇、映画、なども、基本的にはこのような形式で機能している。それを展示=公開するための半ばパブリックな場があって、そこに不特定多数の人たちが集まって、それを鑑賞=受容する。
しかし、そのような形式は、緩慢に死を迎えつつあるようだ。
最も顕著な例として音楽について考えてみると、少なくともポピュラー音楽に関しては、上記の機能は空洞化している。ポピュラー音楽家はまず、完成された商品としてのCDを制作し、それを流通=販売させるためのプロモーション=イヴェントの一環としてのライブを行う。
極端なことを言えば、グレイのライヴにはグレイのファンしか行かない。彼らはあらかじめグレイの音楽を良く知っている。よって、その場でのパフォーマンス=演奏の質が問われることはなく、ファンにとっては、第一に、ナマのグレイが見られる、という価値があり、第二に、ファンが大勢あつまる場所で一体感を感じることが出来る、という価値がある。音楽は、家に帰ってからCDでじっくり聴けばよい。だからライブという祝祭において意味があるのは、グレイの「 偶像化 」を押し進めることにあるのであって、音楽を聴かせることにあるのではない。グレイのファンたちは、CDによって既に一人一人ばらばらにグレイの音楽を受容しているのであって、ライブは音楽を受容する場ではない。
上記の例とは異なるが、ビートルズグレン・グールドからテクノやヒップポップに至るまでのトラックメイカーたちは、観客=公衆の前での演奏という行為ではなく、直接、録音された音、を制作するという方向へ向かう。録音が演奏の記録=再現なのではなく、録音することこそが、創作行為である、と考える。さらに重要なのは、そこで録音=創作されたものがコピーされ、そのコピーされたもの(レコード)こそが「 作品 」として流通する。
つまり、オーディエンスがパブリックな場所へ作品を受容するために出かけて行く、のではなく、それぞれのオーディエンスのプライヴェートな空間へ向けて、作品が、送信され、受信される、という形式が生み出される。(ライブか録音か、という対立の問題よりも、このように、作品が受容される場=空間が変質した、ということこそが重要)
オリジナルかコピーか、などという問題よりも、受容の場の転倒こそが、二十世紀に起こった「 作品 」のあり方の、最も大きくかつ深刻な問題なのだ。パブリックな場での公開、そしてそこへ集まる公衆による受容、という体制が崩れてしまうとすると、そこでは近代的な意味での作品が(そして批評が)成立することが、著しく困難になってしまうだろう。(そして、このような土壌によって、オタク、といわれる存在の発生も可能となった)
映画は、映画館という場所で観客を前にして作品が上映=公開されそこで受容される、という意味で、とても近代的なメディアだ。しかし、現在制作されている映画のほとんどは、劇場公開による収益だけではなく、テレビの放送権、ビデオの販売やレンタルによる収入などを、あらかじめ計算に入れて制作されている。今では、ビデオや多チャンネル化したテレビ放送からの収入をあてにしないで、劇場による収益だけで映画をつくることは不可能だ。なかには始めから劇場公開の収入など全く期待せずに、レンタルビデオ店への販売だけでペイしようとする映画も少なからずあるくらいだ。日本で制作きれる刺激的で野心的な映画作品の多くは、そのような体制によって辛うじて制作が可能になっている、というのが現状だろう。
つまりここでも、テレビやビデオなどによって、作品がオーディエンスのプライヴェートな空間へ送信=受信される、という方向へ向かわざるを得なくなる。そしてそのことは、作品のあり方や質そのものを変化させないはずがないだろう。もはや、映画は劇場で観るべきだ、という言葉は意味を失いつつある。映画はそれとは別の形式のなかに身をおくことによって、なんとか意味のあるものとして生き残ろうとしているのだ。(劇場で見るべきだという映画は、どんどんディズニーランドのようなものでしかなくなってしまっている)
では美術作品はどうか。二十世紀の美術、とくに五十年代のアメリカ型絵画からインスタレーションへ至るまでは、美術は「 場と積極的に関わる 」という方向で発展してきたので(ぼくはそれが基本的に間違っていると思うのだが・・)、今までみてきたような、公開から発信=受信へという流れに対応するのは難しいだろう。古典的な絵画、彫刻から、最先端の技術を用いたメディア・アートのようなものまで、結局、作品がある場所に設置されて公開されるという形式は全く変わっていないし、変わりようもない。(作品が街中に出たり山に入ったりしても同じこと)公開という形式をとるかぎり、それがどんなに新しく珍奇な表情をもっていたとしても、それは近代的な作品であることから逃れられない。
近代的なものでしかないのなら、もっと堂々と近代的であることを主張すればいいと思う。ていうか、それしかないでしょう。多分。
美術はもともと観客が少ない上に、公開という制度に縛られざるを得ない。しかもインスタレーションなんかだと、公開が終わると無くなってしまう。その結果、作品の評価=批評というのが、その場の雰囲気や、その時代のコンテキストに束縛されてしまう度合いが著しく強くなってしまう。このことが美術というものをメチャクチャ息苦しくて風通しの悪いものにしている。(もっと様々な見方があるはずなのに、評価が単線的になってしまいがち)あの時観ることのできなかった作品は二度と観ることができない。ふり返って考えてみようとしても、残っているのは、いかにもそれっぽい写真による記録だけ。まともにアーカイブとして機能してくれてるものは何もない。だったら一発勝負、旅の恥はかき捨て、目立てば勝ちでしょう、っていう無責任なことにしかならないのも、しょうがないところ。批評家だって言いっぱなしだし、美術館だってやりっぱなしだしね。(あ、話が逸れてしまった。)
ぼくは何も「 日本人は意識改革をしなければならない・・ 」なんてことを声だかに語るクソ・エコノミストみたいに、公開という形式から、送信=受信という形式に移行しなければならない、なんて言いたい訳じゃない。おそらく美術はそれに対応できない。しかし現実が確実にそういう方向へ動いていることは最低でも意識していなければいけないと思う。その上で、ここに一点しかない「 もの 」としての美術作品が、なんとか立ち上がって見えるようにできないかと考える。まあ、それはどっちにしても、圧倒的に地味でマイナーな立ち上がり方でしかないのは、わかっているのだけど。