人はどのようにして何かを知ることができるのか。というか、何かを知ることとは、どういうことなのか。
何かを知るには時間がかかる。そのものの傍らにいて、長い時間を過ごす。時にはそのものの傍らにいる、ということさえ忘れてしまったりもしながら・・・。そうでなければ、人は、何か、今までに知らなかったことを知ることなんかできない。
あるものの傍らにいて、それとともに長い時間を過ごす。しかし、それで本当に何かを知ることができたと言えるのだろうか。そのことによって、見えなくなることも多いのではないか。その街に長いこと住んでいる人は、確かにその街の隅から隅まで知り尽くしているかもしれないけれど、初めてその街を訪れた人のような、ヴィヴィッドな印象を感じることはできなくなってしまっている。ぼくは、ぼくの身体が発している臭いを、感じることができなくなってしまっている。人は、あるものを得ることによって、あるものを失う。だとしたら、どのような距離、どのような位置関係でもって、事物やことがらと触れあうことが、より良く知る、ということになるのだろうか。
おそらくぼくは、少しばかり混乱してしまっている。かなり長いこと一緒に過ごしている作品たちの前で、これらのものたちを、自分でどのように評価したらよいのか、そもそも評価すべきなのか、自分の作った作品を自分で評価するとしたら、それはどのような基準によるのか、評価したからどうだというのか、もしもこれらのものが、徹底的に駄目だとしたら、その事実はぼくにとってどのような意味をもつのか。こういう考えを巡らしていること自体が、どうしようもなく無駄なことだと言えるのではないのか。
自分の作品を知る ?。知る、という言葉を使うのがいけないのだろうか。知る、という言葉のなかには支配するというニュアンスが分かち難く含まれている。知る、ことによって対象を支配=操作する。問題なのは、あるものの傍らでは長い間佇み、別のものとは、近くを通るだけでそのまま行ってしまう、という事実そのものの方にあるのだろう。それとともにあること、一瞬だけ触れること、触れることもなく擦れ違うこと、遠くから、ただ眺めること。
ところで、絵を描くとは触れることである。比喩的な言い方でもなんでもなく、ただ、絵具やカンバスに触れる、ということ。しかし、絵を観るには、距離が必要で、触れることではない。イメージに触れることはできない。このバカみたいに単純な、触れることと観ることの分裂が、絵画というメディアの魅力の本質なのだ、とかなんとか・・・。