ラース・フォン・トリアーの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』をビデオで

ラース・フォン・トリアーの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』をビデオで。どうもぼくはトリアーと肌があわなくて、『エレメント・オブ・クライム』も『ヨーロッパ』も『奇跡の海』も、最後まで通して観るだけでかなりツライのだった。やっていることの面白さが全く理解出来ない、ということはないのだけど、どうもその面白さに乗れない感じが強いのだ。でも、ここまでくると、かなり面白く観られた。

『キングダム』や『奇跡の海』以降のトリアーを特徴づける「自由に動きまわる手持ちのカメラによる映像」が、いわゆるドキュメンタリー・タッチと呼ばれるような、「自然らしさ」を表象するためのものではないことは分かってはいた。なにしろそこで語られている物語は、(「自然らしい」映像に相応しいような)人々の日常をさりげなく切り取ったようなものではなく、何とも大げさなメロドラマであったりするのだから。しかし、『奇跡の海』などではまだ、その大げさな物語に程よい説得力というか、適度な感覚的な生々しさを与えることの方に奉仕してしまっていたように思えたその映像は、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』では明らかにノイジーな違和感を生成することの方に重きがおかれているように見える。(デジタル・ビデオによる荒れた映像や、苛々するほど不必要に多用されるズームや速すぎるパンなどは、常にこれらが「カメラによって撮られた映像」であるということを意識させる。あるいは「見ようとする意志」を逆撫でする。)これらの映像は、もうはっきりと「どうでもいい」という感じで適当に撮られた映像なのであって、ここにホーム・ムービー的な親密さをみるのは無理があるように思う。トリアーは既に、素晴らしいシーン、素晴らしいショットによって映画を構成しようなどとは考えてはいないのだろう。と言うか、映像の力(見るという行為)というものを信じていないようにさえみえる。映像なんてカメラを回しさえすればいくらでも撮れてしまうのだから、それで充分なのだ、と。この世界は、今やクズのような映像で溢れているのであって、つまりは膨大なクズのような映像の集積こそが「この世界」なのだとしたら、そのクズのような映像を貼り合わせることによってなにがしかの「物語」を構成することこそが、リアルなことなのではないか、という感じなのだと思う。しかし、例えばハーモニー・コリンが、クズのような映像を繋ぎ合わせてクズのような物語を語ろうとするのに対して、トリアーが作るのは「メロドラマ」であり「ミュージカル」であるような映画、つまりかつての映画が持ち得た「大衆性」によって保障されたような、価値のある物語なのだった。このような「価値のある物語」の価値をトリアー自身がどの程度信じているのか、という距離感はイマイチ掴めないのだが、おそらくトリアーにとって重要なのは、その「物語」自体の価値ではなくて、クズのような映像の切り貼りでも何とかかんとか「物語」が成り立つということ、「成り立たせることができる」という事実の方なのだろう。最早、イメージの強度も、物語それ自体の価値も信じられはしないが、それでも物語を語ることは出来るのだ(なんか、『ゴダールの決別』みたいだ)、ということが重要なのだろう。

この映画では、確かに、現実の部分と妄想=ミュージカルの部分とでははっきりと色分けがなされてはいる。現実の部分は自由に動き回る一台の手持ちカメラによって撮られていて、妄想=ミュージカル部分は、100台を超えると言われる複数のカメラのフィックス・ショットのめまぐるしいモンタージュによって構成される。しかしどちらも、どのショットも適当に撮られているということでは大して違いはないようにみえる。それに、必ずしも明確に現実と妄想が仕切られている訳ではなく、例えばセルマが警察に連行されるシーンや、死刑が執行される部屋まで移動するシーンなどでは、妄想の展開によって現実がスムースに進行してゆくようになっている。セルマという人物は、夢見がち(と言うより妄想僻がある)でかなり独善的な人物として設定されているし、現実のパートにもマスターショットと言えるような安定したショットが存在しないこともあって、全体がかなりフワフワと浮遊した感じで、つまり映画全体がセルマの妄想のようにみえなくもないのだ。だから、実はセルマが本当に金目当てに警官を殺したのだが、妄想と現実の区別のつかないセルマの意識のなかではそれがいつの間にか合理化されてしまっていて、この映画のような物語になってしまっているのだ、という風に、読めなくもない、と思える。これはあまりにもひねくれた、意地悪な見方だと自分でも思うのだが、もしこのように読むとすると、この映画は、ある種の傾向のある犯罪者の「内的な世界」を、かなりヴィヴィッドに描き出すのに成功している映画だと言えてしまうように思うのだが、どうだろうか。つまり工場の騒音からリズムやメロディーを聞き取ってしまうように、「どうしようもない現実の断片」から「自分なりの物語=妄想」を紡ぎ出してしまう女の物語、と。