『ネオリベラリズムの精神分析』(樫村愛子)

●『ネオリベラリズム精神分析』(樫村愛子)。もう本屋に並んでいるのか、まだなのかは知らないけど、著者から送っていただいたので読んだ。まだ一度通して読んだだけなのだけど、大変な力作だと思った。タイトルは、新書であることを考慮してわかりやすいものになっているのだろうけど、『「再帰性」と「恒常性」』というような内容。例えば『東京から考える』(この本は最終章だけ読めばいいような本だと思う)で、東浩紀の発言がやたら説得力があって、それに対する北田暁大の発言はどうしても空疎に響いてしまうという事実はどうしようもなくあると思う。しかし、では、今後の社会は、東氏の言うような方向へ向かってゆくしかないのかというと、それはちょっと納得出来ない、と多くの人が思うだろう。この本は(「あとがき」でも東氏の動物化論の乗り越えという言葉がみられるが)、ポストモダン以降の社会の有り様を、いわゆる「動物化」とは別の可能性として考えるために必要な(社会学というよりも)「哲学」を提示することが目指されているように、ぼくには思われた。(精神分析というと、すぐに、逆説的でシニカルな議論だと思うのは、たんなる思い込みだ。)
●ただ、これは新書という形式の宿命なのかも知れないけど、読み易く書くことが、かならずしも分り易いという結果に繋がらない、ということはあると思う。それは、構想が大きくて、多くの内容が詰め込まれ過ぎていて、特に第四、五章の記述(具体例)が駆け足になりすぎているという点だけでなく、例えば、Xという空項の措定(それはつまり、判断を保留する待機の時間の確保、のことなのだが)のためには、他者という審級がなぜ必要なのか、についての説明(第三章の言語の習得について書かれたところ等)が、あまりにあっさりとしていて、精神分析的な知に親しみのない人には、逆にわかりにくいというか、納得しにくいのではないか、と思える、というような点についてだ。ここは、社会学的な具体的なトピックとは離れた「理論的」な部分なので、あまり突っ込んだ話が避けられたのかもしれないけど、この辺のところがきちんと理解されないと、何故、再帰性が可能になるために恒常性が確保される必要があるのか、何故、幻想(世界や他者への盲目的ともいえる信頼=恒常性)が安定的に作動していることが、現実を受け入れ、意思的に自分を変えてゆく(再帰性)ために必須の条件であるのかという、最も重要な議論の説得力に影響するように思われる。(樫村氏の他の著作を読んでいる人になら、これで充分に通じるとは思うけど。この本を読んで興味をもたれた方は、是非、樫村氏の他の著作を参照することをお勧めする。手に入りにくいと思うけど。)
●興味深いのは、ウィニコットの「移行対象」を引きつつ、社会が変化する時にも、なにかしら移行対象として機能するものがある、という議論だ。例えば、初期資本主義の成立には、一見、それと相反するようなプロテスタント的な価値観が移行対象として機能したように、現在のネオリベ的な社会の成立にも、一見それと相反するようにも見える68年的な思想やポストモダン的思想が移行対象としての役割を果たした、と。68年的な思想のもつ、徹底した再帰性、あらゆる権威や伝統を相対化し、それぞれ個別な選択を重んじる思想が、結果として、あらゆることを自己責任において自己決定させる(しかし、自己決定が可能な「自己」を成立させるための基盤、例えば教育というリスクをカットして)という、ネオリベ的な思想の受け入れを促した、という話はとても納得がゆく。(このような議論は、68年の世代が官僚となっているフランスでは一般的であるそうだ。)このような皮肉な逆説をクールに捉えることはとても重要で、それをみないで、ネオリベ的な社会に対する抵抗として、一種の(68年的な「美しい」)アナーキズムをもってくるのは、有効だとは思えない。ネオリベそのものが一種のアナーキズム(再帰的なもの)であり、であるからこそ同時にその内部に、それへの反動的防衛としての極端な原理主義(「美しい国」のような単純な伝統回帰=恒常性への希求)がヒステリックに要請されている。このような複雑な組成をみないで、一方で徹底した資本の原理を貫くアナーキズムへの抵抗としての共同体主義的なものがあり、もう一方でバカげた伝統回帰(キリスト教原理主義美しい国)に対する抵抗としてアナーキズム自由主義が唱えられても、スローガン以上の有効な批判となることは難しいように思う。
