「1-5補遺(ゲーム的リアリズムの誕生)」(東浩紀)

●銀座にある松竹試写室に試写を観に行った。試写とはいえ、スクリーンで映画を観るのはすごい久しぶりだ。
●電車のなかで、『文学環境論集 東浩紀コレクションL』のエッセイ編の方の「1-5補遺(ゲーム的リアリズムの誕生)」という部分だけ拾い読みした。自分でも驚くほど、そこに書かれていることのほとんどをすんなりと納得してしまった。あまりにもすんなり納得出来るので、この本の他の部分や新書で出ている『ゲーム的リアリズムの誕生』は読まなくてもいいんじゃないかとさえ思ってしまった。
ここで言われる「ゲーム的リアリズム」というのは解離に親和的な物語の有り様のことであり、それはパラディグマティック(並列的)な構造を常に意識させる。それに対して近代的リアリズム(ここでは「まんが・アニメ的リアリズム」)は、抑圧と親和的であり、サンタグマティック(単線的)な構造を意識させる。ここでは解離と抑圧とが、どちらがより正しいということではなく、その時々の社会において、どちらの勢力がより強くなるかということが言われている。つまり、近代=抑圧からポストモダン=解離へ、ということが単純に言われているのではないようだ。抑圧が優位だった時代から、どうやら解離が優位な時代に移行したようだ、と。しかし、抑圧の時代にも、まさに「抑圧され」ることで見えないものとなっていた解離(小さな無数の人格)は作用していたはずだし、解離の時代になったからといって抑圧がすべて消えてしまうわけでもないだろう。(抑圧が作用しなければ、小さな人格さえも成り立たないので、「解離のポップスキル」は発揮出来ずに、統合失調症になってしまうだろう。)
解離的な、ゲーム的リアリズムでは、ある人物に感情移入(同一化)しながらも、別の人物の視点が常に意識される。あるいは、ある事件のただなかにいながらも、それとは異なる「あり得た別の可能性」が同時に意識される。私は私でありながら別の誰かでもあり得、この事件は別の事件でもあり得た。そこでは、私は、「かけがえのない私」ではあり得ず、私の生は「一回的な取り替えのきかないもの」ではなくなる。つまりそこでは「私の死」の一回性すら否認されてしまうだろう。他でもあり得たという可能性の「幽霊」が、やり直しの出来ないはずの今・ここに常に貼り付いている。これは端的に言えば「輪廻」的ということになるんじゃないだろうか。例えば樫村晴香楳図かずお論(「Quid?」http://www.k-hosaka.com/kashimura/Quid%20.html)で、輪廻について次のように書いている。
《輪廻において、私はここにあり、鳥でもあり草でもあり、時には神でもある。多形倒錯的な、あるいはスキゾフレニックな、身体の細部に宿る幽かな死の感触と動物の記憶が、自己同一性を疑問に付し、記憶と欲望の単線的・現在的時間を解体する。そしてまた反対に、自己同一性の放棄が死を受容させ、去勢を促す。輪廻に従うメタモルフォーゼは、死と共犯し、最終的に死を排除し、人を死と和解させる。》
(おそらくこのような輪廻の体験が、最も高い密度と強度と矛盾とにおいてあらわれるのがニーチェ永遠回帰であると思われる。実際、東氏のこのテキストでも、最後にニーチェ的経験を通俗的に図式化したような、同一の出来事が無限回も繰り返されるかのような(と、東氏の要約からは判断出来る)桜坂洋の小説が引用され、ゲーム的リアリズムでは「死」が描けないという大塚英志の批判の反証としている。)
樫村氏のテキストでは、東浩紀-大塚英志のまんがについての主張とは異なり、まんがこそが一貫して、メタモルフォーゼを通して輪廻を、つまり「解離的リアリズム」を描いてきたとしている。そして、手塚治虫大島弓子高橋留美子などの、優れて解離的、輪廻的リアリズムの作家に反して、例外的に《今を超えて無数に並行する「説話的・分析的」時間》を断固拒否して、近代的リアリズムをうちたてたのが、楳図かずおだ、と。そして樫村氏にしたがうなら、解離的、輪廻的なものが多神教的であり、近代的、抑圧的なものが一神教的だとということになる。
《エジプト第一八王朝のアメノファス四世(アケナトン)が動物崇拝を排除して史上初の一神教を開始し、ブッダが輪廻を拒否してこの現在での時間の停止を宣言した時(ブッディズムと輪廻の混同は広く流布した無知である)、動物とメタモルフォーゼの拒否には、この現在、この自我の価値へのヒステリー的拘泥と、死の恐怖の再定位が賭けられていた。》
つまり一神教の設立は、今・ここ・この私という、限定性、一回性の確保に(つまり「死の恐怖」の定位に)不可欠だということになる。ここで樫村氏が書く多神教一神教との対立は、ほぼそのまま、東氏の書く、ゲーム的リアリズム(解離)とまんが・アニメ的リアリズム(抑圧)との対立と「きれいに対応する」。しかしだとすれば、それはモダンとポストモダンという問題よりももっと大きな、ほぼ人類の文明の歴史を通してずっとなされてきた。ほとんど普遍的といっていいような対立のようにも思われる。
(ただ、この東氏のテキストで納得出来ないのは、伊藤剛の『テヅカ・イズ・デッド』の「キャラ」という概念と東氏自身の「データベース型消費」を結びつけている部分だ。解離とか多重人格とかいう時に重要なのは、そこでは「私」がバラバラに砕けて統合を失ってしまうのではなく(つまり「人格」そのものが成り立たないのではなく)、「私」という統一された人格は破綻していたとしても、その中にある複数の「小さな人格」の人格的同一性は保たれているという点だろう。伊藤剛の「キャラ」はそのような「ちいさな人格」が成り立つ統合された最小単位の記号ことで、それは東氏の(萌え要素のような)「データベースから恣意的に呼び出された記号」という概念をイコールではない。東氏はイコールであるかのように結びつけているが、これらは結びつかないどころか対立する。もしこれをイコールで結ぶとしたら、データベースから恣意的に呼び出された記号が既に「人格・のようなもの(キャラ)」を有しているということになるので、「萌え要素」が組み合わされてキャラ(小さな人格)になる、という東氏の主張は退けられなければならなくなる。伊藤氏の主張を延長するならば、記号の最小単位として「人格・のようなもの」がすでに成り立っているからこそ、それにふさわしい「装飾」が、データベースのなかから選ばれ、纏われる、という話になるはずで、それは東氏の主張よりも、『戦闘美少女の精神分析』などの斉藤環の主張に親和的だ。東氏はこの看過出来ない齟齬を誤摩化してつなげてしまっているように思う。)