北風の強い、とても寒い日。上空で風がごうごうと音をたてている。蕎麦屋の旗がばたばたなびくし、ネジの緩みかけた交通標識がぎしぎしいっている。パーカーのポケットに手を突っ込み、ニットの帽子を被って、背中を丸め肩をいからせて、早足で歩く。吹きっ晒しのホームで電車を待つ時間が、やけに長く感じる。
アトリエで製作。今日になってやっと、次の展覧会はこれでいくしかないのだ、と、腹をくくることが出来た。まあ、これでいいはずだ、という確信というか、手ごたえのようなものを、なんとか捕まえることが出来た、ということか。
で、なんとか多少心に余裕ができたので、アトリエの本棚の隅っこから引っぱり出してきて、自分の作品達の前で、宮川淳『引用の織り物』から「 記憶と現在-戦後アメリカ美術の《プロテスタンティスム》について 」と、『大島弓子短編集1』から、「 ほうせんか・ぱん 」を読んだりしてみる。
「 記憶と現在 」は、学生の頃に読んだはずなのだけど、全く内容を憶えていなかった。これを読むと、宮川淳の抽象表現主義に対する理解がとても安直なものなので、当時、抽象表現主義に傾倒していたぼくは、もしかしたら不快に思って途中で読むのをやめてしまったのかもしれない。しかし、戦後のアメリカ美術の流れを、プロテスタント的な禁欲性(イコノクラスムや『恩寵』の否定)のうちにみようとする宮川の論旨は、冷静にみてみればとても興味深いもので、いささか古臭い本になってしまった『引用の織り物』のなかで、唯一現在でも面白く読めるテクストだろう。
宮川淳の論旨はともかくとして、このテクストには、ゴーキーによる次のような美しい文章が引用されている。
『泉への道をわが家から一九四フィートほど行ったところに、父はもう実をつけることをやめてしまったいく本かのリンゴの樹のある小さな庭をもっていた。そこにはいつも影がおおっている地面があって、数えきれないほど沢山の野生の人参が生え、山あらしが巣をつくっていた。青い岩が黒土のなかに半ば埋もれ、そこここに、雲が落ちたようにいく片かの苔が生えていた。(・・・)この庭は《願いがかなえられる庭》とされていた、そして私は母や村のほかの女たちが胸もとを開き、柔らかくたれ下がる乳房を手でつかんで岩の上でもむのを見たものだった。こういったすべてを見下ろして、太陽と雨と寒さですっかり漂泊され、葉をうばわれた一本の大樹が立っていた。これは《聖なる樹》だった。(・・・)私は通りがかりに、着物の端をわざわざちぎってはこの樹にくっつける沢山の人々を目撃したものだ。こうして、いく年にもわたる同じ行為を通じて、まるで風にはためく行列さながらに、これらの個人的署名の記銘が、私の純真な耳にとてもやさしく、ポプラの銀の葉のシュシュというざわめきにこだまするのがつねだった。』
このような、限りなく美しいうっとりするような『恩寵』のヴィジョンは、しかし、自然=故郷=母=ノスタルジー、というイメージでしかなく、現実に実在する『自然』とは、おそらく似ても似つかないものなのだ。
宮川によれば、このような美しい『恩寵』は、プロテスタント的な禁欲性をもつ抽象表現主義によって否定された、ということになっているが、宮川が例に挙げているポロックなどは、たしかにそうだと言えるだろうけれど、例えば、ロスコなどは、ゴーキー的な『恩寵』をむしろ強化させ、洗練させてしまった、と言えるのではないだろうか。(その他にも、ぼくはゴーキーの作品や、上記の文章をみると、ジョナス・メカスによる、本当に美しい映画=断片的イメージ『リトアニアへの旅の追憶』を思い出す。)
ぼくは、ちょっとどうしようもないくらい、ゴーキーやロスコやメカスによる美しいイメージが好きで好きでたまらないのだけれど、あえて、現在において改めて、そのような『恩寵』は、きっぱりと否定されなければならないのだ、と、強く思う。(それがプロテスタント的な禁欲によるものなのかどうかは、分らないのだけれど・・・。ぼく自身は信仰をもっていないし。)
あと、『ほうせんか・ぱん』は、あらためて読みなおしても、傑作。ただ涙、涙。