日曜日の朝っぱらから、東大駒場寮のホーム・ページなんかを見てるってのは一体どういうこと。勿論、理由があってのこと。
暖かくなってきたせいか、天井裏でまたもやネズミの走り回る気配。まだ部屋に侵入してきた形跡はないが、そろそろ臨戦体制を整える必要があるかも。Macが部屋に来てから、やたらと複雑な配線が部屋中を駆け巡っているので、齧られて断線、ということがもうないように気をつけなくては。
午前中に洗濯をする。あいまにすこし眠る。午後から買い物。
NHKのBSで、ルーマニアの女子体操のドキュメンタリー。北欧とか東欧とかロシアの一部とか、その辺りの地域にとって体操(特に女子)のもっている意味は、得意なスポーツの1種目、という以上のものがあるように思う。その地域特有の、ある特別なイメージ、のようなものに関わっている。だから多分、中国の選手などが、いかに身体的、技術的に優れていたとしても、それとは全く違う何かがあるように感じる。(勿論、スポーツなのだから、客観的な採点基準というものがあって、それをオープンにした上で、みんなが同一平面上で競走するということなのだが、しかし・・)
現実に生きている少女の身体そのものが、そのままある種のフォークロアを実現してしまっているような感じ。
あるローカルな1地域が、少女の身体に対して要求するイメージは、ひとつの超越性、天上性のようなものと深く関わっている。生きている人間の身体でありながら、それはほとんど抽象的で、重力に逆らうような軽やかなイメージとの一致を期待される。そのイメージそのものは限りなく美しいものではあるのだけど、それを実現することを強いられる少女たちを、苛酷な『枷』でぎっちりと縛りあげてしまう。(世俗的な成功の約束を担保にすることで、はじめて実現する、超越的、天上的なイメージ ? )他人が期待するイメージと、実在する身体が、ぴったりと重なってしまうことの、奇跡的な美しさと、とてつもない恐ろしさ。
努力家で知られる、国内でも無名だった選手が、ある大会をきっかけに、国際的に注目されるようになるまでを追ったこのドキュメンタリーのラストで、自信に満ちた顔でインタビューに答える、この17歳の女の子の顔が、ほとんど『権力』という言葉と重なって見えてしまって、かなり恐いものがあった。あと、ちょっと思ったのだけど、体操に対する、新体操というものの位置は、どうなっているのだろうか。歴史的にとか、現在の布置とか。一見、新体操の方があからさまに『芸術性』への指向を露にしているように見えるのだが、ぼくにはかえって、体操の方に、より濃く、強く、超越的なもののイメージが染み付いてしまっているように感じる。まあ、無知の者のいいかげんな感想でしかないのだけど。