展覧会、3日目。結構、へとへと。頭痛と肩凝り。
家で朝食(と言ってもカップめん)をとりながら『花まるマーケット』を観ていて、日比谷線の事故を知る。展覧会に来た友人に、デジカメで撮った、事故の写真を見せてもらう。もし早起きしてたらあの電車に乗ってたかもしれない、と言っていた。
会場へ向かう電車のなか、今日は、ウェイン・ショーターの『SPEAK NO EVIL』と、スティビー・ワンダーの『TALKING BOOK』を聴く。どちらかを読もうと思って、田中小実昌の『イザベラね』と柄谷行人の『倫理21』を持っていったのだけど、本を読めるような頭の状態ではなく、かといって眠れる訳でもなく、ただじっと目を瞑って音楽を聴いている電車のなか。
大学時代の知人が来て、鼻先で、フッ、と笑い「 雲をつかむような絵だね。」と、かなり軽蔑を込めた口調で言った。
まあ、これは相当的確な指摘ではある。確かにぼくがやろうとしていることは、『雲をつかむ』ことなのだ。おそらく知人は、そんなあやふやなことやってたって、成果はあがんないよ、と冷笑的に忠告してくれたのだろうけど。でも、少なくとも彼には、ぼくのやろうとしていることがかなり正確に伝わったのだから、それだけでも大したものでしょう。
雲をつかむようなこと、を、あやふやにではなく、出来る限りクリアーに、実現したい。
本当は、ぼくが『雲をつかむような』ことをする、のではなく、ぼくの絵を観る、という行為が『雲をつかむような』ことであってほしいのだが。目の前に実際に作品があるにもかかわらず、それを観ることで、それが本当にその位置に実在しているのかあやふやに思えてしまうような、絵と、観る人との距離の変化や、注意の向け方ひとつで、その作品が全く別の表情をもったものとして、見えてしまうような。
人間のもつ、感覚器官と情報処理能力の容量を超えた情報量をもつ作品、とでもいうのか。たかだか一枚の平面でしかない絵画が、時間や空間を含みもつ、というのは、そういうことでしょ。多分。