DLPという新しい映写機があって、フィルムを使わずにデジタルなデータだけで映画が上映できるらしい。フィルムをプリントするコストを削減できる・・・、うーん、とうとう映画館からもフィルムが消えてしまう日が近いみたい。まあ、撮影という点は別として、流通や保存という観点からみると、フィルムというのは決して優秀な基底材とはいえない訳だから、もし、上映のクオリティさえ問題がなければ、そいうい技術は、とても良いことなのかも。でも、この手の技術というのは、往々にして大資本やごくごく一般的な流通形態にのみ奉仕するような形で発展してしまいがちなのだけど、もっと別の可能性、オルタナティブなものに対しても開かれているような形態として発展してほしい、と思うけど、その辺は悲観的かなあ。
徹夜あけ(といっても正確には数時間は眠ってるけど)の重たい身体をひきづって、祖師谷大蔵まで展覧会を観にゆく。今日が最終日なので、なんとか行く。AM11:00からだと思っていたら12:00からだった。駅の周辺を一時間ほど、ぶらぶらする。
母袋俊也展。ものすごく失礼なことを承知で言ってしまうけど、母袋さんの作品のイメージの作り方は、風呂屋のペンキ絵にそっくりだなあ、という印象をもってしまう。ぼくは実際によく銭湯へ行くのでこの目で観てるのだけど、本当に似ちゃってますよ。(おそらく、色をのせてゆくプロセスがそっくりなのだと思いますが・・。)違っているのは、ブランクがあるかないか、複数のパネルに分割されているかいないか、あと、意図的にストロークを残しているかいないか、と、このくらい。
母袋さんの最近の仕事を観ていつも思うのは、母袋さん自身が、自分の作品のフォーマットに本当にリアリティを感じているのだろうか、ということ。10年以上前、ぼくが初めて六本木のストライプハウスで観たときの作品は、複数パネルにも、空白の部分にも、充分にリアリティを感じられたし、その意味も理解出来たし、空間も充実していたように思うのだけど、最近のものは、形骸化しているとしか、ぼくには見えません。ブランクの部分に描かれた意味ありげなストロークなんかも、それ自体としては闊達な、いきいきとしたストロークなのかもしれないけど、それが空間とどのように関係しているのかが、ぼくには全然みえないし、イメージの描かれた部分との関連づけとしても、うまく機能しているようにはどうしてもみえない。だいだいブランクの存在自体に必然性が感じられません。
あと、作品の配置の仕方についても、ぼくには何故絵画があんな風にパノラマ風にインスタレーションされていなければならないのかが理解できません。あんなことするより、実際に藤野の山の上に登って、その景色を眺めた方がずっといい決まっている、と思えてしまいます。イメージを現すメディアとして写真やら映画やらCGなどもあり、バーチャルな体験をさせるメディアとしてゲームやら遊園地などがこれほど発達している時代に、何故、わざわざ絵具や布を使って絵が描かれなければならないのか、について、どのようにお考えなのかお聞きしたいとも感じますが・・・。
母袋さんがこのHPを御覧になっているとは思えませんけど、もし何かの機会でこの文章が目に入って、反論、あるいは、なに生意気なこと言ってやがんだ、10年早ええんだよ、バカヤロー! 死ね ! ・・等、ございましたら、メールでも頂けるとありがたいのですが・・・。
帰りの電車のなか、あまりにも眠くて、隣に座っているオヤジに思いっきりもたれかかって眠ってしまった。家についてから、さらに眠る。
夜、起きて買い物にでたら、かなり大粒の雪。