●今日一日は、来週に迫った、阿佐ヶ谷美術専門学校(http://asabi.ac.jp/)でのレクチャーの内容のだいたいの流れについて、いろいろ考えていた。テーマは、前にも書いた通り「《思い出す》という経験について」。
思い出すこと、思い出すことによって改めて経験し直すこと、語ること、語り直すこと、語り直すことによって経験し 直すこと、作品を制作するという経験が何かをまったく新しい形で経験し直すことだということ、というか、経験の表現というよりは、経験の新たな構築こそが制作であるということ、それは「良く思い出す」ための技法であるということ、そしてそれは、人の語りを聞くこと、読むこと、作品を観ることという経験、何度も読み、何度も観ることによって経験し直すということもまた、制作と同様の行為であること、などについて、つまりは、「思い出す(想起・虚構・反復)」ことこそが、「現実(今、ここ)」を支えているのだということ、少なくとも想起と現実とは同等の強さをもつのだということ、いやむしろ、想起することは現在-現実を切り崩しさえするのだということを、ピエロ・デラ・フランチェスカ、マティス、ステラ、ルイス、マーデン、小林秀雄、大江健三郎、スピルバーグ、ゴダール、山下敦弘、チェルフィッチュ、磯崎憲一郎などの作品図版、講演の音声CD、DVD、テキストなどを通じて考えてゆく(具体的な作家、作品はまだ流動的)というような内容になる予定。
火曜日の午前中(30日の10時30分から12時30分)という、おそらく学生もあまりあつまらないだろうというような時間ですが、もし、興味があって参加したいという方がいらっしゃれば、(大学の大きな教室でやるのと違ってバレずに「もぐる」ことは出来ないので)ぼくのところにメールでお問い合わせ下さい。まあ、当日、勝手に来ちゃったりしても、追い返したりすることはないと思いますが。ハードに理論的な話じゃなくて、基本的に、二十歳前後くらいの実作を志す学生に、普段あまり触れていないだろうと思われるような作品に触れてもらうということが主な目的となります。
●改めて「風の又三郎」を観たのだが、やはり微妙に口の動きと音がズレている。いや、ズレているという程のこともなく、音楽番組とかで歌手が実際に歌わずに口パクだと、明確にズレているわけではないくても、どうしても口の動きと音とに違和感のようなものが見えてしまう、というくらいの、ほんとに微妙なズレで、気にしなければ気にならない程度のズレであるかもしれない。もしかすると、普通に会話するような台詞のやり取りならば、まったく気にもならなくて、朗読だからこそ気になってしまうという程度のズレなのかもしれない。コマ数の少ない動画で生じてしまうようなズレ。これがとても面白いのだ。こんな微妙なズレを仕掛けることで、それだけで、人物を幽霊化してしまう黒沢清はすげえ、と思ったのだった。このズレが、実際にはコピーする段階で生じてしまったノイズなのだとしても、ぼくにとっては、このズレのもつインパクトはとてもリアルなものだ。