●だが、この本は別に政治思想の本ではない。この本が面白いのは、宗教からオタク、お笑い、メディア的な現状、解離的な現在など、現在我々がおかれているコミュニケーションや文化的なものの有り様が、具体的に記述され、分析されていて、そのような、我々が生きている環境そのものの現状把握のなかから、あり得る可能性が探られようとしている点にある。(作品分析ではなく、フィールドワークなどに基づいていることが社会学であることの利点。)しかしそれが、東浩紀的な、現状認識に終わる(つまり、現状を分析しつつ、こうなってしまうのは必然的で、ある程度仕方が無い、とする)のではなく、現状の必然性を一定の範囲で評価しつつ(評価出来る点を明確にしつつ)、それとは別の有り様を模作する手だてとして、はっきりと精神分析的な知の有効性が示されているという点だと思われる。それが、再帰性を可能にするための恒常性ということであり、わかりやすく言えば「文化」の重要性ということだ。(人間が、他者を世界の「意味」とし、幻想を通じて現実と関わるということの重要性。)文化が重要だ、なんて、何とありきたりのつまらない結論だろう、と思うかも知れないけど、この本を通して読めば(というか、精神分析的な知をある程度受け入れたならば)、「文化」という言葉の意味が、それまでとは位相の異なるものとしてみえてくるはずなのだ。(例えば、コミュニケーション技術によって「文化」が代替されることは現代においてある程度は不可避だが、それは大文字の他者Aを現実的な他者によって代替することであり、その時、文化による蓄積性がはたらかなくなり、一人一人の才覚の比重がより重くなることから、そこから溢れ落ちてしまう人も多くなるし、こぼれ落ちてしまう人を救うことも困難になる。そこでは再帰性の比重が重くなり、恒常性の点で不安定になる。)
樫村氏は、この本の終わり近くで宮台真司の発言を取り上げている。
《宮台は、「新しい歴史教科書をつくる会」とイデオロギー闘争するのもいいが、そんな暇があったら、幹部連中の顔つきに「痛々しさ」「あさましさ」を見出せるように、社会認識のレベルを上げる方が効率的であると述べている。》
例えば、ある選挙の候補者が、いかに口では立派なことを言っていたとしても、ああいう「顔」の奴はそもそも信用できないしバカに決まっているのだ、と判断出来ることこそが、その判断を支える経験を保証するものこそが「文化」というものであり、その厚みであろう。それは、マニフェストをいくら精読しても、政治思想を勉強しても、そこからは出てこないものなのだ。(勿論、マニフェストや政治思想に意味がない、と言っているのではない。)それは逆に、意見や立場はまったく異なるけど、あいつは面白そうだ、という判断も可能にする。
あるいは、一枚の絵を観て、そこから、それを描いた画家にさえ意識されていなかったような微妙な感覚の震えまで感じ取ることが出来るためには、多くの絵を観る経験が、そして時には自分でも描いてみる経験が必要であろう。そのような経験のプールを可能にする「保留の時間」を保証するものこそが文化であり、それが「絵を観る人」としての、その人の固有性をかたちづくる。そしてそのようにして生まれる恒常性こそが(他者Aのように機能し)、新たな現実に対応可能な、高度な再帰性を生じさせる。それは、美術史や美術理論を勉強することとは異なる。(それは、よく言われているような「教養主義」の復権みたいなものとは、微妙に違うと思う。)
●これは、まだ一回さらっと読んだだけの粗雑な感想に過ぎないが、樫村氏の他の著作と同様、書かれていることを反芻して、自分でも考えるために、折に触れて何度も読み返すことになると思う。