銀座に出る。今澤正・展、加藤学・展、その他。
今澤君の作品は、突き抜けたというか、開き直ったというか、そういう清々しさがあった。ここまで堂々とキャッチーな絵を描いてしまうのか・・・。勿論、キャッチーで清々しくはあっても、単純に出来ている訳ではないことはよく分る。ちょっとオプチカルっぽいと言えなくもない不思議な色彩は、油絵具の層の上から、バステルで描いているそうだ。ほほ同じ明度の異なる色彩で、図と地を構成している。面白いし、観て損はないと思う。(19i日まで、@藍画廊)
加藤学さんの作品は、面白いし、興味深くはあるのだけど、ぼくにはどうしても「 薄味 」にすぎるように思えてしまう。勿論これは、野心的な「 薄味 」である、というのは充分理解出来るのだけど。画面が、豊かな場であることを拒否する、というか、画面を決して充実したものにしてしまわない、という方向性は共感できるのだけど、それがそのまま「 手数の少なさ 」というかたちで現れてしまうのは、危険なことなのではないか、という気が、ぼくはどうしてもしてしまう。カンバスの地が、そのまま残ってしまうことが、セザンヌ的なヤバさに通じるのではなく、日本美術的な、芸、の方へと、どうしても近づいてしまう。それって、どうなんだろうか・・・。しかし、それにしても加藤さんの作品は人気がありますね。
八重洲ブックセンターで、星野智幸『なぶりあい』を見つけ、購入。帰りの電車のなかで読む。
ぼくが勝手にもっていたイメージ(濃厚で端正な文体で、いかにも、って世界を描く人)とは少し違っていて、いい感じにズレているというか、ヘンな小説だった。中上建次、金井美恵子島田雅彦、ボルへス、プイグ、ブニュエル・・・等々という、この人が語られる時にしばしば登場する固有名の仰々しい並び方だけを見て、うんざりしてたのは間違いだった。
アホくさいことを生まじめにやっていて、その生まじめさが、どこかズレている、というか、そのズレ方が何か可愛らしい(失礼)というか。とてもきちんと計算されているという印象がある一方、それと同時に70年代のアメリカ映画を思わせるようなアナーキーなバカっぽさ、ガキっぽさ、いいかげんさ、が感じられて、かなり好きです、これ。(ブニュエルというより、マカロニ・ウエスタンとか、アメリカン・ニューシネマって感じだな、やはり)
あきらかに東京近郊を舞台としているのに、南米的な濃くて粘りのある光線で照明を演出していたり(登場人物も、グランデ、メディオ、プティ、と呼ばれる)、濃厚で諄いともいえる描写の部分と、気持ちのいいアクションの部分とが、ギクシャクしていうまく繋がっていなかったり、するのが、読み始めた時は違和感として気になるのだけど、読んでいくうちに、この分裂というか不連続感が、独自のヘンな無国籍な(宙に浮いた)感じを上手く生み出している、というか、これこそが狙いなのではないか、と思えてくる。
まあ、この小説の『主題』とか『構造』とかは、誰が読んでも読み違えることがないだろう、というくらい明瞭に示されているので、そのことについては触れない。
電車のなかで、表題作をざっと読んだだけなので、作家の星野さんが、どこまで本気でこの幼稚なバカっぽさに賭けているのかは、ちょっと判断がつきかねるけど、なんか思わず期待してしまいますね。登場人物の職業が、翻訳家というのはちょっとわざとらしいようにも思えるけど、多和田葉子よりは面白い(かもしれない)。次に引用するシーンなんか、意味もなく好きです。
『バランスをとるために船首に座ったプティは、わけのわからない歌を歌っていた。その音痴な歌は何だときくと、いまつくったでたらめなアリアだと答える。やがて舟底に寝そべったらしく、遠くくぐもった声が、おお、こうすると空しか見えないや、水に沈んだようなもんだ、舟って棺桶みたいだ、このまま安らかに眠っちゃおうかな、叩き起こされて寝不足だしな、などと断続的に言うのが聞こえた。そののどかな声色がなんとも心地よさそうだし、ちらと見上げた空はあまりに深いターコイズ・ブルーだし、それを映す水も痛烈なプルシャン・ブルーだし、私も竿を投げだして寝そべりたい気持ちに駆られたが、命はおれたちが握ってるんだから、眠ったら川に放り込むからな、とプティに凄むにとどめた。けれど立っていても十分、川の豊かさは享受できた。遮るものなく空から降りそそぐ金色の日と、それを小さな粒に砕いて反射する瓦の形の川面とで、私たちは夥しい光に包まれている。(・・・)低い川中からだと迫り上がって丘のように見える両岸は緑がまぶしく、ありふれた街が洗いなおしたように鮮やかだ。芦の茂みには、保護色の茶緑色のビニールシートで覆ってあるので目立たないが、段ボールハウスがあるのがわかる。脇には白鷺が立って思案している。こんなところに隠者たちが住んでいたのかと私たちは感心し、仕事にあぶれ続けたらあれだねと言いあっているうち、向こう岸へ着いた。』