展覧会、4日目。とても寒い日。
久しぶりにたっぷりと眠った。昨日11時に寝て、今朝9時前まで。途中で何度か、目がさめたけど。疲れてはいるのだけど、なんとなく気がたっていて眠れないときは、適度な音量の持続する音が聞こえているほうが眠り易いので、午前3時頃目が覚めたとき、テレビをつけて、音量を、音は聞こえるけど、言葉の内容は聞き取れない、くらいに調整して、つけっぱなしで寝た。よく眠れた。
展覧会場までの電車のなかで、今日は、ピチカート・ファイブ『ベリッシマ小沢健二犬は吠えるがキャラバンは進む』。『ベリッシマ』は田島貴男のピチカート時代唯一のアルバム。多分、田島貴男としてはやりたいこと中途半端だろうし、ピチカートとしても過渡期的な感じ。でも逆に個人的にはその半端さがとても好きです。ぼくにとっての《癒し系》アルバム。まあ、何よりも、若い頃の田島貴男の、なんともいえない声が好きなのだけど。イメージとしてはソウル・ミュージック、フレンチ風味という感じか、でもなぜそれでタイトルがイタリア語 ?。
ぼくの作品は、描いているとき、木枠に麻布をきちんと張ってなくて、仮留めの、ゆるゆるの張りの状態で作業をして、ほぼ出来上がった時点で張り直すので、作業中、水を吸ったりした麻布が伸びたり縮んだりしていて、どうしてもきれいには張れずに、シワや弛みがのこってしまう。シワや弛みを、意図的につくっている訳ではないけど、作業の行程の必然性によって出来るのだから、これには当然意味があると思っている。むしろこれを消してしまって、きっちりきれいに張ると、嘘くさくなってしまうし、それまで自分がしてきた行為に対する裏切りになってしまうと考えている。
でも、人によっては(特に平面の作品をつくっている作家の方などが特に)この弛みがとても気になる(気にさわる)らしく、これはきちんと張るべきじゃないの、としばしば指摘される。つまり、弛みやシワがあると、支持体の物質性が露呈してしまって、絵画が絵画として完結しないからだ(別の意味をもってしまう)。しかし、ぼくは支持体の物質性や構造まで含めて絵画だと思っているし、ぼくの作品はそれらの要素がなければ描きはじめることも出来ない。(ぼくは物質や構造に依って描く)
弛みについて突っ込まれたとき、だいたい上記のような説明をした後、ふと、『ぼくの作品は《弛み(垂るみ)系》だから・・』という言葉が口から出てしまった。でも、《たるみ系》って結構イイ感じの言葉かも。
今日は、やけに人から物をいろいろ頂いてしまって、帰り道のカバンが、重い、重い。
Hさん、ちゃんと家まで無事にたどり着けましたか ? 。