目が覚めてお湯を沸かそうとしたら、コンロの火がつかない。何度やっても駄目。
仕方ないので近所のコンビニまでライター買いに走る。午前6時前。まだ暗くて寒い。ライター102円(税込み)。帰りも走る。走りながら、妙に気持ちがいいので、ジャージとか買って毎朝走ろうかなあ、なんて、実現させる気もないことをふと思う。
火をつけてお湯を沸かし、コーヒーをいれる。テレビをつけて音を消し、デレク・ベイリードラムン・ペース『guitar,drums 'n' bass』。まだ早朝だからボリューム低め。いろいろ支度しながらなので、あまりちゃんと聴けず。
きのう、クリント・イーストウッドについて話していて、『トゥルー・クライム』の話になった。『トゥルー・クライム』はとてもいいのだけど、どこが、とういう風にいいのか、と聞かれると、返事に困ってしまう、と。物語はいかにもアメリカ映画的なウェルメイドだし、イーストウッドが演じる新聞記者のキャラクターも、彼が今までに何度も演じてきたような人物。何か目新しいことが行われている訳でもないし、既成のジャンル物として、特別に洗練を極めている、という訳でもない。しかし、このよさが分らないヤツは、ちょっと駄目でしょう、というくらい確信をもって、良い、と言える。
一見、とても単純で"ありがち"な映画にみえるかもしれない『トゥルー・クライム』は、すこし丁寧にみていけば、不透明なまでに錯綜した拡がりをみせているのが分るだろう。物語は単純でも、それは決して単線的に展開しない。
トゥルー・クライム』のそれほど複雑ではない物語を考えると、リズミカルに、無駄な部分のないように撮影=演出すれば、おそらく上映時間100分に充分収まるだろう。しかし、実際は127分の上映時間をもつ。この余分ともみえてしまうかもしれない長さは、決して無駄な饒舌に費やされているのでも、リズムの弛緩によるのでもない。
トゥルー・クライム』はその単純な物語に対して、あまりに多くの登場人物をもっている。しかも、その一人一人が、それぞれ物語上必要な役割以上の厚みと拡がりをもってしまっている。それによって観客はイーストウッド扮する新聞記者や、無実の死刑囚にだけ感情移入して物語を追ってゆくことを禁じられてしまう。ほんの端役にしかすぎないような人物に対してさえ、厚みのあるリアルな人物として演出がなされているので、ひとつのシーンにおいてさえも、常に複数のパースペクティブが存在し、それらが重なりあったり、ズレたり、衝突したりするのをみせられる。どんなシーンでも、観客は一人の人物にだけ思い入れをしてみることは許されない。
例えば、一方に無実の罪を着せられている死刑囚がいて、彼の命は、イーストウッドの必死の行動によって救われるのだが、もう一方では、いとも簡単に殺されてしのうコンビニの店員がいるし、彼女を殺した真犯人である少年も、同じようにつまらないことで簡単に殺されてしまっている。コンビニの店員は単に被害者という役割以上の生々しさをイーストウッドの演出(フラッシュバック)によって浮かび上がらせているので、観客は彼女の死を忘れて、死刑囚の無事だけを簡単によろこべない。犯人である少年にしても、その祖母がとても魅力的な人物として登場し、その孫がいかに可愛かったかを語るし、「 人の命がかかってるんだぞ 」とかいうイーストウッドのセリフに対して、「 ここら辺では、毎日のように人が死ぬけど、あんたみたいな新聞記者は、一人として取材になんかこない 」と言い返す。
この映画のあらゆるシーンは、決してただ一つのパースペクティブに収斂されることはなく、それなりに正当な複数の視点によって混濁している。イーストウッドはその幾重にも折り重なる混濁したパースペクティブを、丁寧に繊細に、そしてフェアな態度で、映画のなかで配置してみせる。にもかかわらず、単純な物語の線を決して見失うことがない。だから、この映画からは、単純な物語につきももの、単純なカタルシスは、徹底的に禁じられる。こんなに聡明な映画監督は、世界中でも彼くらいしかいない。
トゥルー・クライム』に登場するあまりに数多い人物たちのなかで、観客にあからさまに不快感をぬたエル人物は二人しかいない。(牧師と会計士)それ以外は皆、このましい人物とし描かれる。(嫌味なイーストウッドの上司にしても、彼の立場からすれば当然の態度と言える。)職務に忠実で、他人に対しても、自分に対しても、出来得るかぎり誠実であろうとする。にもかかわらず、その立場の違いによって、対立したり衝突したり、あるいは決別したり、せざるをえない。異なる複数のパースペクティブによる錯綜していて不透明な世界。イーストウッドはそれを、アメリカ映画の美点を最大限に生かしながら、描きだそうとしている。