テレビの上のシクラメンが枯れている。
久しぶりに、バスに乗る。晴れたいい天気の日に、時間に余裕があって乗るバスは、すごくいい感じ。電車とも、自家用車とも違う、独特の速度感。身体に感じる振動。大きな車体がカーブを曲がる時の運動感。両側についた窓から、たっぷりと光が入ってくるし、方向を変える度に、光が変わる。線路の上を滑る、のではなくて、街の内側に、ぐんぐんと入り込んで行く、という感じ。(でも、急いでいる時に乗るバスは、無茶苦茶イライラする。)
本屋。捜している本、ここでも見つからず。パスカル・ボニゼール『歪形するフレーム』、ポール・ヴィリリオ『戦争と映画』(これをまだ読んでいなかったとは、恥ずかしい)を購入してしまう。ベケットの晩年の散文作品の新しい翻訳が出ていて、買おうかどうか迷ったのだけど、結局やめてしまった。家に着いてから後悔する。
CDウォークマンで『guitar,drums 'n' bass』。ベースと、それに対するデレク・ベイリーのギターのインプロビゼイションの、関係の持ち方 ? 。これは電車のなかで聴いた。
午後から曇り。
夕方から、アトリエで製作。最近、以前よりますます、一枚の作品を仕上げるのに時間がかかるようになってきている。本当に小さいサイズの(例えばF20とかF30くらいの)作品を一点つくるのに、平気で3〜4ヶ月かかってしまったりする。まあ、何点かの作品を平行して製作しているし、以前に放棄してそのままの作品に、手が入るようになったりとかもするので、1ヶ月に一点くらいは出来るのだけど、しかし、F20が1ヶ月一点というのは、あまりに生産性が低すぎないか。決して、サボっている訳でも、製作の時間がとれない訳でもないのに。
まあ、ぼくの作品になにかしらの内容(意味)があるとしたら、そのなかにたっぷりと含まれている時間、というもの以外にはない訳で、仕方がないといえば仕方がないのだが。でも、絵画を形式という側面からしか観ない人なら、何故こんなものにそんなに時間がかかっているのか、理解できないだろう。確かに、結果、というか、その見栄え(ヴィジュアル)だけ観て、同じようなものをつくれと言われれば、ぼくだって1〜2時間もあればできてしまう。ぼくの作品に含まれている「 時間 」が、果たして他人にどこまで通じるものなのか、こんなことを今どきやることに何か意味があるのか、という事に関しては、全く自信も確信もないのだけど。
でも、少なくとも絵画というものに対してぼくが信用できることは、現在ではほぼその一点に尽きるのだから、まあ、それに賭けるしかない訳だ。一つの平面が、複数の質の異なる時間の層で成り立っている、ということ。視覚的にはフラット(に近く)見えても、そこには様々な相容れない(不連続な)時間のせめぎ合いが存在していて、穴だらけであること。(穴、を埋めてしまわない、ということにこそ、最大にして細心の注意が払われている訳です。)色彩は、決して純粋なものではなく、物質の色彩であること、しかし、物質であることによってこそ、色彩はある抽象性を獲得することが出来る・・・等々。
こんなことを、自分で解説しても全然意味ないか。こういうのは、あくまでも、ひとつのもの、というか、作品をつくるための、作業上の仮説のようなものでしかなくて、問題なのは実際にどんなものが出来るか(どんな効果を持ちうるのか)、というところにしかないのだから。